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【5歳の遊び方】自分をみつめる・ルールをつくる・目標を立てる・学び合う

幼児と学童の境目

【自己の発達】5歳からあらわれてくる?「自分をみつめる」チカラ

これだけでは、何を彼女が伝えようとしているのか、わかりません。 何を書いたらいいのかわからないと言うので、「好きなこととか嫌いな こと、得意なこととか苦手なこととか書いたらいいよ」とヒントを与え たのです。それにしても、何が好きで、何が嫌いなのかを、この文章か ら知ることはできません。この4歳頃の発達段階では、「好き一嫌い」、 「上手一下手」というようなことでも、ことばで表現することはむずか しいのです。

高等部になって、はじめて次のように書いてくれました。

「わたしは、わるがきです。ともだちにおはなしをする。ひとむしり (みしり)をよくする。けんかがすき。わたしは、やさしいたくさんの ともだちをつくりたい。おにいちゃんとけんかした。わるいとしたて (したって)あやまることがない。いたずらをしたりする。おかあさん におこられた。わたしは、ともだちとなかよくする」(図3-2)。

自分を見つめ、自分をことばで表現する力の大きな育ちを感じるでし ょう。「わるがきです。けんかがすき。おにいちゃんとけんかした。わ るいことしたってあやまることがない。いたずらをしたりする。おかあ さんにおこられる」。ずいぶん乱暴なところがあったのでしょう。その 直さなければいけない自分を見つめられるようになってきています。し かも、「わたしは、ともだちとなかよくする(したい)」という結びのこ とばに、ゆきちゃんの自分への願いが託されています。このような、自 分を見つめる力が育つのは、ふつう5、6歳頃からだといわれています。

この1年後の作文をみてみましょう。

「おにいちゃんとけんかがおおい女の子です。くちがわるい女の子で す。がくどうで女の子1人です。ひとりであそぶことがある。クラスの 男の子をいじめる。いえでおとうさんやおかあさんやおにいちゃんにお こられる。いじめられるのが大(多)い。なくのもおおい。いえでした る(家出してやる)ってうそなんやから」(図3-3)。昨夜、「いえでし

 

対話する・ルールをつくる・目標を立てる・学び合う【5歳の遊び方】

この記事のまとめ

5歳は、ウハウハです。

「お母さんだったら、してくれ」たことが、「仲間はして」くれない。したいことができない。

体と言葉が使えるように成り、モメゴトが増える。

そんな時期を「あそび」を通じて、社会性を高めるために過ごすのがよいのです。

小学校の低学年までは(もちろんそれ以降も)、仲間とたくさん遊ぶのがよいのです。

「気が合う」 友だちを意識するようになると、当然仲間に 入れてもらえるかどうかが子どもたちにとっては、気がかりなことにな ります。それに、仲間のなかでも、約束を守らなかったり、相手を尊重 できないことがあると、いざこざが絶えません。しかし、このような人 間関係の葛藤を乗り越えて、「わたしもいれてよ」、「ごめんな」の一言 を言う勇気がつくられていくのです。そして、気が合わない友だちがい たとしても、嫌いな友だちがいたとしても、一つの目標を共有し合って がんばったことが、きっと相手の存在を受け入れていくたいせつなきっ かけになることでしょう。

だから、この自分たちで考え合う力と、自分たちで人間関係の葛藤を 乗り越える力を尊重して、年長組の行事は、ぜひ子どもを主人公にして 計画してほしいものです。発表会でも運動会でも、子どもたちといっしょにシナリオを考えてみてはどうでしょうか。そのなかで、子どもが発 表しようとしていること、表現しようとしていることのなかに、きっと 日頃の保育生活の子どもなりの喜びが映し出されているはずです。まさに5歳児は、自分たちで考え自分たちで仲間をつくる、新しい自 立の世界を開拓しはじめているのです。(白石正久『発達の扉(下)』p.45)

相手に合わせて自分を変える5歳

ひそひそ話ができる

「自分」と「他人」を区別して、社会的な状況での「タテマエ」と自分の「ホンネ」をうまく使えるようになる。

4、5歳にかけて、このような意識的、自覚的な話し方が可能になってくるように思える。じっさい、特定の誰かにだけ情報を教えたり知らせるために内緒話をする、声を潜めて小声で耳打ちするなどといった発話エピソードがみられるのは、年中も5歳に近くなってからである。子供達のやり取りの中で、「あんただけにみせたげる、他の人はみんといて(みたらあかん)」といった言動が明らかに見られるようになるのも年中時に入ってからである。知られないように内緒話をする、見せないように隠すといった行動は、他者が持ちうる知識や信念状態を操作しうることのより自覚的な理解を示すものであろう。そのような意識は「内緒にする」という表現となってもみられる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.89)

表現の仕方を相手の心的状態に合わせて工夫する

相手や状況を考えて、心に浮かんだままを言わない、相手にふさわしい言い方を吟味し選択する、不躾にいうことを自覚的に差し控える、といった言語能力は年長を待たねばならない。このホンネの表現を抑え、表現の仕方を吟味することは、行動の制御機能の発達と深い繋がりを持っているように思われる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.123)

 

じぶんのする役割や立場に相応しい振る舞いや語り口は、他者の観点からじぶんの表現を相対化しうることである。(略)表現意識が育つとはそのようなことをいうのであろう。他者の視点から自らの表現を点検し、その表現を工夫しようとするのである。それは、じぶんの表現を自らが評価的にながめ、制御していこうとすることでもある。つぎに述べる年長のエピソード(11月)は、このような子どもの表現意識の育ちをよく示している。

◆年長の女児が劇場を作り、シンデレラの劇を演じるための練習をしている。それは意地悪なお母さんとお姉さんがお城のパーティーにでっかえ、シンデレラが一人で留守番をするという場面であった。シンデレラ役のK子と魔法使い役のJ子のやりとりである。

K子「私も行きたいわ」(といって泣いてみせる)

J子「どうしたんだい?」

K子「私、留守番なの」「あ、やっぱりやめた」「お母さんと、お姉さんがパーティーに行ったんです。それで、私一人で留守番なの、私も、パーティーに行きたいわ」「この方がいい?」

J子「うん、その方がいい」「じゃ、私が連れて行ってあげよう」(略)

じぶんの表現を他者の視点(ここでは観客としてのJ子)からみつめ返し、その表現を工夫すると行った様子が伺える。年長にもなると、日常的なやり取りの中でもこのような表現意識の育ちを見ることができる。「ね、わかったでしょ」とじぶんの発話が相手に伝わっているのかどうかを気にして確認したり、その反対に「何言ってるのかよくわからない。ちゃんと言って」のように、他者の表現を評価し、ときにもっとわかりやすい表現を相手に要求するといったこともみられる。これらは、メタ的な表現意識や表現能力の育ちを示すものである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.126)

ルールをつくる5歳

年長児では〈われわれ〉のゲームを考え、自分たちでルールを決め、途中で「もう少しムズイやつ(難しいの)にしよう」などと話し合ってゲームを面白くする工夫もできるようになる。われわれで競い合うというのは、われわれの決めたルールのもとに皆が競い合う、そのような〈われわれ〉意識を背景として成立してくるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.105)

ゲームだけでなく、日常生活でもそれぞれの「役割」があることを理解できます。

幼稚園での片付けの分配。ある人が片付けをして、ある人がお昼ご飯の準備をする、ある人は理由があって片付けをしなくても許されるということがわかる。(ルールとして役割分担を学ぶ)

はたまた、「ルール」にもいろいろあることを理解できます。

道徳的ルールは「人を殴ってはいけない」といった普遍的なルール。慣習的ルールは、この場所ではこのように振る舞う、「制服を着て幼稚園に行く」といった特定の状況や社会で作られるルール。5、6歳でも道徳ルールと慣習ルールを区別できる。「先生がいいといったら殴ってもいいか」「先生がいいといったら(他の幼稚園だったら)制服を着なくていいか」を区別して答えられる『子どもは善悪をどのように理解するのか?』長谷川真里。

目標を立てて、向かう5歳

年長児になると、あらかじめ「ああしよう、こうしていこう」とプラン(全体の青写真)を立て、それに照らし合わせながら行動を遂行して行こうとするようになってくるのでる。したがって、もちろんとちゅで「あっ!こんなんしよう」と、最初の計画になかったアイデアが湧いたり、元のプランから多少の不都合や予期しなかったことが生じても、それを柔軟に修正、調整しながら遊びを展開していけるようにもなるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.146)

迷路を作るという目標に照らして、今していることが意味があるかどうかを「これ意味ないやん」と問いかけるのである。また目標を立てて行動しようとするからこそ、取り掛かる前に製作すべき形をあれこれ思案して「何をつくろうか迷ってしまう」とか、「次何作ろうかな」とつぶくことにもなるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.150)

学び合う5歳

教える・教わる

大人も、5歳児のように学び合えばいいとおもいました。

「僕もつくりたい」という表現の中に、つくれるように教えて欲しい、自分も教わって作りたいと、他者に教わり他者から学ぼうとする自他関係への変化をみることができる。このようにみると、5歳頃には人から教えてもらう、人から教わろうとする心的な態勢が準備されてくるようである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.167)

「教える」といった表現自体は、4歳になった頃にはあまりみられないが、年中も5歳頃には見られるようになり、年長にはより一般的なものになってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.168)

◆年長児のA子は編み物がとてもじょうずで、器用に長く編むことができる。同じ組のI子は、じぶんも編みたいのだが、どうしてもA子のようにはうまくできず、どのように編んだらよいのかをA子に聞いている。A子はI子の様子を見ながらI子に編み方を順序立てて教えている。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.174)

 

共同経験の効果が混合ペアの初心者のみに見られた。熟達者と共同で組み立てた経験が、事後テストでのレゴブロック課題の遂行に顕著な促進効果をもたらしたのである。そのやりとり過程を分析すると、初心者同士に比べ混合ペアの初心者は相手(熟達者)の行動をより頻繁に観察することがみられ、熟達者も、熟達者同士の場合よりも説明やデモンストレーションを与えることが見られる。つぎはどこにレゴを置くべきか、なぜここにブロックを置くかなどを初心者に話すことが観察されたのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.175)

 

年長も6歳頃になってくると、子供同士が対等にアイデアや考えを出し合い、話し合いながらの協同的な課題解決がより巧くできるようになる。その表れが、「こうしたらどうや」「こうしたらいいやん」と、子どもたちがアイデアや工夫を持ち寄りながら協同でじぶんたちの遊びをつくりあげたり、問題解決的な場面において子どもたちがそれぞれの意見や工夫を第愛、もちよりながら解決していこうとする姿にも見られる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.177)

なぞなぞ遊びをする

年長児には、メタ言語能力の発達とあいまって、ことばの仕組みを学ぶなぞなぞもみられる、語呂合わせやダジャレのようなことば遊びをなぞなぞとして楽しむようになってくる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.157)

この頃になぞなぞが好きになり、自らなぞなぞをつくったり、絵本のなぞなぞを楽しんだりするようになってくることである。そこでは、自分のつくったなぞなぞにヒントを出して相手に考えさせたり、相手の出すなぞなぞにヒントを求めながら考えるといった言語活動を楽しむようになってくるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.159)

交渉・仲裁する5歳

4歳も近くになると、じぶんが欲しくても〈あなた〉が先に持っているモノだからむやみにとらなくなり、欲しいときは〈あなた〉に貸してくれるように頼む、交渉によってあなたの意志を確かめるといったことが一般的になってくる。年中児に入ると、いざこざが生じても、身体的な攻撃の応酬よりもことばによってじぶんたちの言い分を主張し合うようになってくる。しかし初期では、まだ言い分をうまく表現する力が十分でないため、うまく主張がかみ合わず、どちらかが保育者の介入を求めにくるのがよく見られる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.182)

年長になるとより複雑な行動も見られるようになる。また周りの他児も双方の言い分を問いただし、諌めたりしながら巧みに仲介や調停に入るといったこともみられるようになる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.183)

こだわる5歳

現段階で言えることとしては、3歳児でも今まさに作っている最中、自分の手中にあるだんごには強いこだわりを抱くようだということです。しかし、一度どこかに置いてしまって(テーブルの上に置くとか、先生に渡すとか)話してしまうと急速に関心を失うようなのです。これに対し4、5歳児たちは自分が作り続けてきた者へのこだわりと同時に、一旦手放して何処かに置いたものにしろ、あるいはおとなからもらった極上のものに対しても強いこだわりを抱き続けるようです。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.100)

競争する5歳

鬼ごっこやかくれんぼは2つの成分から成り立っているようです。1つは神田や河崎が重視した競争的自我が芽生えてくる3、4歳頃に現れる目標対立の成分です。これは鬼なら、ほかの子を捕まえようとする、あるいはみつけようとすること、コなら反対に捕まらないようにする、見つからないようにする、という結果志向の目標追求的な対立関係です。勝ち負けはこれに関わってきます。子どものプライドの行方もこの点に集約してきます。これがこの種の遊びの発展的成分です。後期になって付け加わってきた成分です。(略)

これに似ているようでいて実は別種のメカニズムとして作動しているのが、終われるから逃げる、探されるから隠れる、あるいは相手が逃げるから追いかけたくなる、隠れている人がいるから探したくなる、という感情交流的対立の成分なのです。こちらは目標対立と比べるとメカニズムとしては原始的であり、乳児期のマテマテ遊びとかいないいないばあなどに起源を持つもので、これがこの種の遊びの基盤的成分でしょう。

2、3歳児の鬼ごっこやかくれんぼではこのメカニズムの動きが重たる成分となっていると考えられています。これに対して3、4歳以降の幼児後期になってきますと、2つの成分が互いに補い合いつつも矛盾をはらみながら同居するようになると考えられます。捕まえたいけど相手には逃げてもらいたい、見つかりたくないけれど探してはもらいたい、などなど。この矛盾した心理の典型的な表れが、5歳児や6歳児になってすらまだまだ見られる行動、鬼ごっこでわざと捕まろうとするとか、かくれんぼで自ら姿を現して見つかろうとするなどの逸脱行動なのであろうと思われます。ごっこ遊びの基盤的成分と発展的成分は「融合状態」と「ホントとウソッコの対比状態」でしたが、鬼ごっこやかくれんぼではそれは「感情交流的対立」と「目標対立」に相当していると考えられるのです。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.95)

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