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『子どもとファンタジー』にみる9歳という思春期の心の発達

9歳の思春期

『子どもとファンタジー』にみる9歳という思春期の心の発達

この記事のまとめ

9歳からの思春期で「自己」が大きく変わります。

子供とファンタジー

子どもとファンタジー―絵本による子どもの「自己」の発見 (子どものこころ) 守屋 慶子

シルヴァスタインの「与える木」という絵本

 

児童初期の子どもたちのこの物語に対する感想には、「あの子は どうしてあんなにはやく おじいさんになったの?」「あんなしゃべる木 どこに生えているの?」というような質問が多く見られた。このような質問は、今回の対象に限れば小学校2年生に最も多く、その後次第に減少し、中学2年生ではまったくみられなくなっている。

そして、主として「小2」の子どもにみられたこの「質問」と交替するように、「木がしゃべるはずがない」、「あれだけの枝で家が作れるはずはない」というような、物語が非現実的であることを指摘する内容が現れる。このような「確認」は「小4」の時期に始まる。

さらに、この「確認」と交代する形で現れるのは、「この物語はいったい何をいいたいのかわからない」、「この話は幼い子にはいいけど、僕たちには幼稚すぎる。僕たちはもう大人だ」というような、作家の意図が理解できないことを示唆する内容の感想である。これは「小6」のころから次第に増え、「中2」の頃に最も多く高校2年生にかけて少なくなっている。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.4)

 

思春期以前

現実かどうかが問題

「…よく聞いてみると、木がしゃべるのでやっぱり現実ではなかった…」小4(p.14)
「…老人の力ではボートは焦げないと思う。…」小6(p.16)
「…小学校低学年までには夢のある話かもしれないが、中学校のわれわれとしては、現実離れしたショウモナイ話にしかすぎない。りんごの木がしゃべるわけがない。」中2(p.21)

物語の外を想像する

「…『何がほしいからくれ』といって、りんごの木の一部分を取っていったけれど、あれは全部うそをついて、ぜいたくをしていたと思う。なんてずるがしこいんだろう。」小4(p.45)
「…少年は旅に出て、しっぱいしたりして、つかれていたんだろうな。」小4(p.)
「…少年は『わたしはつかれた』と言いましたが、これは自分が身勝手なものだから、何をやっても成功しなかったんだろうと思いました。…」小6(p.46)
「…少年はそのあとどうしたのだろう。きっとすぐ死んだと思う。ばちが当たって。」小4(p.48)
「…最後に言いたいのは、あの少年は、この先もずっと切り株に座り続けると思う。たとえ死んでしまってもずっと座り続けると思う。」小6(p.52)
「…切り株になったリンゴの木にもう一度身ができて、男の子といっしょに遊んでいることを思い出したいです。りんごの木、もう一度実がなったところを見せてください。」小5(p.52)

自分視点の「かわいそう」と「むかつく」

「…少年は木となかよくしていたけれど、少年が大きくなっていったから、木となかよくならなくなって、木はひとりぼっちになったからかわいそう…」小2(p.68)

「…りんごの木になっているりんごをぜんぶとっていってしまったから、かわいそうだなとおもった…」小2(p.68)

「あのお話はかわいそうでかわいそうだった。木がきっても きっても しななかったから びっくりした。…あのこどもは おかあさんが居ないのかな と思った。いえも ないのかなと 思った。…あれを見て こころが しーんとしてきた。…」小2(p.80)

「…小さいとき、りんごの木となかよくあそんでいたのに、大きくなってりんごの木はみはなされて、一人ぼっちだったから、あまりにも、りんごの木がかわいそうです。」小4(p.192)

「…少年はざんこくだ。りんごの木をぎせいにしてまで、自分の思い通りにするから、りんごの木はかわいそうだ。少年の思い通りにさせられて、けっきょくは自分がぎせいになる。ぼくは少年がにくたらしい。りんごの木のかたきをとりたい。…」小5(p.81)

「…りんごの少年につくす愛情がしみじみ身にしみました。…少年に自らの体をささげてしまうりんごの木さんが、とってもかわいそうな気がしました。なのに少年は、それが本当だと思い込んでいる。少年のばか」小6(p.81)

「…なんちゅうしょうねにゃ、けったろか。…少年はりんごの木が待っている間何をして居たのだろうか。」中3(p.81)

「この木は少年のヒモやと思った。アホな木や。少年も少年でよういろいろずうずうしく切ったりとったりしたわ。自分は木に同情したい。」高2(p.82)

他者に自分を映せない

次に紹介する子どもたちは、登場人物の「少年」に対して激しい怒りを表している。

「…少年は自分勝手でわがっまあでなんという人間だ。敷かれるものなら叱ってやりたいものだ。反省するまで。…欲を出しすぎたから、最後にはただのうすぎたない老人になるんだ。…」小6(p.97)

子どもたちの自己認識は7、8歳にもなるとすでにことばで表現できるほどになっており、それは自分の見にくい点、他者と比べて劣った点などについての彼らなりの水準を保った内容を備えている、この事実から考えると、彼らの激しい怒りには、彼ら自身の姿を不意に「少年」という鏡に映し出されたことによる怒りや嫌悪感が混じっているのかもしれない。(略)「どついたるぞ、木にお礼ぐらい言えよ」と鉛筆書きの筆跡も荒々しく起こった子ども、「…内心では起こってるくせに、怒ると少年に捨てられると思っている。こういうのは大嫌い!」と激しい嫌悪感を表現する子どもたちは、自分が出会った登場人物たちに似た「自己」をうすうす感じているのかもしれない。しかしそうはいつても、怒りや嫌悪感の原因は「自己」ではなくあくまでも登場人物、「他者」に過ぎず、まさかそれが「自己」の姿であるなどとはまだ気づいていないのである。これに関連して、遠藤が子どもの自分自身に対する感情を調べた研究結果を参考にしてみよう。この結果では、子どもたちの自分に対する満足の度合いが不満の場合を上回るのは中学生の頃までである。そして、ほぼこの時期を境にこの関係は逆転するのである。これら両者の関係が逆転するからには、当然、子どもたちのなかで自己に対する否定的感情や否定的評価がその直前の時期に生まれて居たり、その基になる自己認識が可能になっているはずだと考えられる。興味深いことに、この逆転の直前の時期、小学校高学年から中学生にかけての時期は、感想のなかで子どもたちが登場人物を激しく非難した時期にほぼ一致する。この両時期の一致から考えると、登場人物を激しく非難した子どもたちは、それと知らずに、登場人物の姿に自己を認めて居たのかもしれないという推測もあながち的外れではなかろう。もちろん、彼らの目にはそれはまだ「他者」としてしか写って居なかったのではあるが。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.99)

「どうして幸せ?」なのか、言葉にできない。

「あの子はひきょううだ。だって、小さい時にあそばせてもらって、それなのに おおきくなったら、あれよこせ、これよこせといって、もっていく。それなのに、どうしてりんごの木は うれしいんだろう。りんごの木は そんをしているから かわいそう」小4(p.60)

「…りんごの木に『何がほしい』『何がほしい』といながら、お礼も言わず、さっさと帰るのがむかつきました。せめて『ありがとう』ぐらい行ったらいいと思いました。けれど、りんごの木がなにをあげても、とても幸せというのがふしぎでした。」小6(p.60)

「りんごの木はなんで自分の実や幹をもっていけと行ったのだろう。僕がりんごの木だったらあんなことは言わないと思う。」中1(p.62)

「私だったら『あつかましい少年』と思って、きっと何もあげなかったと思う。」中1(p.62)

思春期以降

「意味」を探す

「…あまり長くないあっさりした童話だけど、何か伝わってきそう。なんかすごく深い意味がありそう…」中2(p.23)

「…木は自分では幸せだといっているけれど、本当に幸せなのか疑問だ。なぜかというと、人の役に立ったからといっても自分には何も残っていないし、少年のためにもあかんかったと思う。」中2(p.23)

「抽象化」する。

「…そしてりんごの木は少年が帰ってくるまで長い間待っていた。あのリンゴの木が僕には母のように思えた。」中1(p.28)

「…あの少年は普通の人間の生き方だと思おう。私も今お金が欲しい。…自分もあの少年のように気に対する思いやりがなくなっt3しまうのだろうか。…」中2(p.29)

「…マザコンの少年と子離れしない親がいるみたいだ。」中2(p.31)

「りんごの木は自然で少年は人間。自然は人間より長く生き、生きている間人間を助ける。…最後に人間がたどり着くところは自然。…人間はわがままで勝手で自分のことしか考えないのに、自然はそんな人間でも大きく優しく包んでくれる…」中2(p.32)

「どうして幸せ?」かをおしはかる

「…りんごの木は、少年が幸せなら自分も幸せだから、あんなにも少年お願いを聞いたのだろうな。」小6(p.62)

「…なにもかも取られたのに、しわせだったというのは、少年の役に立てたということで満足していたからだと思った。…」中1(p.62)

「幸福ってなんだろう?私には木の幸福がわかるようだ。木はおそらく少年を愛していたにちがいない、だから少年のため自分のものを与えたかったのだろう…」韓国、16歳(p.62)

「…少年は枝を切り取ったりりんごをとったりした、それでもりんごの木は何も言わなかった。ひとりぼっちになるのがいやだったからだろう。…」中1(p.63)

「…少年を自分のものにしたいという気持ちがりんごの木にはあったに違いない。…」高2(p.63)

「あのりんごの木は、結局あの人にお礼をしたんだと思う。あの人が子どもの時にはあの木のそばで遊んだり下。そのとき、木は楽しかったんだろう。そして、とても嬉しかったんだろう。…」高2(p.62)

 

もし「わたしなら」で客観視する

「自分の利益だけのためにやってくる少年に木は腹が立たなかったのだろうか。僕ならぜったいにこんなやつに自分の体を捨ててまで尽くしてやろうなんて気は起こらない。」中3(p.211)

「…もし私がりんごの木なら少年に言っていたかもしれません。『長い間顔も見せずによくこんなところにこれたわね。』と、りんごの木に対して少年が何の感謝の気持ちも持たなかったというのが理解できない。」中3(p.211)

この子供達はもう「私は(僕は)腹がたった」とは述べていない。「木は腹が立たなかったのだろうか。もし私(僕)がりんごの木だったら腹が立っただろうに」というように、表現された感情は第三者としての自分の感情と登場人物の感情に区別されている。
(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.211)

「私にはおもしろかった。木がしゃべったりして。少年も少年ね。木が言ったら言ったとおりにする。わたしならしないよ。だってかわいそうだから。私だったら絶対に切ったり取ったりしない。木がかわいそう。それで木が幸せなんだったらいいけど。」小6(p.212)

「まず少年に腹が立ってしまった。と同時に、人間のがよくというものはどうしようもないなあと感じた。それから、木にも腹が立ってなぜそこまでしてやる必要があるのか、それでほんとうに幸せなのかと考えた。自分はけっしてそこまでしないだろう。けれども、「木」と自分を比べて「与えることはよいことなのか」と一瞬迷ってしまったが、自分の幸福と「与える」ことではない。価値観の違いだろうと思う。こんどは、木は寂しかったのではないか、と考えた。そう思うとあれはあれで満足なのだろうと納得してしまった。『それにしてもなんだったんだろう、今の話は』というのが現在の心境である。」大学生(p.213)

評価しない。理解する。

「この本は人間の人生をよく表していると思う。小さい頃はこの少年のように、皆りんごの木があれば登ったり、枝にぶら下がったりして遊ぶだろう。でも大きくなるにつれて木に登ったりはできなくなる、そして大人になればお金がほs区なるし、もう少し歳をとれば、家を持ち奥さんなどが北なる。そして一部の人は、この少年のように夫婦仲があまり欲なくなってくると、どこかへ旅がしたくなる、そのうち老人になり、子どものときのような美しい心が蘇ってくる。人間とはこのようなものではないのかと思う。」中2(p.91)

「少年が育ってきた家庭は冷淡かつ冷酷であるようだが、それは誰も皆同じ家庭を経て育ってきている。一人の人間が産まれて、まず最初に持たされるのは子供用の玩具であるが、一年、一年大きくなっていくにつれて、産まれたとき持たされて居た玩具では気が済まなくなってきて、次から次へと、年相応のものや新しいものなどへの心変わりが生じてきて、それまで一時もはなしたことがないものでも、いまでは見向きもしなくなってしまう。そういう子どもの木もチッや、人間の成長してゆく家庭を知って、心得ているリンゴの木は大人だとおもった。」高2(p.92)

この青年たちの認識や理解では、それまで使ってきた「すきーきらい」のような個人的、主観的尺度も、「やさしいーひどい」のような社会的尺度も用いない。つまり、どのような価値であれ、「価値」が相対化されてしまった以上それと関係させる尺度は用いることができないのである。そいういう意味で、このような認識は脱価値的認識と呼ぶことができる。さて、この脱勝ち的な認識は、子どもの発達過程でどのようにみられるのだろうか。図6をみると、女子よりも男子にこのような認識が多くみられることが分かる。また男子の場合、11、12歳頃を境にして、これ以後の時期にこのような認識をする子どもが増え、16、17歳頃には40%ちかくの子どもが、登場人物について脱勝ち的に認識していることが判る。女子の場合は、社会的評価についで情緒的評価をする場合が多く、脱勝ち的認識は16、17歳まではあまり目立って多くはない。しかし、大学生の場合にはずっと増え、この物語の登場人物について言えば、女子では、その頃に認識の相対化が進むのではないかと推測される。この物語の場合、日本の女子にとって相対的な認識が難しい一つの理由は、「リンゴの木」が母親の象徴と捉えられやすいことと関係があるようだ。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p. 95)

 

少年を見て、省みて自己批判をする

「…僕だったらりんごの木と遊んでやるとおもう。また、大人になっても木に登ったりはしなくても、いっしょに居てあげると思う。」小6(p.101)

「…もし私がりんごの木だったらどうしたかな。少年のために我慢したか、それとも放っといたかって。人間は勝手な動物だって思う。自分もそうだから…。でもその人(少年)についていく人もバカだなって思う。私がその少年だったら、多分…勝手だろうけど、(木に)そんなにぺこぺこされたらたまらないと思う。人間には完璧な人っていないから、しょうがないけど。ひとに腹がたつということは自分に腹が立っているということだとおもう。」中2(p.103)

「…時がたつと少年も昔の無邪気な子ではなく自分のためだけを考えるようになってきているということが、なぜかすごくよく分かった。それは今の私に似ているからかもしれない…」中2(p.105)

「…自分もこの少年と同じように、小さい頃に比べてずっとあつかましくて、理屈っぽい人間になったように思う…」高2(p.105)

「…なにか自分を見ているようで胸がいっぱいになり、自分のしょうらいにあんなにたよっていける人はいるのだろうかと親の気持ちは深く広いのだなあと思った。」小6(p.107)

 

「人間とは」と問う

「…年毎に大きくなる欲望の気持ち、そんなものが人にはあるんだと、びっくりした反面、情けなくなりました。」小6(p.107)

「なんだか自分たちの世界のことをみているようです今の人間は自分中心の考え方でいるし、ほかの人のことはどうでもいいと思って居ます。」中2(p.108)

「…あの少年はふつうの生き方だと思った、私も今お金が欲しい。…自分もあの少年のように、思いやり、機に対する心がなくなってしまうのだろうか。…」中2(p.108)

「この物語の中の人間の行動はこの少年だけの行動ではないと思う、今の社会に生きる人間全てがこのような行動をとると思う。幼い時は自由にいろいろと思ったり行動したりできるが、大人になっていくにつれて考え方が狭くなったりする。」高2(p.108)

「…人間は自分勝手で『人がどなっても自分さえよければいい』みたいなところがあるエゴの塊だ。…楽をしたいばかりにmほかのものを犠牲にする人間というものは最低だと思う。」高2(p.110)

「…人間とはこうも冷たくなるものだろうか。この少年の心が冷たくなったのに比べて、長い年月が経っても変わらないあのりんごの木の純真な心!」中2(p.111)

「神はすべてを与え何一つ見返りを求めない、人間はすべてを奪うばかり…」英国、16歳(p.111)

「人間ほど下等な動物はいない。常に誰かを(人であれ物であれ)犠牲にしてまで自分の幸せを求める心がありそうな…そんな弱い生き物ではないだろうか。もちろん自分もその中の一人ではあるけれど。」高3(p.112)

「りんごの木」から「少年」への視点移動とその理由(9歳の思春期)

友達関係で悩む9歳

善悪とはなんだろう?ルールとはなんだろう?仲間とはなんだろう?友達とはなんだろう?

こうして「りんごの木」の状態が正確に認識できると、認識の焦点は、「りんごの木」のその状態を引き起こした原因は何かということに移る。その結果それまで「りんごの木」に当てられて居た焦点は「少年」に移動し、「少年」について能動的な認識が始まる。次の紹介するのは児童期終わりの時期の子供たちの感想で、認識の焦点は「少年」にある。

「あの男はせこい人やと思った。…りんごの木があんなに男のためにやってるのに、木の気持ちを知らずにほっておくとは、大変あくどいやつやと思った。何かしてもろたらちゃんと遊んであげるとか、肥料をやるとかして喜ぶことをしてやればいいのにそれもせず、やらせるばかりなのでとってもとっても自分勝手な人やと思った。」小6(略)

これらの感想の焦点はあきらかに「少年」であり、全文が「少年」の行為や態度と、「少年」に対する子供達の否定的感情や避難で埋められている。ほとんどの子どもの認識が「りんごの木」に焦点化されて居た児童期の前半期頃とは対照的である。さらに、焦点の移動に加えてここにはもう一つの変化が見られる、それは、それ以前には見られなかった新しい感情が子どもたちに芽生えていることである。その新しい感情とは「少年」に対する怒りや非難である。(略)この焦点の以降が小学校4年生頃を境にして起きていることが示唆され、女子も男子もこの時期以後「少年」に焦点を当てる場合が多くなっている。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.139)

焦点が「少年」の方に傾いた11、12歳という時期、子どもたちは現実にはどのような対人関係の中で生活しているのであろうか。(略)これによると、いまここで問題にしている前青年期(9−12歳)は、仲間社会、友人集団に受容されることが重要であり、対人関係では仲間や同性の友人が大きな位置を占めていることがわかる。日常の観察を通じてもわかるように、子供達は仲間や友人集団で重視されるルールや約束事を遵守して生活し、それに対立する仲間には厳しい批判の目を向けるようになるのである。(略)物語中の「少年」は、たとえ物語の中であろうと、この時期の子どもたちにとっては子ども社会のルールに違反した少年として注目されたのである。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.145)

場面の重大さを認識する9歳

子どもの認識が受動的なものから能動的なものへと変化する過程は、感想だけでなく物語を聞いている時の彼らの態度の変化にも表れていたその変化は筆者にとっては感動的なものであった。小学校2年生のクラスでは、どのクラスでも、この物語を映写したとき、物語の始めの方では教室は大変賑やかであった。どの場面でも、子どもたちはあるときは大きな声で、あるときはひそやかに、その内容や絵について笑ったり喋ったりしたからである。しかし、話が進むにつれて、笑う子供は次第に減り、息を飲むようにして画面に目をやり、耳をすますようになった。物語の終わり近くの「りんごの木」の幹が切り倒される場面になると、教室にはシーンとした雰囲気さえ漂った。

2年生の教室でのこのような変化に比べると、4年生の洋室での変化はずっと早く起き、「少年」が「りんごの木」の枝を落として持ち去る場面あたりから始まった。2年生と4年生のこのような変化の起こり方の’違いは、彼らの感想にもはっきりとした違いとなって表れている。つぎに紹介する4年生の子どもは、物語を聞いた時の自分の理解の変化そのものについても述べていて、筆者が映写中に感じ取った教室の空気の変化が、子供達の認識態度の変化を映していたことを示唆している。

「はじめはなんだかわからなかった。だけど、中ごろになって、とても木がかわいそうだった。それだのにあの悪ガキはとってもぜいたく。分かってもらえない木がかわいそう。木もやさしすぎるんだ。」小4(p.135)(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.134)

〈わたし〉の価値観を持つ9歳

子どもたちは物事や対人関係の在りかたなどについて、彼らなりに美醜や善悪の判断に基づいた選択を日常的に行っている。その判断や選択の基になっているのが、彼らそれぞれの美意識である。このような機能を果たす美意識は、それぞれの子どもがそれぞれの環境でつくりあげたものであり、大人の場合同様、自己の美意識と矛盾することがらや事態に遭遇することによって、たえず見直され、修正されたり、つくりかえられたりしていると考えられる。次に紹介する子どもたちの乾燥にも、彼らの美意識が間接的に表現されている。すなわち、彼らの美意識に矛盾しない登場人物のあり方はどういうものか、ということが述べられているのである。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.206)

「少年はりんごの木が好きなのに、どうして切ったりしたのかな。好きだったらもっと大切にすればいいのに。…少年は大きくなって遊べないのだったら、せめて毎日会いにきてあげればいいのに。…」小4(p.207)

「りんごの木は男の子にとてもやさしかった。…男の子は困った時だけりんごの木にくるなんてひきょうだろう。うれしいときなどきてやればいいのに。少年時代の時みたいに毎日きてやればいいのに。1週間にいっぺんでもきてやればいいのに。」小4(p.207)
「…なんとなく少年はがめついと思った。りんごの木はアホやと思った。べつに少年に好かれても嫌われてもええのに…」高2(p.208)

この青年は「少年」も「少年」なら「りんごの木」も「りんごの木」、どちらも愚かなものと評価する。この青年の美意識からすれば、「りんごの木」は優しくもなく立派でもない。「りんごの木と少年」の関係は愚かな美意識を持ったもの同士の関係であって、その関係は不均衡ではない。いや、彼女の美意識からすれば「りんごの木」は「アホ」で「少年」は「がめつく」両者はむしろ釣り合っており、従って彼女自身が二人の間に介入して三者関係を作ったり、力関係を変えたりする必要はまったくない。このように、子どもたちは物語世界の登場人物と交渉することによって、いやおうなしに彼ら自身の美意識を言語化し自覚することになる。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.209)

日本の子どもは他者を否定的に評価する

『日本人の9割が知らない遺伝の真実』という本で見かけたこのグラフはどれだけ義務教育の9年間の間に子供たちのSQが弱められているのかを表しています。挑戦したり、好奇心や興味を持って活動することは、果たして「悪い」ことなのでしょうか?

シルヴァスタインの「与える木」という絵本を読んだ子供たちの感想文を分析した本、『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』は韓国、スウェーデン、イギリス、日本の4カ国の子供たちの文章を見比べてみて、やはり「否定的だ」ということを筆者の守屋慶子は述べていました。

 

「私は少年がにくらしかった。なぜかというと、自分でなんでもやればいいのに、りんごの木になんでももらって、自分が年よりになったら、なんでもりんごの木にやらせたから。…」小4(p.195)

「…それとえらいちがいで、少年は、あんなにいろんなものを取っていってしまったので、私はそんな少年がにくらしかったです。」小4(p.195)
「少年は最後の最後まで頼るとはあつかましすぎる。それに木もお人好しすぎる…」小6(p.88)

「りんごの木は優しすぎる。それは少年の願いを自分の体を切ってまで叶えてあげようとしたから。」小6(p.82)

「年をとるのがいやになった。少年は甘えてばかりで腹がたつ。」中2(p.195)

「…年老いているのに、小さい頃の少年が忘れられないのかもしれないけど…。りんごの木はバカだなあと思う」高2(p.88)

日本の子どもにこの否定的評価が多いという事実は、ある社会の大人たちがどのような人間を肯定的に(あるいは否定的に)評価するのかということが、子ども社会での対人認識や対人関係の作り方に大きく影響することを示している。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.89)

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