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【よい遺伝子を引き出す環境】プロジェクト・スペクトラムと学校という子育て環境

遺伝子と踊る

【よい遺伝子を引き出す環境】プロジェクト・スペクトラムと学校という子育て環境

EQ こころの知能指数
『EQ こころの知能指数』

言ってはいけない

『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲

この記事のまとめ

環境が大事。

環境は遺伝子をあぶり出す。

環境は自己の表現可能性を決める。

やっぱり目の前に海があるから泳ぐのであって、畳の上で泳ごうとするのはちょっとしたお遊びくらいだ。

潜在能力とは、環境や状況によって「隠されている」能力といっていいだろう。たとえば「○○した途端に○○」のように変化することがある。使える環境になかった能力が、環境が変わった途端に使われるようになり、育って行くことができます。

大人が、子どもの何を励ますか、子どもの天の才を生かすかどうか(EQ)は、環境の影響が大きいのです。自分を発見する、自分を励ます。前向きな自分を、みつける。という経験がなかったら、何もはじまらないわけなので。

「プロジェクト・スペクトラム」に理論的骨格を提供しているのは、ハーバード大学教育学部の心理学者ハワード・ガードナーだ。ガードナーは、次のように語っている。「そろそろ才能というものをもっと広範囲にとらえるべき時期にきていると思います。子供の発達のために教育がなしうる唯一最大の貢献は、その子が自分の才能に最もふさわしい方面に進んで能力を発揮し満足 して生きられるよう応援してあげることです。私たちは現在、そのことが見えなくなっていま す。いまの学校教育は、生徒全員を大学教授に仕立てようとするかのような内容です。そして、そのような狭い基準に合うかどうかだけですべての学生を評価しています。学校はいいかげんに 子供をランクづけするのをやめて、子供たちがそれぞれに持って生まれた才能や資質を見つけ、 それを伸ばしてやることに力を注ぐべきです。成功にいたる道は何百何千とあるのだし、そのた めに役立つ能力だってじつに多種多様なのですから」。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.65)

幼児期における実践

プロジェクト・スペクトラムは子どもの潜在的な能力はいくつもあり、それを刺激する環境を整えようというプロジェクトだ。簡単にいうと「7つの潜在能力を刺激する遊びができる場所を確保する」というものだ。この「7つの能力」を提唱した人の「マルチ能力理論」が知りたい方はコチラへどうぞ。

https://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/affiliate/misawa/download/MISAWA_study1.pdf

EQは数値化するのが難しいのですが、多重知性の強さ(仮にこれをEQの強さとして)を測定した結果、IQとの相関関係はなかったようです。

知性をこのように多面的にとらえると、IQだけで判断する場合に比べて子供の才能や潜在能 力がたくさん見えてくる。「プロジェクト・スペクトラム」に参加していた幼稚園児たちに、か つて一世を風靡したスタンフォード = ビネー式の知能検査とガードナーの多重知性の測定検査を 実施してみたところ、二つの検査結果のあいだに有意の関係を見いだすことはできなかった。I Q値で上位(一二五~一三三)を占めた五人の児童について「プロジェクト・スペクトラム」の十項目の検査成績を見てみると、大きなばらつきがある。十項目のうち三項目で高得点を記録し た児童が一人、二項目で高得点を記録した児童が三人で、あとの一人は一項目でしか高得点をあ げられなかった。(『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.67)

子どもはすごいって思えますか?

多様な遊びを可能にした、というだけでお母さんが感動する話です。研究としてプロジェクトスペクトラムを導入した幼稚園での出来事。https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10907227_po_ART0003306618.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

ひとりひとり違うのだ、ということを改めて大切に感じていきたいと思います。

子育ては遺伝に影響するか?誰が子どもを「育てて」いるのか?

この記事のまとめ

子どもを育てているのは親だけではありません。

ヒトは社会的な生き物で、群れから排除されてしまえば生きていく術がない。古今東 西、どんな社会でも「村八分」は死罪や流刑に次ぐ重罰とされた。これは子どもも同じ で、「友だちの世界」から追放されることを極端に恐れる。

勉強だけでなく、遊びでもファッションでも、子ども集団 ルールが家庭でのしつけ と衝突した場合、子どもが親のいうことをきくことはぜったいにない。どんな親もこのことは苦い経験として知っているだろうが、ハリスによってはじめてその理由が明らか になった。子どもが親に反抗するのは、そうしなければ仲間はずれにされ、「死んで」 しまうからなのだ。

親よりも「友だちの世界」のルールを優先することが子どもの本性だとすれば、「子どもはなぜ親のいうことをきかないのか」という疑問にはなんの意味もない。逆に不思 議なのは、宗教や味覚のように「親のいうことをきく」ものが残っていることだ。

これについてハリスは、「親が影響力を行使できる分野は、友だち関係のなかで興味 の対象外になっているものだけだ」と考えた。特殊な場合を除いて、子どもたちは友だ ちの親の宗教に関心を持たない。同様に、豚肉やニンジンを食べないとしても、それだ けで仲間はずれにされることもない。グループの「掟」は、食べ物の好き嫌いとは無関 係なのだ。 どのような友だちグループにも、内(俺たち)と外(奴ら)の境界がある。女の子な? らおしゃれやファッション、男の子ならゲームやスポーツ(あるいは喧嘩や非行)についての暗黙の掟によって、仲間か仲間でないかが決められていく。

子どもは友だち集団のなかで、グループの掟に従いつつ、役割(キャラクター)を決 めて自分を目立たせるという複雑なゲームをしている。子どものパーソナリティ(人 格)は、遺伝的な要素を土台として、友だち関係のなかでつくられていくのだ。

このように考えてはじめて、別々に育てられた一卵性双生児がなぜよく似ているのか、 その理由がわかる。 「子どもは、自分と似た子どもに引き寄せられる。一卵性双生児は同一の遺伝子を持っ ているのだから、別々の家庭で育ったとしても、同じような友だち関係をつくり、同じ ような役割を選択する可能性が高いだろう。遺伝と友だち関係が同じなら、その相互作 用によって瓜二つのパーソナリティができあがったとしてもなんの不思議もない。

ハリスの集団社会化論は発達心理学に大きな衝撃を与えたが、主流派のなかには いまだに子育ての重要さを説くひとたちも多い。

それはすべての親が、(自分の努力は報われるという) 「子育て神話」を求めているか らでもある。 だがハリスが発見した、子どもの本性”だけが、「別々の家庭で育った一卵性双生児は、なぜ同じ家庭で育ったのと同様によく似ているのか」という疑問に明快にこたえる ことができる。 (『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲 p.226)

社会(友達)が「個性」を決める?:キャラを被らないと生きていけない友達は友達ではない

スポーツが得意でも、友だちグループのなかに自分よりずっと野球の上手い子がいれ ば、別の競技(サッカーやテニス)が好きになるだろう。たいして歌が上手くなくても、 友だちにいつもほめられていれば、歌手を目指すようになるかもしれない。

最初はわずかな遺伝的適性の差しかないとしても、友だち関係のなかでそのちがいが 増幅され、ちょっとした偶然で子どもの人生の経路は大きく分かれていくのだ。

小さな子どものいる親は、「子育ては子どもの人格形成にほとんど影響を与えない」 というハリスの集団社会化論を受け入れ難いかもしれない。だが自分の子ども時代を振 り返れば、親の説教より友だちとの約束のほうがずっと大事だったことを思い出すので はないだろうか。このことをわかりやすく示すために、ハリスは乳児期に離れ離れになった一卵性双生 児の姉妹を例に挙げる。

2人の遺伝子はまったく同じだが、成年になったとき、1人はプロのピアニストにな り、もう1人は音符すら読めなかった。養母の1人は家でピアノ教室を開いている音楽教師で、もう一方の親は音楽とはまったく縁がなかった。 当たり前の話だと思うだろう。 ところが、子どもをピアニストに育てたのは音楽のことなどなにも知らない親で、音 符すら読めないのはピアノ教師の娘だった。

2人は一卵性双生児で、1人がプロのピアニストになったのだから、どちらもきわめ て高い音楽的才能を親から受け継いでいたことは間違いない。家庭環境や子育てが子ど もの将来を決めるのなら、なぜこんな奇妙なことが起きるのだろう。 ハリスによれば、子どもは自分のキャラ (役割)を子ども集団のなかで選択する。 音楽とはまったく縁のない環境で育った子どもは、なにかのきっかけ(幼稚園にあっ たオルガンをたまたま弾いたとか)で自分に他人とちがう才能があることに気づく。彼 女が子ども集団のなかで自分を目立たせようと思えば、(無意識のうちに)その利点を 最大限に活かそうとするだろう。音楽によって彼女はみんなから注目され、その報酬に よってますます音楽が好きになる。

それに対して音楽教師の娘は、まわりにいるのは音楽関係者の子どもたちばかりだか ら、すこしくらいピアノがうまくても誰も驚いてくれない。メイクやファッションのほうがずっと目立てるのなら、音楽に興味をもつ理由などどこにもないのだ。

ハリスの集団社会化論では、子どもは友だちとの関係のなかで自分の性格(キャラ) を決めていく。どんな集団でも必ずリーダーや道化役がいるが、2人のリーダー(道 化)が共存することはない。キャラがかぶれば、どちらかが譲るしかない。このように して、まったく同じ遺伝子を持っていても、集団内でのキャラが異なればちがう性格が 生まれ、異なる人生を歩むことになるのだ。(『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲 p.231)

社会的アイデンティティーと自己イメージの縛り

白人と黒人がともに通う学校で生徒たちの意識調査をすると、白人の子供は「黒人は勉強のことなどどうでもいいと思っている」とこたえ、黒人の子供は「白人はガリ勉野郎で俺たちはちがう」と考えている。この集団イメージの差が、知的能力の高い黒 人の子どもを拘束するのだ。

このことを劇的に示したのは、ニューヨークのなかでも治安の悪いサウスブロンクス に住む16歳の黒人高校生ラリー・アンツのケースだ。  ラリーはバスケットボールのチームに入りたかったが、成績不振で入部が許されず、 高校を中退することになる。友人のうち3人は麻薬がらみの殺人事件に巻き込まれ、生 命を失っていた。典型的な転落コースだが、ラリーは幸運なことに、スラム街の子ども を遠く離れた土地に転居させるプログラムに選ばれた。

ラリーが転校したのはニューメキシコ州の小さな町の、中流階級の白人家庭の子ども たちしかいない高校だった。2年後、ラリーは高校のバスケットボールチームのエース になり、成績もAとBばかりで大学進学を目指していた。ニューヨークからやってきた バスケットボールが好きなごくふつうの黒人の若者は、白人しかいない田舎の高校でた ちまち「俺たちのチーム」のヒーローになり、友だち集団の特等席に自分の居場所を確 保したのだ(ラリーが人種差別の対象にならなかったのは、プロ野球やサッカーのJリ ーグで外国人の〝助っ人”が人気者になるのと同じだろう)。

ラリーがサウスブロンクスの古巣を訪れたとき、かつての友人たちはその服装に驚き、 話し方がおかしいと笑った。ラリーはブレザーの前ボタンをきちんと留め、中西部訛り でしゃべったのだ―なぜなら、新しい友だち集団のなかで生き延びるには、中流階級 の白人の子どもたちと同じように振る舞う以外に選択肢はなかったのだから。

子どもが友だち集団のなかで自己形成していくのなら、ラリーのように、環境を変え ることで性格や行動に劇的な変化が生じても不思議はない。ではなぜ、こうしたプログ ラムを大規模に実施しないのだろうか。

その理由はもうおわかりだろう。ラリーが「変わった」のは、その高校でたった一人 の黒人だったからだ。

もしも複数の黒人生徒がスラム街から転校してくれば、彼らはたちまちグループをつ くって白人の生徒たちと敵対しようとするだろう。そのときに彼らが選ぶキャラは、中 流階級の白人文化とまったく異なるもの、すなわち、ギャングスター”なのだ。(『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲 p.237)

一緒に成長する仲間を選ぶ:自己は他者との関係で作られる

白人と黒人の生徒が混在する学校に通う黒人の子どもは、「勉強するような奴は仲間 じゃない」という強い同調圧力をかけられている。仲間はずれにされたくなければ、意 図的によい点数を取らず、ギャングスターの振る舞い方を身につけなければならない。 同様に男女共学の学校に通う女子生徒は、「数学や物理ができる女はかわいくない」という無言の圧力を加えられている。「バカでかわいい女」でなければ友だちグループ に加えてもらえないなら、好きな数学の勉強もさっさと止めてしまうだろう。

このように考えれば、親のいちばんの役割は、子どもの持っている才能の芽を摘まな いような環境を与えることだとハリスはいう。

知的能力を伸ばすなら、よい成績を取ることがいじめの理由にならない学校(友だち 集団)を選ぶべきだ。女性の政治家や科学者に女子校出身者が多いのは、共学とちがっ て、学校内で「バカでかわいい女」を演じる必要がないからだ(必要なら、デートのと きだけ男の子の前でその振りをすればいい)。同様に芸術的才能を伸ばしたいなら、風 変わりでも笑いものにされたり、仲間はずれにされたりしない環境が必要だろう。

だが有名校に子どもを入れたとしても、そこでどのような友だち関係を選び、どのよ うな役割を演じるかに親が介入することはできない。子どもは無意識のうちに、自分の 遺伝的な特性を最大限に活かして目立とうとするだろうが、それは多分に偶然に左右さ れるのだ。

もちろんこれは、「子育ては無意味だ」ということではない。人生とは、もともとそ ういうものなのだから。(『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』橘 玲 p.241)

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