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不確定・不確実:不安な社会を生きるために【プロセスを信じる・命の声を聞く】

自己と社会

不確定・不確実:不安な社会を生きるために【プロセスを信じる・命の声を聞く】

この記事のまとめ

「命」を信頼してみませんか。

あまりのも慌ただしい世の中。

確実なものを幻想して、すがろうとしがちですが、

そんなものは一切ありません。

だから自分の人生を自分が生きるという覚悟、自分の人生は自分のものだという自信、自分の人生の舵は自分がとるのだという経験を積み重ねていくことが大切です。

心が大事です。

このあいだ、十五歳になるうちの娘が文句を言った。「いまじゃ、わたしの年頃って、とっても 難しいのよ。何が正しいことなのか、何がいいことなのか、パパもママも言うことがころころ変わ るし、ほかの人はみんな、自分が何をしているのかわかっちゃいない。だからわたし、何もかも自 分で考えなくちゃならないの」

(略)

今日ではわたしたちは、正邪の問題や、どうすればまともな道からはずれずにいられるかについ て、そして子供たちをどう指導するかについて、ストレスにさらされている。正式な宗教やその倫 理はもはや支配力を持たず、家族構成は流動的でつねに変化し、コミュニティや伝統という感覚の パターンは崩壊している。誰かが道徳のゴールポストをみな動かしてしまい、わたしたちはもうど んなゲームをしているのかわからなくなり、何がルールなのか気にしなくなっている。歴史家のエ リック・ホブスバウムは、石器時代からこのかたより過去五十年間のほうが、変化が多かったと主 張している。現代について彼は、こう書いている。「不確実性と予測のつかなさに妨げられて、コ ンパスの針はもう北を指さなくなり、地図は役に立たなくなった」(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.268)

不確定だから、作る

不確実だからこそ、色々なものがすぐに壊れてなくなります。危なっかしいものもでてきます。そうしたものとどう関わるのか。あえて「知らぬふり」をして自分も他人も「疎外」していくのか。

いや、作り上げていこう。という命の声をきいたなら、素直にそのように心を受け止めてください。

沈んでいる船に乗るのではなく、命を生かすために、新しい船をつくる、といってもいいでしょうか。

今日ではおおぜいの人が、境目、にいると言っているが、そのほんとうの意味を知らずに口にし ていることが多い。境目、とはカオス理論から来た言葉である。この比較的新しい科学は、天候 や人間の鼓動、蜂の巣や株式市場など、予測のつかない行動を説明する。カオス理論では、境目は 秩序と混沌が出会う場所、わかっているものとわかっていないものが出会う場所を指す。自然界では、それは創造や自己生成が起きる場所である。新しい情報が生まれる場所なのだ。 (『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.276)

「命」を信頼する

「信頼がなければ、何も生まれない」と言ったのはネイティブアメリカンの人たちです。

不安定な、価値観もひび割れた、すがるにもすがれない世界で信頼するものがあるとしたら?

「命」はゆっくりと、時として急激に、確実に、変化し、成長する。

ということでしょう。

プロセス、流れを信じて、委ねる。

これを神と呼んでもいいし、仏様と呼んでもかまわないとおもいます。ただそれは、人ではなく、誰もが持っている「命」そのものです。

混沌に思える水の流れも、確かに流れている。

どれだけ乱れた、不安になるような流れでも、信じていくしかない。「命」には、それに耐える強さがある。なぜなら、混沌はもともと、人間の中にあったからだと。

 『こうツァラトゥストラは語った』のなかでニーチェは、古い秩序の死を宣言し、つぎのように書 いている。「人間は内面に混沌を抱いていなければ、踊る星を生むことはできない。そう、あなたのなかにも混沌はあるのだ」

ニーチェが混沌という言葉で意味したものは、自己を組織し、ものごとを作りなおす能力、トッ プダウンの宗教によって押しつけられた伝統的な善悪を超える能力のことである。これについてのニーチェのイメージは、確実性という塔のあいだに張りわたされた綱の上を歩かなければならない 曲芸師のイメージである。渡りきることができなければ、落ちて死んでしまう。(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.278)

誰もが持っている、ただ、自分で「世話をする」ことによってのみ育つのが、「魂」であり「命」であり「SQ」です。

ヘブライ語では、コンパス(マツペン)、良心(マツプーン)、うちに秘めた魂の真実(ツ ァフーン)という言葉は、みなおなじ語源から派生している。良心を持つことは、うちに秘めた魂 の真実に触れることであり、その真実に触れていれば、言動を導いてくれる内面のコンパスを持っ ていることになる。古代ギリシアでは、知性、(ユーフィア)という言葉も自然、(フィジス) という言葉も、フィアームという語源から来たものだった。ユーフィアとは直訳すればうまく育 つ人、という意味であり、フィジスは直訳すれば、あらわれてくるもの、という意味である。わた したちは内面の何かを表出することにより、成長し、知性的になる。真実”という意味のギリシ ア語(アリシア)は、直訳すれば,忘れない、という意味である。つまり前々から知っていること を忘れないことなのだ。ヘブライ語も古代ギリシア語も、ほんとうの知の源はわたしたちのなかに あることを教えている。

プラトンの対話篇『メノン』のなかでソクラテスは、無知な召使いの子供をつかまえ、一連の質 問をする。そして、その子供の答えから幾何学の根本的な原理をすべて引きだしてみせた。「ほら ね」とソクラテスは言う。「この子はずっと前から幾何学の根本を知っていたんだ。忘れていただけさ」(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.282)

「命」の声を聞く

素直さ、謙虚さというものがある。これは「従順さ」と言い換えると呪いの言葉になる可能性がある。本当の素直さ、謙虚さは「自分の命」に対してであり、他人に対して使われるものではない。

わたしたちは、”たんなる感情”と合理的なコントロールの板挟みになっている。この章の冒頭で 引用したクェーカー教徒が言っているように、したいこと、とすべきだと思うこと、の板挟みに なっている。こうして本能を疑うようになり、素直さを信用せず、罪悪感を感じ、自己管理をする のにお仕着せの規律に頼るようになる。この矮 小化した素直さは、SQを内なるコンパスとして 利用させてくれる深い素直さとおなじではない。

自然発生スポンタニティ 、反応レスポンス、責任レスポンシビリティ、という言葉がみなおなじラテン語の言葉から派生しているこ とを考えれば、自然発生(素直さ)のほんとうの意味について重要なことがわかる。素直さとは、 責任をとらなければならないものにしっかり反応することである。つまり、現実というドラマにど うかかわっていくか、という問題なのだ。(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.284)

自分に素直になる

なれるわけないでしょ!

という声が聞こえます。

それが、現代に生きる私たちの「生きづらさ」を頑なにしている声です。

心が大事。

体のメッセージ、本当の気持ちを、閉じ込められている心を、お世話してあげる。赤ちゃんをあやしたり、叱ったり、止めたり、抱きしめるように。

SQは深い形の素直さであり、自己のいちばん深い芯に対する反応、そしてその深い自己の基盤 となっている存在の芯に対する反応である。心の底から素直になるとき、当然ながらわたしは内な る自己と結びついている。そしてその自己の一部となっている他者、自然や自然のプロセス、宇宙 の現実のすべてと結びついている

心の底から素直になるとき、わたしは自己を知り、自分が世界なのだということを知る。こうし て世界に対する責任が生まれる。他者に対する責任も生まれる。なぜならわたしが他者に反応する からであり、他人がわたしの一部であると知るからだ。他者といかにつき合うべきか知るのに、規 則や確実性は必要ではなく、習慣という規約も必要ではない。そういったものは、ほんとうに素直 な知の邪魔になるばかりだ。もちろん、不確実性や危険がともなう。誤りを犯すこともあるだろう が、わたしは誤りから学びたいと思う。(『SQ 魂の知能指数』ダナー ゾーハー, イアン マーシャル p.285)

人生は誰のものか:選ぶ・変える【人生を自分のものにする】『マシュマロテスト』

この記事のまとめ

人が成長するとは、「命」が強くなっていくことです。

エリザベスの例からは、子どもが幼いうちに、”自分には選択肢があってそれぞれの選択肢には結果が伴うのだ”と学ぶのを手助けすることがいかに大事であるかがよくわかる。また、ご褒美をうまく利用すれば適切な選択を促せることも一目瞭然だ。何をご褒美にすべきかは、親の価値観と何がその子に効くかによる。(略)

子どもたちが発達させる自制戦略は、その子が生まれたそのときから、保育者への愛着を経験するなかで方向づけられる。(略)幼い我が子の欲求を敏感に捉え、求め荒れているときに手を差し伸べて力になってやるのと同時に、子供の自立を促せば、みだりに子どもを支配したり、子供の欲求よりも自分の欲求を重視したりする親に比べて、うまくいく可能性が高いだろう。子どもの自立心と責任感をともに高めるために、自ら決められている選択肢があること、それぞれの選択肢には結果が伴うこと(良い選択→良い結果、悪い選択→悪い結果)を幼いうちに子供が認識するのを、私たちは手伝ってやれる

ジョージ・ラミレスを思い出して欲しい。彼はサウス・ブロンクスで過ごした子供時代に荒れた環境で暮らし、自分を見失って途方に暮れていたが、その後、イエール大学に入学して優秀な成績を収めている。

本人によれば、「人生を救われ」て新たな道を歩み始めたのは9歳の時だそうだ。そのときに、じぶんの選択とそれにより導かれる結果には因果関係があることを初めて学んだという。KIPPでの初日に、現実に自分には選択肢があること、決めるのは自分であること、その結果に対処するのは自分の責任であることを理解し始めた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.296)

目標をたて、修正したり、向かっていって、よろこぶ

子どもは子どもで親とは別の人間で、親とは別のことを感じている。「別の人間」だとちゃんと感じたうえで、どんな「お守り」を渡せるだろうか。

親は、幼い我が子がうまくやっていかれる条件を整えるためにさまざまな力添えができる。たとえばこんな有力な戦略がある。楽しいけれど難しく、しだいに難易度が上がる課題に一緒に取り組むのだ。ピアノを弾く練習をするのでも、積み木やレゴなどで何かを作るのでも、ジャングルジムに登るのでもいい。親にとって難しいのは、子供が必要と感じ、望んでいる手助けをしてやりながらも、子供に自力で取り組ませ、決して課題を引き受けたり代わりにやったりしてはならないという点だ

幼いうちに成功経験を積めば、子供は成功や力量に関して、楽観的で現実に基づいた見通しを持つようになり、自分にとって最後には自ずと満足できるようになる活動を自力で探す心構えを持ったりしやすくなる。(略)私たちは、子どもが不安になったり気落ちしたり逃げ出したりせずに挑戦し続けられるように、ときおり経験する失敗は人生や学びの一部であることを理解して受け入れるように導いてやり、そうした挫折を乗り越える建設的な方法を考えるように励ましてやれる。そして子供に、あとからご褒美をあげると約束した時に、欲求充実の先延ばしを厭わないようになってほしいとおもうなら、子どもとの約束を守るように心がけることだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.297)

人生をたびに喩える:心ある道をあゆむ【ドンファンの教え】

ひとつの道に固執して人生を無駄にするのは、意味がない。

その道が心のない道なら、なお のことだ。

ある道に旅立つ前に、「この道には心があるだろうか?」と問うてみるといい。

答 えがノーなら、おのずとわかる。そうなったら別の道を選ばねばならない。

心のない道はけっ して楽しくない。

その道をたどるだけでも、骨が折れる。

反対に、心のある道は楽である。

苦 労しなくてもその道が好きになる。

カルロス・カスタネダ著『呪術師と私―ドンファンの教え』

私はふと思ったことがある。「何を選んでも、何かをしようとする限り、思いもよらないことがあって、苦労するには違いない。ならば、苦労しても喜べるものを選ぼう」

長い長いプロセスを思えば、目の前の一歩が次にどう繋がるのかわからない。たくさんの道があって、どれが「正解」かわからない。だから、「心」に、「命」に、「魂」に、感じたように素直に動くしかない。それが自然だと思えるようになったら、幾分か、生きることが楽になる。

「こっちかぁ!」と進んでいたところで、「え?違うの?」という時もある。世の中の誰かが求める道とは、もちろん、違う時だってある。

そんな時、「道」をどう捉えたらいいのか。

6つの道

ホランドの6タイプに依拠して「道」を考えることもできます。

6つの道のどれかの組み合わせもあり得ます。

こうした考え方をして、自分の「道」を感じるきっかけになればとおもいます。

 

その「道」を行く心の「動機」と対応させると、次のようになるようです。

1:義務の道ー集団志向、所属、安全

2:養育の道ー情愛、親の情

3:知識の道ー理解、知ること、探査

4:個人変革の道ー創造性、エロス、生の本能

5:友愛の道ー建設、市民権

6:奉仕するリーダーの道ー自己主張、権力、贖罪、忠実な奉仕

100年を生きる「命」をリッチにする『ライフシフト』

自己主体感に関して難しいのは、寿命が長くなれば、考慮しなくてはならない未来の自己像が何通りも出現することだ。100年ライフでは、お金を使うことより貯めることが重要になるし、余暇時間をレクイエーション(娯楽)から自己のリ・クリエーション(再創造)に振り向ける必要性も高まる。家庭内での役割と互いの関わり方について、パートナーと難しい会話をする能力と意思も強化しなくてはならない。ここで問われるのは、未来に得られるかもしれない恩恵のために、いま厳しい決断ができるかどうかだ。(略)

研究によれば、セルフコントロールの能力は人によって異なり、その違いは幼い時から現れる。例えば、3歳の子供に、いまマシュマロを食べるのを我慢すれば、30分後にもう一個マシュマロを上げようというと、満足を味わうのを先延ばしにしてセルフ・コントロールができる子どもと、それができない子どもがいる。ものごとに習熟するためには、満足を先延ばしできるかどうかが重要だ。なんらかのスキルを習得しようと思えば、長期の恩恵(たとえば、イタリア語を話せるようになること)のために、目先の快楽(例えば、お気に入りの連続ドラマを見ること)を我慢しなくてはならない場合が多いからだ。

研究により、セルフ・コントロールは後天的に身につけられることがわかっている。ものごとに習熟するために快楽を先延ばしにする能力は、学習できるのだ。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエックによれば、厳しい課題に向き合い、なにかに習熟したり、プロジェクトをやり遂げたりする能力をどの程度持っているかは、人によって異なる。

ドゥエックの言う「成長思考」の持ち主は、快適なぬるま湯の外に出て生き、未来につながる道に思考を集中させようとすることにより、将来の計画を貫くことができる。そうした人たちは、「現在の暴虐」ーいつもすぐに手に入る果実ばかりを追い求めたり、手ごわい課題を与えられると動揺したりすることーをあまり経験しない。

こうした思考習慣を身につけるためには、方法論を学ぶことが有効だと、ドゥエックは主張する。不可能とは言わないまでも困難な課題に取り組むように指導・奨励された子どもは、成長思考をはぐくみやすいというのだ。もしドゥエックに助言を求めれば、長い人生を通じて生産的でありたいと思う人は、困難な学習目標を立てて、強い覚悟を持ち、目標に向けて脱線せずに忍耐強く努力し続けるよう言われるだろう。

100年ライフでは、人々に自己効力感と自己主体感をもたせ、計画と実験と習熟を後押しすることの重要性が高まる。教育機関と政府は、そのために貢献することができる。(『ライフシフト-100年時代の人生戦略-』アンドリュー・スコット, リンダ・グラットンp.362)

意志の強い弱いは、情動とどうつきあうのか、どう生きるのか、という人間そのものの魂のあり方が見えてくるものだ。

自分が見たい世界を、自分の手で作り直す『残酷すぎる成功法則』

誰でも多かれ少なかれ、「世界とはこういうもの」「自分とはこういうもの」とおもっているかもしれません。小さい子どもだと「ありえないこと」でもファンタジーの力で現実に引きつけることができます。

同じように、大人も子どもも「自分のストーリー」を語る強さは、現実と乖離しない程度の空想ならば、良い影響を人生に与えるでしょう。現在、コロナコロナですが、「認知的再評価」つまり、「物語の語り直し」をすることで、目の前の世界が変わって見えるようになります。(曇って見えるようにすることも、輝いて見えるようにすることも、できます)

ウォルター・ミシェルによる「マシュマロ実験」は広く知られているが、通常は、意志力との関連で語られることが多い。簡単に要約すると、「マシュマロをすぐ一個もらう? それとも我慢して、あとで二個もらう?」と尋ねられた幼児のなかで、我慢することができ、意志力を示した子は、後年社会的に成功する確率が高かったことを証明した研究である。

しかしこの研究におけるもう一つの興味深い要素は、我慢した子のうち、かなり多くの子が誘惑を回避しようとした方法にあった。ほとんどの子が、ただ歯を食いしばって食べたい衝動を抑えつけたのではなく、超人的な意志力を示した。

驚くべきことに、この子たちは「認知的再評価」を達成していたのだ。つまり、自分の置かれた状況を別のレンズを通して見たり、ゲームに見立てたりしていた。ミシェルは説明する。

子どもたちは、マシュマロを〝もっちりしたおいしいおやつ〟としてではなく、〝空中に漂うフワフワの雲〟として認識したのです。その場合、彼らはマシュマロとベルを目の前に置かれながら、私と大学院生たちがネをあげるまでじっと座っていました」

「認知的再評価」に取り組むこと、すなわち、自分自身に見方や発想を変えたストーリーを語ることにより、じつは従来の意志力のパラダイム全体を覆すことができる。

元来、意志力は筋肉と同じで、使いすぎれば疲弊するといわれてきた。しかし意志力が枯渇するのは、そこに葛藤があるからだ。ところがゲームはこの葛藤を別のものに変えてくれる。ゲームはその過程を面白いものに変えるので、マシュマロ実験が示したように、私たちは意志力を枯渇させることなく、はるかに長く持ちこたえることができる。

たとえば、あなたの目の前に山積みのコカインが置かれたとしよう(ここではあなたはコカイン中毒者ではないとする)。あなたはコカインから快感が得られると知っている。理由があるから人びとはコカインを吸う。ところが大多数の人は「いりません」と断る。その理由はなぜか?

 それはあなたのストーリーと一致しないからだ。

私はコカインを吸うような人間ではない、と認識しているのである。そしてあなたはコカインがいらないさまざまな理由を思いつくだろう。あなたは目を閉じ、拳を握りしめ、お願いだからコカインを持ち去ってくれと懇願するだろうか? そんなことはしないだろう。コカインを拒絶するのに、意志力を働かせる必要がまったくないからだ。

ところがこれが、肉汁のしたたるステーキだったらどうだろう? しかもあなたがステーキに目がなく、とくに空腹だったら? あなたが採食主義者でないかぎり、葛藤が生じ、意志力が消耗される。が、ここで自分に語るストーリーを変えてみると、ステーキを断っても意志力をまったく使わずに済む。ストーリーを変えれば、あなたの行動を変えられるのだ。そしてゲームも別の種類のストーリー、それも面白いストーリーだ。

 空想話は楽しいが、ここで人生の話に戻ろう。仕事はなぜ面白くないのだろう? じつはその答えは極めて単純だ。今日私たちの知っている仕事はつまらないゲームだからだ。(『残酷すぎる成功法則』エリック・バーカー )

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