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嘘とファンタジーの力と認知的再評価【4歳からのリッチネス】

嘘とファンタジーの力と認知的再評価【4歳からのリッチネス】

 

この記事のまとめ

嘘をつくファンタジーのチカラは、「心」を守り「命」を豊かにします。

嘘は人間関係を円滑にするものです。

上手に嘘をつく方法、ついてはいけない嘘といったものを大人が伝えていくことも大切だとおもいます。

1歳:ここにないものを思い描くファンタジー

ないものを思い描く

イナイイナイバアで笑うのは6ヶ月だとか、3ヶ月だとかいろんなケースがあるようですが、これがなぜ楽しいのかといえば、「ものが変化した、ないものがでてくることがおもしろい」ということらしいのです。つまり、「ないもの」と「あるもの」がわかる能力をつかって「いないないばあ」は楽しい遊びになっているそうです。

1歳の半ば頃には、それまでの1語表現から2語、3語文といった連語による表現(文法化)が可能になってくる。ところで、ことばは眼前にないモノを代表し、そのイメージを喚起する表象化能力を前提としている。この頃、表象化の能力にも1つの変化が生じてくるようである。子供の前でキャンディを手のひらにのせ、その手を握る。その手を防止や布の下をくぐらせ、分からないようにいずれかの下に隠すとする。くぐらせた手の中にキャンディがないのを確かめた後、子供が帽子や布の下を体系的、効果的に探索できるようになるのはいつ頃なのだろうか。それが可能になるには、実際に対象が隠された場所を見なくても、対象の移動を仮想的に表象化しなければならない。

じぶんの見ていない所でなされたことがらを仮想的に思い描き、想像することが必要になってくるのである。じぶんの見えないところで何かが怒っているかもしれないと考える能力である。このピアジュの研究によると、じぶんが過去に見た事象の再現的な表象化だけではなく、仮想的に表象化する能力は1歳半ば頃に形成されてくるようである。おそらく、このような仮想的表象化の能力を身に付けることは、連語による表現の出現とも密接に絡んでいるように思われる。じっさい1歳半ばあたりから、それまでの文脈に依存した一語文を脱け出し、2語、3語といった連語表現が見られるようになってくる。それは「ブーブーイッタ(自動車が〈じぶんの知らないどこかへ〉行ってしまって今はなくなった)」「ニャンニャンキタ(〈今までどこかにいた〉猫がやってきた)」のように、ある事象を今からの消失や、いまへの出現として仮想的に思い描く表象の構成が、ことばをつなげて連語的に表現する発達と密接な関連性をもっているのではないかと思われる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』p.17)

3歳:嘘とフリとやさしさのファンタジー

内緒と「ふり」の世界

自分の世界と、相手の世界の違いを意識できるようになります。

寝るふり、食べるふり、起こるふりなど。

子どもは3歳頃になると、意図的に嘘をつくことがみられる。ホントを隠すために他者に嘘をつく、他者を欺くといった行動が取れるようになってくるのである。心にないことを言ったり、心にもない表情ができるようになるのである。これは、他者に嘘をついたり、欺いたりしてまで守るべき自己の内緒の世界が成立してきたことの証でもある。

◆女児(2歳11ヶ月)が大きく膨らんだ袋を手に持っている。「何が入っているの」とたずねると、「ナイショ」という。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.152)

4歳:ごまかし??

ごまかす。「知らない」「忘れた」という年齢です。

意図して嘘をつく

心の理論の発達によって、子どもはさまざまな社会性を身につける。例えば、相手が「知らない」あるいは「誤って思っている」ことを理解することで、うそをつけるようになっていく。このように、うそをついて欺けるようになるうえで、心の理論は鍵を握る。そこで、心の理論が発達する4〜5歳頃から意図的なうそをつくことが可能になる。例えば、ソディアンは、王様と泥棒の人形を使って、「王様が箱の中の金貨を見つければそれを子どもがもらえるが、泥棒が見つけると金貨を持って行ってしまって子どもはもらえない」ということを子どもに理解させた。その後、王様と泥棒がそれぞれやってきて、金貨のありかを聞いたところ、3歳児は王様にも泥棒にも金貨の入っている箱を教えてしまうが、4歳をすぎると泥棒にだけ金貨の入っていない箱を示し、選択的にうそをつけたのである。(『問いからはじめる発達心理学』p.101)

嘘の自覚

4歳になる頃には、ホントの対立項としてウソッコ(虚構)が明確に意識かされ始める。(略)ごっこ遊びでハンバーグを作っている子どもに対して「何しているの」「何作っているの?」と尋ねると、子どもは「ハンバーグ」と答えてくれる。そこで「でも、これ砂だよ」と現実的意味を対置すると、4歳児未満時たちは困惑して返答に窮したり、「ハンバーグだもん」などとごっこ名を繰り返すだけであるが、4歳をすぎると「いいんだよ、ウソッコなんだから」とホントとウソッコという対立的な2校意識のもとに、大人の矛盾する行為を位置付けてとらえることができるようになってくるのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.75)

 

林の観察から例を取ると、4、5歳児のごっこ遊びで、A「おそば屋さんよ」といって、お盆に何種類か砂をもっていました。そこにBが加わって一緒にやり始めて、近くにいた子にコップを差し出して「アイスクリームです」という。これについてA「ダメー、おそば屋さんにアイスクリームなんか売ってない」」と抗議。(略)このようなやりとりは4歳以上の子供達のごっこ遊びを成立さえ、いたずらに逸脱させたりしないで維持展開させていく機能を果たすものです。その意味で明確なウソッコ意識をもてることのごっこ遊びにとっての重要要素が浮かび上がってきます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.92)

嘘と現実の間

感情が豊かになった時に、ファンタジーと現実をとりちがえてしまう。

「A子ちゃん、この雨、おばあちゃんとこで、電気消してローソクだけで話したりして、とっても楽しかったんだってね」というのは、感動を伝えようとして「先走った」ように思います。

じっさい、この子どもの家に火事があったわけではない。圧倒的なリアリティをもって迫る消防車を眼前にして、そこで喚起された強い情動によって、火事で消防車がやってくるといった想像がホントのごとくなって口をついてでたのだる。決してウソをつこうとしたわけではない。ホントとウソッコが2項対比的に意識され、ときにごっこ遊びのなかで、白けるようなホント(現実の世界)を持ち出してくるのが4歳児である。しかしその一方で、強い情動性が伴うと、想像と実在の間に漂うような様子をみせるのも4歳の年中児である。このことは年中児のごっこ遊びの特徴としてもみられる。子どもたちがその気になれば、想像的なごっこ遊びにのり、非常に盛り上がるのも年中児なのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.83)

5歳:嘘の多様化と遊びとファンタジー

建前をつかう

年長児はあまりおもしろくなくても、正直にホンネを言えば相手に悪いといった配慮のなかでタテマエとして拍手するようになる。ホンネを隠して相手にお上手をするとか、お上手を言うといった行動ができるのである。年中時ではじぶんのホンネを抑えて、外からの建前にしたがっていこうとするが、そうであるからこそタテマエによる行動がたやすくホンネの世界へと移行してしまうといったことも生じる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.72)

やさしい嘘

3、4歳ごろになると、言葉を介した情動のよりとりも一層活発になり、社会的に受け入れられる形で情動を表出するようになります。たとえば、3歳児は魅力のないおもちゃをもらったときに、一人で包みを蹴る状況では明らかにがっかりして表情を示したのに、送り主が目の前にいる状況ではがっかりした表情を見せないということがわかっています。このように、相手を慮って自分の情動表出をコントロールするだけでなく、 自分が非難を免れたり得をするために、ポーカーフェイスを装うこともできる容易なります。(『よくわかる情動発達』p.123)

人からもらったものがじぶんの気に入らない時であっても、がっかりした表情を表出してはいけないおいった行動は、3、4歳児でもすでに見られる。しかしながら、そのことを感情の表示ルールとして自覚的に理解し始めるのは、5、6歳頃を待たねばならない。この頃になると、他者の言動の裏に込められた感情を読み取り、それに言及するのぬ力も育ってくる。(略)5歳も半ばを過ぎる頃には、人は他者の前で自己の感情やホンネを意識的に隠したり、偽るといったことが、概念的にも理解されてくるようである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.130)

嘘と現実をはっきり区別する

5、6歳になると、想像と現実、ホントとウソッコのフレームの境界がよりはっきりと区別的に意識され、それぞれのフレーム内での行動として制御できるようになってくる。ごっこをごっこの世界として、想像を想像の世界として、そのフレームの中に踏みとどまって行為を意味付け楽しむことができるようになる。ホントをホントの世界の中で、ウソッコをウソッコの世界の中で処理しようとするのである。それはファンタジーを物語、想像やウソッコをその枠内で楽しむとった、この頃の能力の成長にも見ることができる。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.)

より現実的になる

願い事の変化をみると、年長児には、具体的で現実的な願いを自分の達成目標としてみすえるようになってくるのがうかがえる。このことは年中から年長児にかけて、こうありたい、こうなりたい現実的な未来のパースペクティブを持った自己が形成されてくるということを示唆している。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.138)

嘘(ファンタジー)を楽しむ

自己の体験を自発的に物語る能力は、年中から年長児にかけてより確かなものになってくるが、それと並行して虚構を語(騙)ることも巧みになってくるのである。このようなことばの働きへの気づきは、他者に嘘をつくだけでなく、ことばで虚構の世界を作り、それを楽しむ能力を獲得する土台ともなる。5歳頃にもなると、まさに虚構を物語る活動を楽しむことができるようになり、現実にはあり得ない仮構、架空の想像世界をことばによって生成し、楽しむことができるようになってくるのである。想像の世界を物語るといった活動、いわゆるファンタジーを物語ることができるようになってくるのである。(略)子どもにとってはこのような日常的な事柄が題材であれば、4歳児でも大人とあまり変わらない構造を持った物語を作ることができるという。、しかし、自己の体験にない非現実的なテーマ、たとえば「きんぎょばちの中でひとりぼっちだった金魚のトトが空を眺めていると、空にきんぎょのかたちの雲が見えた。”あの雲がともだちなんだ”と思い込んだ父は、親切な小鳥がくれた風船をからだにつけて空に浮き上がり、その雲をめざして泳ぎだした」という発端部からお話の続きを創作させると、お話作りをうまく展開していけるのは5歳児になってからなのである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.153)

物語をつくるファンタジーでリッチに生きる

5歳になると絵と絵をつなぎ合わせて一貫した物語をつくれる。「夢」とか「回想」のような「組み込み技法」を使ったファンタジーがつくれる。助詞が正しくつかえるようになってくる『言語発達』

人生を豊かにする

児童文学研究家の松岡は、これと似た事柄を「サンタクロースの部屋」という巧みな言葉で表しています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる」。これとまさに同じことが、多元的世界の形成にも言えるように思います。(略)幼児後期から児童前期にかけての多元的世界の形成こそが、その後、多様な価値を受け入れたり、新たな価値を作り出したり、新しいことに対して常に新鮮な気持ちで接していけたりする、そうした豊かな人間生活を私たちに可能にさせてくれるのではないかとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.188)

具体的な経験が基礎になる

麻生は神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年に関する新聞記事の解釈に、次のような見解を述べています。

私が危惧するのは、この種の一般に流布しがちな見解が、ファンタジーと現実の関係について謝ったイメージを生み出してしまう危険性である、少年Aの問題は、ファンタジーが肥大し、現実が侵食されたことにあるのでは決してない。むしろ、彼の問題は、ファンタジーを生み出す力が十分に育っていなかったことにあるように思われる。堪え難い過酷な現実が目の前に聳え立つとき、私たち人間にはその現実に対抗するもう1つのリアリティを生み出す力が備わっている、それが物語やファンタジーを生み出す力である、少年Aの問題は、決してファンタジーの過剰にあるのではない。むしろ逆に、ファンタジーの希薄さにあるように感じられる。

麻生はその証拠として、少年Aのファンタジーにはオリジナリティが少なく、コピーが目立つことも指摘しています。幼児が魔法のステッキやブレスレット、ヒーローベルトを手に入れて、そのまねをすることで今とは違う自分になろうとすることは他者のアイディアのコピーです。しかし、まねをしてみても返信できなかった時、どのようにすれば実現可能なのかを考え、自分なりに繰り返し修正を加えながらその実現可能性を試そうとする姿は、子どものオリジナリティが成せるものだと言えるでしょう。これは、これまで紹介してきた実験での幼児の姿とも共通するものです。(略)

他者の生み出したものにあこがれ、それを超えたものにするためには、自らの知識や経験をつなぎ合わせ、あれやこれや試行錯誤することが欠かせません。ヴィゴツキーは「創造物は経験(既有知識)の諸要素を様々に組み合わせることによって生み出されるものである」とし、「想像と経験は相互に依存する関係である」と述べています。経験や既有知識の量が多いほど、その断片同士の組み合わせが奥生じて想像力は広がりを見せ、その結果生まれた創造物はより豊かなものになるといううのです。このことからも言えるように、非現実的で魔術的な想像そのものが危険なわけではないのです。毎日の生活を思い切り生きているなかで獲得された知識をもとにした現実世界に根ざしたものであれば、非現実的で魔術的な想像も人間の生活をより豊かにするものとなり得るのです。4〜5歳頃の幼児はまさにこの現実と創造の世界を豊かに生きる住人になり始めているのだとおもいます。(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.154)

 

ここまで見てきたように、自分の生きる現実世界についての正しい認識が生活実感を伴って獲得されているからこそ、4歳頃の子供は魔術と現実を行き来する心を持つようになるのだと言えます。この心は「ありえない世界をことばを通して仲間と共有する楽しさ」を子どもたちにもたらしているとおもいます。「そうだったらいいのにな」という歌は幼稚園や保育所でとてもよく歌われている曲の一つです。その一節を以下に紹介します。

ママがこどもに なっちゃって
わたしがかわりに おかあさん
そうだったら いいのにな
そうだったら いいのにな

羽が背中に 生えてきて
きれいなチョウチョのバレリーナ
そうだったら いいのにな
そうだったら いいのにな
(『子どもの心的世界のゆらぎと発達』p.157)

認知的再評価によって現実を変えるファンタジー『残酷すぎる成功法則』

残酷すぎる成功法則

経済学者タイラー・コーエンが、個人のストーリーは、人生のごたご たをろ過するフィルターだと指摘したように、ゲームは、一連の活動に 重ね合わせる枠組みのようなものだ。それによって、ただ退屈そうに見 えた活動が俄然面白く、やりがいのあるものに思え、ときには病みつき になったりする。

しかも、たったいくつかの要素が、納税申告を愉快な経験に変える。 その一つは、「認知的再評価」と呼ばれるもので、簡単に言えば、「起 こっている事柄に関して、見方や発想を変えたストーリーを自分に語り かけること」だ。たとえばなかなか食べてくれなかった幼児に、飛行機 型のスプーンを与えてみたら、喜んで食べだした、なんてことがよくあ る。私たち大人だって、彼らとそう変わらないのだ(失礼!)。

ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られている が、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約する と、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個 もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を 示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。

しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のう ち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんど の子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、 超人的な意志力を示した。

驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲーム に見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

「子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟として ではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生た ちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を 変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてき た。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところが ゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。 たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう (ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカイ ンから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカイン を吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜ か?

それはあなたのストーリーと一致しないからだ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、。

隠されている感情(ホンネ):嘘をついて思春期を上手に生きる?

この記事のまとめ

嘘は方便です。

もう一つは、たんに気持ちや感情を推量するのではなく、隠されている気持ちや感情を推量しようとするものである。この推量の背後には、人の気持ちや感情には、表面に出ている部分と隠されている部分とがあり、隠されている部分こそがその人の本当の気持ちや感情なのだという考え方がある。そして、その隠されている本当の部分をなんとか想像によって補おうと試みる推量である。ここでは、この型の推量を二重構造型の推量と呼んでおこう。

「…りんごの木はしあわせだった、と言っていたけれど、それはほんとうじゃないと思う。…」小4(p.153)

「りんごの木はうれしかったといっているが、ほんとうは逃げたかったに違いないと思う。」小6(p.153)

「…でも、本当のりんごの木の気持ちは、この幸せのなかに悲しさやむなしさがあったと思います…」中2(p.154)

興味深いことに、二重構造型の推量は、日本の子どもたちには多いが、英国やスウェーデン、韓国の子どもたちにはみられない。彼らは、「りんごの木」のことばをその気持ちや感情の表現としてそのまま受け取っている。したがって「りんごの木は幸せだった」というナレーションもそのまま受け取り、「ほんとうはそうではないのではないか」と考えたりはしていないのである。(略)このような推量の傾向がどのような経過をたどってこの日本の社会に定着したのかを明らかにすることはできないが、次に紹介するボリビアの少女(10歳)のことばは、この問題を考えるうえで興味深い。

「…木の例に見るように人は偽りの感情を示す。例えば彼女(木)はいつも喜んだり幸せだったり、でも本当の心の中はぼろぼろで…本当は不幸だった。…自分たちの仕事場で身をすり減らしている開発途上国の隣人たちの例。彼らを利用している雇い主が来ると、彼らは決まって『自分たちは健康だ』とか、『給料はよい』とか『仕事の環境はよい』とか、本当はそうではないのに、仕事を失いたくないために嘘をつく。これは友人同士でも同じだろう。」この少女も「りんごの木」の「幸せだった」ということばは嘘だとみなしているそのうえで、このような嘘がどうして現れるのかについて述べている。彼女は、このような嘘が、強者に対して弱者が身を守るときに用いる方策だと説明している。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.152)

 

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