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【見立て・ごっこ遊びの心理】模倣・認知的再評価【感情知性教育】

【見立て・ごっこ遊びの心理】模倣・認知的再評価【感情知性教育】

“わたし”の発達―乳幼児が語る“わたし”の世界
“わたし”の発達―乳幼児が語る“わたし”の世界』岩田純一

この記事のまとめ

まねっこは、学びのメタスキルです。

まだ自分の中に「人間のレパートリー」がない状況で、一番効率よく学ぶのは「真似をする」ことです。

0歳:コピペ模倣時代

新生児模倣・共鳴動作 大人の表情など真似る。舌を出したら、舌を出し返す。
情動伝染 隣で泣いている子がいたら自分もなく。

生後9ヶ月頃には、分節化した音声というより、おとなの発話のメロディーパターンをなぞるといったことが特徴的に見られる。さらに、それらのメロディーパターンをなぞると言ったことが特徴的に見られる。さらに、それらのメロディーパターンをおとなの発話の意味脈絡と結びつけて模倣しているのである。乳児はそのメロディーパターンの発生をおとなと同じような意味脈絡で使うのである。注意喚起とか要求の場面では語尾の上昇する子どものムニャムニャ発声がみられ、抵抗や譲歩では語尾が下降する発声が頻繁にみられ、呼びかけや叙述には平坦な発生がみられる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』p.16)

1歳:まだまだコピペ模倣時代

共感度(情動調律)が高い状態の相手をなぞるようです。

相手が「ねんねは」といってやると寝転んだり、自分で「ネンネ」といって寝転ぶ。

転んだりして泣いたら、「イタイのイタイのとんでいゆけ〜」と笑うと、ニッコリ笑う。

母親の振る舞いをじぶんも同じようにまねるといったことが、生後1年目の終わりから活発にみられるようになってくる。ヘアーブラシを使っている母親を見てじぶんも同じように真似てやってみるといった模倣である。このような模倣を通して、事物の社会ー文化的な意味を学んでいく。このような母親の行動のなぞりだけではない。母親が外界に向ける態度や評価をなぞり、じぶんの行動の指針として参照するようにもなる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』p.15)

情動感染

上記の遊びは、イッセイが始めた、頭の上に絵本を乗せて「トラック!」と言って走り回る姿がきっかけとなって開始されています、わずか数秒の間に他児に同じ行為が伝わり、一瞬のうちにその場を楽しい雰囲気が包み込んでくれました。こうした現象は、「遊びの電線」とも呼ばれて降り、子どもたちの間に集団の内と外に関する境界意識(「誰がこの遊びの正当な参加者であるのか」というメンバーシップに関する意識)が成立する以前の初期の集団形成のあり方として考察されています。さらに、この種の遊びには、特に意識的な統制もない状態で、ある人の気分や行動が伝染していく原初的な手段的行動(パニック時の群衆の行動や流行現象、動物で言えば魚群の運動や鳥の群れの飛行など)に近い要素があるとも指摘されています。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.71)

2歳:ごっこ遊び再現試行錯誤時代

2歳近くには、一人二役的な対話遊びが見られるようになる。先の交代遊びのように実際の他者との役割交替ではなく、表象の水準における他者と役割を交替して遊ぶ行動である。たとえば、女の子がミニチュアのお皿に積み木を乗せて「はいどうぞ」と渡すふりをしてから、つぎに受け取る側になり替わって「どうも」「おいしい」と食べるふりをするといったふうな遊びである。これは自己が他者になり、他者が自己になりながら可換的に役割を交替して対話する遊びである。このような交替活動のなかで、自己と他者の視点(立場)の相対的な違いがはっきりと把握されることになる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』p.4)

私的な世界の誕生とは、他者から隠す(騙る)自己と、他者に示す(語る)自己への二重化でもある。自己のうちにホンネとタテマエの分かれが始まるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』p.5)

ごっこ遊び

自分がなりたいものになれない不満や葛藤を表現し、演じ、無意識に解消している。

情動を再現、追体験している。

新幹線を動かしたい。お母さんになりたい。あこがれ。

ごっこあそびですが、近くの友達と「役割分担」することはまだできません。

友だちと一緒にいるが、お互い関係なくそれぞれあそぶ。平行遊び、といわれています。

他者を再現する(内なる自己)

自分がやってもらったことをする。(他人を自分に移し替える)
寝かしつけてもらった体験で、自分も人形を寝かしつける。(自分を人形に移し替える)
延滞模倣。保育所で、お母さんの真似をする。(なりきることができる)

 

ルージュテストとは、いつのまにか顔につけられたシールを剥がす時、みせられていた鏡に手を伸ばすか、自分の現実の顔に手を伸ばすか、という実験です。

ルージュテストで自己像の認知が多くの子どもにとって可能になってくるのが2歳頃である。しかし、そのような認知を示しても、まだ鏡の後ろへ回り込むという反応がみられ、それが消失するのは2歳半ばをすぎる頃であるという。(略)2歳になる頃には、視覚的な自己認知が安定をみせる1つの時期であると考えられる。この頃、いわゆる一人二役的な対話が遊びの中で特徴的にみられるようになる。1人2役的対話とは、子供が過去に具体的な他者とやりとりした対話をじぶん一人で再現するといった遊びであり、ワロンはここに自己内での内なる他者との対話の萌芽を見ている。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.27)

模倣から自立へ

1歳や2歳前後では、子どもどうしは言うに及ばず、母親との会話的やりとりも難しい。母親からのことばかけを単にオーム返し的に反復するといっただけである。例えば「ねむたい?」の問いかけに「ネムタイ」と、先行発話を反復する応答は、そのことを象徴的に示している。(略)しかし、自我の芽生えることにはそれまでとは違う変化が現れてくる。ある2歳4ヶ月児のエピソードを例にあげよう。母親の「眠たい?」の問いかけに、思わず「ネムタイ」と反復的に応答した後、まだ寝たくないのか「チガウ チガウ」とあわてて言い直す。この頃にも、まだ反復的なやりとりがみられる。しかし、しだいにじぶんなりの声(ことば)で応答しようとするようになってくるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.35)

模倣による学習

ある2歳児クラスの子どもが、わたしのそばにやってきてじぶんの持ち物を見せると、他児もつぎつぎに「ほら、これこれ」「みて、これわたしの」「ぼくのこんあんよ、みて」といった調子で、ピカチュウや人形や、TVキャラクターの描かれているハンカチ、じぶんお靴下の絵柄などを見せにやってくるのである。3歳児クラスの子どもたちも、じぶんが何かに見立てて作ったものを「みて、みて」と、誇らしげにつぎつぎと見せにくる。しかしながら、まだ他児と競い合うというよりは、じぶんのものを見てもらうために自慢げにもってくる感じである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.52)

2、3歳児とかかわっていて気づかされる特徴がある。子供の一人に何かをつくってやるとか、絵本を読んでいると、「ぼくもつくって」「わたしもよんで」と、ほかの子どもたちもつぎつぎにやってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.165)

どうやったら人と関われるかまだわからずに、物を媒介にして、気持ちを共有するのでしょう。

 

3歳の自己形成

3歳頃になると、子どもの振る舞いや周囲の人びととのかかわり方に、急激な脱皮が始まる。たとえばある女の子は、1人2役対話を突然やらなくなってしまった。自分をいろいろな人に見立ててあそぶのをやめて、自分の絶対的な視点を立て、恒常的に存在する特定の自分という視野の下に、他者を自分との関係で位置付けるようになった。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.29)

2歳前後にも口まねをする時期があった。それは反射的な行動だったが、この期の模倣は、オトナのことばをまねすることによって大人に近づこう、一層自分の知識を抱負にしようという欲求を持ってのそれである。そのためごっこ遊びも、よく観察しておいた大人の様々なしぐさのまねだったりする。

新しい経験は必ず彼らのごっこ遊びで反復され、自分の身につけていくのである。*「Sチャン ワザワザドウモアリガトウ」

 

ごっこあそび。日常では再現されそうにないことで、でも知っていることを使うことができる。趣味レーションして、新しい状況を楽しむ。相手の反応をみて、それに柔軟に答える。相手と一緒に物語を進めて行く。暗黙の約束に気が付いて行く。ごっこあそびのなかで出てきたトラブルも、ごっこあそびの中で解決しようとする。

 

感情の追体験

感情の解消

振る舞いの学習

言語の発達

 

社会性の発達

友達との掛け合い

 

情動などの内的状態についての会話が、友だちやきょうだいと一緒にいるときには親といるときの二倍となり、その多くはごっこ遊びでなされていること、またごっこ遊びをするほど情動の理解度が高い。(『よくわかる情動発達』p.59)

【ごっこ遊び】真似をして学ぶミラーニューロン

SQ生きかたの知能指数

『SQ生きかたの知能指数』ダニエル・ゴールマン

この記事のまとめ

テキストが選択されてませんでした

真似をすることは、「学び」であって、情報を共有するひとつの方法だ。体のレベルで真似をするかとおもえば、心のレベルでも真似をして、相手の心の状態を推し量る。

ヒトがまだ木に登っていたり、動物に食べられていたころ、仲間の誰かが「やばい」ものを見たときの感情に同調して群全体が警戒態勢に入る、といった働きがあったに違いない。

ちなみにミラーニューロンがたくさんある運動前野と呼ばれる脳の部分は前頭葉にあります。ストレスに一番弱いところですね(ストレスを処理する場所なので)。

 

子供達は、お母さんになったり、ヒーローになったりしながら、いろいろな感情を経験している。いろいろな心を味わうために、「ごっこあそび」をしているのかもしれない。

心を真似る。心を読み取る。

人間の脳には物まね以外にもさまざまな機能をもつミラー・ニューロンがあり、意図を読みとる、 他者の行動から社会的含意を推論する、感情を読みとる、などの働きをする(略)

ミラー・ニューロンは、感情を伝染させる。目で見た感情をその人の中に喚起させる。この働きに よって、わたしたちは状況に同調してついていくことができ、他者と同じように感じることができる。 人間は、他者の感情を、動きを、感覚を、情動を、自分の内部で起こっているかのように感知するこ とができる―きわめて広い意味で他者を「感じる」ようにできているのである。 社会的スキルは、ミラー・ニューロンの働きにかかっている。ひとつには、他者から読みとった情 報を自分の中で再現することによって、迅速で的確な対応をする能力。もうひとつには、動作の意図 を嗅ぎつけただけでニューロンが反応し、そこに働いている動機を探知する能力。他者の意図――そしてその理由―を感知する能力は、きわめて貴重な社会的情報をもたらしてくれる。この能力があるおかげで、次に起こることに一歩先んじて備えることができるのだ。

ミラー・ニューロンは、子供たちの学習においても非常に重要な役割をはたすと思われる。昔から 「まねび」が「まなび」に通じる、と言われてきた。ミラー・ニューロンに関する発見は、子供たち が見るだけでものごとを会得できるしくみを説明してくれる。子供たちは、見ることによって、感情、 行動、社会のしくみなど、さまざまなことを自分自身の脳に刻みつけているのだ。

人間のミラー・ニューロンはサルのミラー・ニューロンに比べるとはるかに柔軟性と多様性に富ん でおり、人間の高度な社会的能力を反映している。他者の行動や感情を模倣することによって、ミラ ー・ニューロンは外の世界を内側に取りこみ、感覚の共有を可能にしてくれる。他者を理解するには、 少なくともいくらかはその人に似た状態になってみる必要がある、ということだ。人間は他者の行動 を神経言語に翻訳し、それと同じ行動に備えたり同じ経験をしたりすることによって他者を理解する ――心の哲学の分野では、最近こうした考え方が注目されている。他者の経験をまるで自分が経験し たように感じることのできる神経の働きは、こうした考え方にも合致している。 ー つまり、人間は相手の行動の鋳型を自分自身の脳の中に作り、そうすることで相手を理解する。三 ラー・ニューロンを発見したイタリア人神経科学者ジャコモ・リゾラッティは、「わたしたちは概念 的な理屈によって他者を理解するのではなく、直接的なシミュレーションによって他者を理解するよ うにできている。考えるのではなく、感じることによって、他者を理解するのだ」と説明している。 これは「裏の道」の働きだ。 二人の人間の脳内で並行して回路が働くと、二人は瞬時に共通の感覚をもつことができる。このように相互に反響しあっている状態を、神経科学では「共感的共鳴」と呼ぶ。二人の人間の脳と脳が回 路で結ばれている状態だ。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.)

 

 

ごっこあそびのチカラ!認知的再評価の能力『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

ながながしいが、引用。

困難に際して、マシュマロ実験で子供たちはただただ我慢をしたのではなかった!!

つまるところ、想像力を使って、目の前に立ちはだかる困難を「操作」すること。
ファンタジーの世界を「使って」現実の困難を、なんでもないこと、にするチカラだ。
ゲーム化するチカラ、といってもいい。

ーーーーーーーーー

ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られているが、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約すると、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。
しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のうち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんどの子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、超人的な意志力を示した。
驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲームに見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟としてではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生たちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてきた。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところがゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。
たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう(ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカインから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカインを吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜか?

 それはあなたのストーリーと一致しないからだ。

私はコカインを吸うような人間ではない、と認識しているのである。そしてあなたはコカインがいらないさまざまな理由を思いつくだろう。あなたは目を閉じ、拳を握りしめ、お願いだからコカインを持ち去ってくれと懇願するだろうか? そんなことはしないだろう。コカインを拒絶するのに、意志力を働かせる必要がまったくないからだ。
ところがこれが、肉汁のしたたるステーキだったらどうだろう? しかもあなたがステーキに目がなく、とくに空腹だったら? あなたが採食主義者でないかぎり、葛藤が生じ、意志力が消耗される。が、ここで自分に語るストーリーを変えてみると、ステーキを断っても意志力をまったく使わずに済む。ストーリーを変えれば、あなたの行動を変えられるのだ。そしてゲームも別の種類のストーリー、それも面白いストーリーだ。
空想話は楽しいが、ここで人生の話に戻ろう。仕事はなぜ面白くないのだろう? じつはその答えは極めて単純だ。今日私たちの知っている仕事はつまらないゲームだからだ。

ーーーーーーーー

よく、心理学の領域でも「言葉にして、物語ること」「物語を書き換えること」が行われる。
今見ている世界の見方を変える。空想の世界、ゲームの世界、ありもしない「モノ」に目の前のものを置き換える。
そう思い込んで、浸る。

そうすると、心をすり減らさずに、意志を持続させられる、という。
いやぁ、勉強になりました。

よく引き合いに出してしまうが(それほど僕にとっては印象的なのだが)、DVをDVだとおもわない人(実は星の王子様を書いたサンテクジュペリもその一人)、学校の課題を当然のものと受け入れてしまう人は、きっと、それなりの空想に浸っているに違いない。

そうおもうと、誰もが、それぞれの空想の中で生きているのだ。
そうおもうと、現実も、虚構も、同じものなのかなとおもえる。

自分のストーリーを生きよう。
ただ、そうやってあそんで、明けて、暮らしていくのが人の性。

遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ

『梁塵秘抄』

誰に何を言われようと、もし思い描いたファンタジーのなかで、他の誰かが、誰かが笑ってくれるのをみたなら、
誰に何を言われようとも、たった一度きりの命、つないでいく命、燃やさない手はない。と、僕はおもっている。

そこにビジネスマインドが入る余地があるか!?

ーーーーーー

新しい知見を得ました。こちらもどうぞ!
マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。
【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?

【量的拡大による質的変化】「ごっこ遊び」は2歳・3歳の演習課題!

子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て
『子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て』

質的変化のための量的拡大

みたて・つもりは「生活の鏡」

この時期の子どもたちの遊びには、生活のなかでの喜びが満ちあふれています。葉っぱをしいて、砂をのせて、それをトントン叩いているので、「何つくったの?」と問えば、「カレーライス」と応えてくれます。お皿をたくさん並べているので、「何してるの?」と問えば、「おみせやさん」と応えてくれます。きっと昨日、おかあさんとカレーライスをつくったのでしょう。ニンジンの皮をむかせてもらったり、ジャガイモを切らせてもらったのかもしれません。そのカレーライスをおとうさんが、「おいしい、おいしい」といって、喜んで食べてくれたのでしょう。たとえばこんなカレーライスのみたて・つもり遊びには、子どもの伝えたい経験や感情が隠されています

子どもは、一歳で生まれた「しごと」への憧れの心を一つひとつかなえながら、みたて・つもり遊びを、だんだん豊かにしてきたのです。みたて・つもり遊びは、一歳になったら、一歳児のように、たとえば人形にお布団をかけてトントンするような、一こまの生活を直接映し出す鏡ではありません。子どもの伝えたいこと、つまり自分が主人公になった経験や感情が込められている、子どもなりの主題を感じさせるみたて・つもり遊びに発 展してきているのです。みたて・つもり遊びは、イメージの製造工場です。伝えたい経験 があるからこそ、日の前にないものを再現したり、想像し創造するイメージの世界が、豊 かになっていくのです。そんな、伝えたい生活を、子どもといっしょにつくりだしていくことが、保育のたいせつな役割といってよいでしょう。

二つを結びつける表現

二、三歳の子どもたちに育つたいせつな二つの力が、みたて・つもりの世界をいっそう豊かにしてくれます。そして、みたて・つもり遊びのなかで、この二つの力はいっそう敏えられていくことでしょう。その一つは、二つのことをつなげる力です。二、三歳児のみたて・つもり遊びをみていると、たくさんのお皿を並べたり、お盆にお皿をのせたりすることが、飽きることなく続 けられています。そして、並べたお皿のそれぞれに、交互に砂を入れたりすることでしょう。あるいは、丸めた粘土に割り箸を突き刺し、お団子をつくったり、蛇をつくって、とぐろを巻かせたりするかもしれません。積木を与えるなら、いくつかの積木を並べて、その先頭に運転席のように、もう一つの積木をのせることでしょう。トラックのできあがりです。えんぴつを手にするなら、横に引いた線に縦の線を交差させて、「病院の印」を書いてくれるかもしれません。閉じるようになったマルがいくつもつながっていくことでしょう。しかも、トラックや十字のように、縦と横という二つの異なった方向を結びつける表現ができるようになっているのです。

二、三歳の遊びや表現のなかには、一つの活動や一つの表現をつなげていく力が、たくさん発揮されているのです。「○○してから○○する」とでも表現すべき活動でしょう。この二つの異なることをつなげる力は、表現活動のなかだけでみられるのではありません。二歳になると、「朝の会が終わったら、散歩にいくの」、「散歩から帰ったら、お昼ごはんの用意をするの」と、自分で考えて、本当の自分の意図で見通しをもった生活がおくれるようになっているはずです。つまり「○○してから○○する」です。これを、生活における順序の思考とでも表現しておきましょう。おそらく、これから先の幼児期の認識発達にとって、たいせつな土台になっていく力です。

左右の手の役割分担

二、三歳児のあそびには、自分の手のなかに、新しい力の育ちを感じはじめた喜びが躍動しているようにみえます。砂の入った器を左手に持ち、右手に持った小さいスコップで、 その器から他方の器に移しかえたりします。折り紙の端を一方の手で押さえ、他方の手で 折って、ていねいに折り目をつけようとします。

みたて・つもり遊びを豊かにしてくれるもう一つの力は、左右の手が区別された役割をもって、ひとつの活動をつくりあげられるということです。生活のなかでも、たとえば一方の手でさつまいもを持ち、他方の手でその皮をむこうとすることでしょう。しかし、二歳では、一方の手は、まだ持つ・支えるというような役割を担っているだけの段階です。

だから、ハサミで紙を切ることはできますが、紙を持っている手で、紙の向きを調節するようなコントロールはむずかしいことでしょう。左右の手が異なった操作をしつつ、一つの目的のために活動がまとめあげられていくのは、四歳になってからです。この両手が区別された役割をもって、一つの活動をつくりあげることを、両手の分化と協応といいます。二、三歳はその芽生えの段階といってよいでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.117)

飽きるまで!気がすむまで!味わい尽くす!

マルに託す伝えたい思い

二歳中ごろから、子どもたちはクレヨンを持てば、閉じるようになったマルを、紙いっ ぱいに書き連ねてくれるようになります。子どもははじめそのマルをじょうずに書くことに一生懸命でした。あるいは、そのマルをふたつ使って、「おかあちゃん」と「じぶん」という関係、つまり「大きい―小さい」関係を表現してくれたかもしれません。

しかし、いつまでもマルをじょうずに書こうとしたり、大小の対の関係を表現しようとはしません。すぐに、そのマルが「ファンファーレ」のように、紙の上につながっていく のです。「あかちゃんのおべんとう、おとうちゃんのおべんとう、おばあちゃんのおべん とう」などと、同じようなことばをつなげながら、一つひとつのマルに伝えたいことを託した意味づけがなされ、その伝えたいことが次々つながって、紙いっぱいに広がっていきます。マルという車にのせられ、伝えたいことがまるでラッパの先からあらわれる「ファンファーレ」のように、次々躍り出てくる発達段階なのです。自由に表現できる喜び、伝えられる喜びを、子どもはマルを書くことによって、かなえられます。このように、発達の道すじには、同じことのくりかえしのようでも、そこにたくさんの願いが託されている。

活動の量的拡大の段階があるのです。そのなかで、子どもの伝えたい願いと、伝えたいことはいよいよ大きく強くなり、やがてマルだけでは表現できないくらいに、なってくるでしょう。そこには、伝えたいことは量的に拡大しているのに、伝える手段が限られているという矛盾があります。その矛盾をのりこえていくことによって、きっと新しい表現手段が生まれてくることでしょう。それが、発達の質的変化ということです

保育や教育は、この量的拡大のときにマルをじょうずに書くことを教えたり、すぐ四角を書くことに人ろうとしたり、マルを使って顔や人が描けることを求めたりはしないでしょう。一つひとつのマルに託されている子どもの伝えたいことを、子どもの伝えられる喜びに心を寄せつつ、感じ取ろうとするでしょう。マルの躍動を援助することこそ、この発達段階でのたいせつな指導の一つなのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.120)

 

量的拡大が質的変化を起こす、ということは、大人でも同じ。

数学は、暗記か?【宮台真司の体験から】

横への発達・縦への発達

学校にいくと、どんどんすすむ。

それは、暴力ですからやめてくださいね。

「宿題をやらせる」のも、暴力です。

やめてくださいね。

「発達の最近接領域」とは、子どものなかにある子どもの願いと現実の自分の力の矛盾、子ども本人が心に抱いている現実的な矛盾を内包しているということです。指導は、その矛盾を組織し、その矛盾にはたらきかけるものなのです。加えてもう一つ、このような「発達の最近接領域」をとらえ、そこにはたらきかけていくことよりも、今もっている子どもの力をたくさん発揮させ、その横への広がり、量的な 蓄積をたいせつにすべき発達段階もあるのです。

この三歳後半に先立つ、二歳後半から三歳にかけての発達段階は、たとえばその表現にマルが広がっていく「ファンファーレ」の時期であると、第8章「二、三歳のことばと葛藤の心」で述べました。その時期は、たった一つの表現手段で、「さっちゃんのおべんと う、たまごやき、ハムも、トマトものってるの」などとたくさんのうれしいことを相手に 伝えようとするような、典型的な広がりの時期なのです。そこで、伝えたいことがたくさん生まれ、そしてそれをおとなに受けとめてもらう喜びも、積み重なっていくことでしょう。その伝えたいことをのせ、伝えられた喜びを運びだしてくれるのが、マルの量的拡大 なのです。

このとき、保育や教育は、マルを卒業して、四角や三角を書くことに子どもを急がせて はならないのです。この伝えたい願いと伝えたいことが量的に拡大し、今のマルという表現手段だけでは、その役割を果たすことができなくなったとき、子どもは、自分から新しい質をもった表現手段を、自分のものにしようとするのですから。つまり、伝えたいことの量的な拡大が、その限られた表現手段と共存できないほどに、矛盾をはらむようになっ たとき、そこにはやがて、発達の質的な変化がひきおこされるようになるのです。 このように発達には、一歩まえから「発達の最近接領域」にはたらきかけることがたいせつな時期と、その前段階として、今もっている力を思う存分、そのたいせつさをわかっ てもらえる関係のなかで発揮することがたいせつな時期と、交互にあらわれるものです。 その発達の道すじにある法則を知っていることが、きっと、子どもの願いと、保育・教育 の指導がかみ合うためにたいせつでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.163)

「横への発達」ということ ばは、発達の段階が高まる という意味での「縦への発 達」と対(つい)で使われ てきました。そのとき、で きることが、もっとちがう 素材やちがう人間関係のな かでできるようになってい く関係の広がりの側面が強 調されています。「縦への 発達」ばかりが発達ではな く、「横への発達」も同じ 価値をもっているというこ とです。そのことのたいせ つきは、障害をもっている 子どもたちの発達の道す に出会うと、よくわかります。

 

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