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【能動的な身体の使用】がなければ思考は内面化されない白石正久の発達観

子育て用語
  1. 【能動的な身体の使用】がなければ思考は内面化されない白石正久の発達観
    1. 発達は、子どもの願いからはじまる
    2. 発達とは矛盾をのりこえること
      1. 矛盾を乗り越えながら、「心のバネ」を強くする
      2.  「できること」「できないこと」「したいこと」の「ズレ」
    3. 子どもが発達するには「間」が大事
      1. わざと反対のことを言い強がってみせる。おどける。
      2. 子供の能動性・発達要求を満たすために能動的身体の使用が可能な時間
      3. 能動的身体の使用が可能でなければ思考は内面化しない
      4. 「人」としての子ども
    4. 子どもの「力量」
      1. 「失敗から立ち直る経験」
  2. 能動的な身体の使用がなければ思考は内面化しない:実例
    1. 1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり
    2. 2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す
  3. 【学校で生き残ったいい先生のモデル】子どもの「命」を強くする大人の姿【能動的な身体の使用→思考の内面化=「心」の形成】
    1. 1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり
    2. 2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す
  4. 【「命」を強める「心」のあり方】と「発達の段階」を無視した大人の暴力『発達相談室の窓から』
    1. 自らの障害を見つめ、受け入れる
    2. 「発達」は、子どもの一番の願い
      1. 成長を求めて止まない「命」
    3. 能動的に身体的が使用できる条件は何か?
    4. 次の発達へ向かう力
    5. 自分の場所・自分の時間(保健室)

【能動的な身体の使用】がなければ思考は内面化されない白石正久の発達観

 

 

 

 

『障害の重い子どもの発達診断』

 

 

 

 

『発達相談室の窓から』

発達は、子どもの願いからはじまる

子どもたちは、それぞれの年齢で輝いているからこそ、「なにごとも不思議と思う心」をもち、その好奇心によって、たくさんのことを学んでいきます。そして、それぞれの年齢で新しいことに挑戦したい発達への願いをもち、それを実現することによって、一歩一歩新しい自分を築いていくのです。

つまり、発達は子どもの願いからはじまります。子どもが「○○ができるようになりたい」と願うからこそ、今は可能性でしかないその願いが、やがて現実のものになるのです。 この「発達は子どもの願いからはじまる」というなにげないことばには、浅くない意味が 込められています。それは、発達の原動力、エネルギーは、どこから生まれるのかという発達の原動力 問いへの答えでもあるからです。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.9)

 

この時期(4ヶ月)になってもなかなか自分で哺乳ビンを持とうとしない子どもたちや、寝返りに 挑戦しない子どもたちのことで、保母さんから相談を受けることがあります。その原因は、確かではありません。しかし、快の世界を求める外界への意欲(願い)の高まりと、そこで生まれた矛盾を力強くのりこえることが、少し中途半端なまま通りすぎてきた可能性があります。いいかえれば「大好きなおかあさんや保母さんの顔が見たい、でも見られない」、 「ガラガラを取りたい、でも取れない」などという正面の世界への願いを強く育て、そこで生まれた矛盾をじっくりのりこえていくことは、新しい主人公に生まれかわるために、不可欠な道すじだと思えるのです。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.25)

発達とは矛盾をのりこえること

発達の学習は、子どもの願いを理解することからはじまりますが、それで終わるのではありません。子どもは、「○○ができるようになりたい」と願っても、今の自分の力では「できない」現実に、ぶつかることでしょう。発達への願いのあるところに、必ず、発達への悩みが生まれるのです。

私たちもそうです。前を向いて、いい仕事がしたいと願えば願うほど、自分の現実を知 り、悲しくなったり、できない自分にイライラします。しかし、この「○○したい、でも いまの自分ではできない」という発達への願いと現実の自分とのへだたりを解決していくことなしに、新しい自分をつくりあげていくことはできないのです。

このような子どもの心のなかの世界に入ろうとすることこそ、保育や教育のしごとをするものの、いちばんたいせつな姿勢だと思います。たとえば、旧ソビエトの心理学者であったルビィンシュテインは、「教師が、子どもの行為や振る舞いの内面のなかに入り込むこと、子どもの前に立てられている課題にたいするその子どもの行為の動機のなか、彼の内面的態度のなかに入りこむことができないでいるなら、その教師の仕事ぶりは、根本的にみて、なにもみえていない。その教師は、自分がはたらきかけなければならない子どものことも、自分自身の教育的なはたらきかけがもたらす結果のことも、同じくわかっていないのである」と述べています。本当にその通りだと思います。

発達の願いと現実の自分とのへだたりは、子どもの心に生まれた矛盾と呼んでよいでしょう。その矛盾を子どもが認識したとき、それは子どもの悩み、葛藤となってあらわれるのです。子どもたちは、悩みつつもこの矛盾に立ち向かうことをやめないでしょう。その勇気はすばらしいと思います。矛盾をもち、前向きに葛藤している存在として子どもたちを見つめてみましょう。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.11)

矛盾を乗り越えながら、「心のバネ」を強くする

心のなかの矛盾をのりこえることによって、「自分もまんざら捨てたものではない」と いう自分への信頼が子どもに生まれます。その信頼が、もっと新しいことにも挑戦してみ たい、という願いを育てることでしょう。そして、その信頼は、新しい矛盾をのりこえるエネルギーにもなっていくはずです。自分の力で矛盾をのりこえたことが、新しい自分を築くための「心のバネ」をつくることになるのです。

たとえば子どもたちは、這い這いができるようになるまえに、何度も腹這い姿勢のまま、 手足でからだを支え、屈伸運動をくりかえします。スプーンが使えるようになるまえに、 手に持ったスプーンを打ちつけ、うれしい顔を見せます。ことばが話せるようになるまえ に、あまり意味のない喃語をたくさん話してうれしそうです。それは新しい可能性をもち はじめている自分の力を、心地よく楽しんでいる姿です。きっと、矛盾をのりこえた喜びに満たされ、「心のバネ」がつくられているのでしょう。この「心のバネ」での跳躍を豊 かに広げることが、やがて這い這いやスプーンやことばという新しい力に挑戦するための「心のバネ」にもなるのです。この何度も同じことをくりかえして、いっけん変わりばえ のしないときが、実は次の飛躍を準備するたいせつなときなのです。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.15)

 

 「できること」「できないこと」「したいこと」の「ズレ」

発達の道すじでは、ある力が先行し、他の力がそれに続くような「ずれ」があります。指導には、まず先行する力にはたらきかけることによって、後に続く力を導き出し、ふたつの力を結びつけていく工夫が必要です。これは誘導的なはたらきかけといっ てもいいでしょう。 後に続く力が追いついてきて、それが発達を先導する力になるように、しだいに指導の方法を切り替えていくのです。(『子どものねがい・子どものなやみ』p.23)

子どもが発達するには「間」が大事

発達の過程においてみられる価値ある事実は、すべて子どもの能動性をともなって展開をはじめる
(『障害の重い子どもの発達診断』p.43)

 

発達的に意味があるのは、ある時点で形態的に対称位を獲得していることではなく、視覚、聴覚の協応や視覚と手指操作(目と手)の協応、対人関係における感情の分化と情動の高まりが連関し対象への能動性、志向性を内包した自由度の高い対称位を獲得していく過程が存在することである。(『障害の重い子どもの発達診断』p.50)

 

矛盾を克服する過程としての「間」 機能障害の重い子どもほど、活動に取り組むまでに時間を必要とすることが ある。自閉症スペクトラムであり機能障害の重い子どもにおいては、常同行動 に没頭し、活動に背中を向けるように振る舞ったりする。本書で紹介した多く の事例がそうであったが、実は一歩を踏み出すまでに心のなかで「行きつ戻りつ」 のたたかいをしている。大人は、その時間がほんの数秒ならば許容できるだろ うが、数分に至ったり室外に出ていったりすると、しびれを切らして子どもを 急かしてしまう。その言葉かけが、子どもの心を別れさせる。本書でしばしば 使用した「間」には、このような矛盾を克服していく過程の子どもの心理が潜 んでいる。私たちの現代生活が、「間」を失ってしまっていることに思いを致さ なければならないのかもしれない。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.227)

わざと反対のことを言い強がってみせる。おどける。

相手との出会いの葛藤をくぐった子どもたちからは、さっきのはにか みがうそのように、「なんでもできるで!聞いてみ!」と強がりのこと ばが溢れ出ます。自分の今の力では簡単すぎると思えるほどの課題では、わざと逆の答えを示して、おとなを攪乱しようとします。そして、おとなを見て、ニ ヤッと笑うのです。

葛藤の波動が心のなかを支配している子どもたちは、簡単に答えられ ることでも、一度はその波動をくぐらせようとします。だから、素直に答えを出してはくれません。葛藤の波動を隠すために、こんないたずら で主人公になろうとしているのでしょうか。反対に、むずかしくて力の 及ばない課題では、相手の指示に取り合おうとせず、まったく別の反応、 しかもかなり低次の反応をしてみせるのです。そして、妙に、強がって みせます。そんなおとなへのおどけた応答のなかに、相手を受け入れて、 これからがんばりだそうとするときの心の準備体操を感じるのです。(白石正久『発達の扉(上)』p.183)

子供の能動性・発達要求を満たすために能動的身体の使用が可能な時間

例えば、聴覚の優位の顕著な初期の段階では、子供が好きな心地よい音を選び耳元で鳴らしながらゆっくり待つと、そこに子供の眼球が動き対象を見つけるような反応が見られるようになります。この聴覚への働きかけから聴覚の反応を引き出す時間的な「間」は子供の能動性を呼び起こすために大切なものです。「見ようとする」反応は眼球や首などの運動を伴うゆえに、子供の能動性を必要としているのです。そして「見ようとする」運動を通して子どもの能動性は一層確かなだっていくでしょう。(『発達相談室の窓から』p.45)

発達検査では、「能動性」(オトノネでいう「命」の強さ)を見る

能動的身体の使用が可能でなければ思考は内面化しない

ところが、障害を持っている子供たちの場合、特に手指の巧緻性に弱さがあると、このような失敗し試行錯誤しつつ、そこから思考が内面化していく過程が、量的に弱いものになってしまいます。そして、たとえば「大きいー小さい」の対比ができるようになるような2、3歳の発達段階になっても、その思考が内面化しないようさを引きずっていることが見られます。対象との関係でじっくり考えて活動するような「間」の持ちにくさとともに、言語の獲得にも弱さが現れやすく、一期分が拡大しないことがあります。あるいは、「なに?」「どっち?「○○の上に」「○○の前に」などという関係の把握を前提としての言葉の理解が困難になることがあります。おそらく、対象を具体的に操作する中で獲得していく関係の認識と、それを表現する言葉が、十分獲得されていないからでしょう。(『発達相談室の窓から』p.52)

難治性てんかんを持っている子供たちに、このような傾向が顕著になることがあります。そんな時、例えば砂や粘土などの変化する素材に道具で働きかけながら、「〇〇ではない〇〇だ」というような思考が自然に量的に拡大していく工夫や、「それでいのかな」などと子供が自分の活動対象かして、じっくり考える「間」をとらせる言葉がけを大切にしてきました。発達検査の場で大にして見られるのは、子供の失敗を「違うでしょ」「反対よ」などと、すぐに修正したくなる周囲の姿勢です。このような「間」のもてない大人の姿勢は、失敗に出会いつつ、自分で考えて工夫しようとしている子供を、結果として混乱させてしまいます。(『発達相談室の窓から』p.562)

頑張りたくても頑張れない自分と向き合っている時に、脅したり騙したりするのではなく、あるいは、その葛藤を避けて通そうとするような、いわば「甘やかし」への道を開けるのではなく、「でも頑張ろう」と思っている子供の心に働きかけるような、じっくりと関わる姿勢を、私たちは大切にしてきました。てんかんを持っている子供たちの「不器用さ」は。おそらくより良い自分を選び撮るための葛藤を強いものにすることでしょう。しかし、その不器用さから目をそらすのではなくて。その不器用さの中にも、輝きある姿を発見させていくことこそ、指導の課題だと思います。(『発達相談室の窓から』p.58)

「人」としての子ども

また、おとうさんが仕事から帰ってきて、一日の疲れを子どもで癒そうと、精一杯あや してあげているのに、あやせばあやすほど、子どもは不機嫌になることがあります。けっ しておとうさんのことを嫌っているのではありません。子どもからも、おとうさんに語りかけ、笑いかけているのに、その微笑みや発声にお構いなく、おとうさんが一方的にあやそうとしているのでしょう。子どもは、もうちゃんとおとうさんに伝えたい心をもった、コミュニケーションの主人公になっているのです。

だから、おとなには、子どもの思いをたいせつに受けとめながら、働きかけていく構え。 おとなが客体化して、子どものコミュニケーション要求を受けとめる指導 期の前半の発達段階のように、すべての生活をおとなに依存し、何も自分ではできない時期であっても、子どもは心の世界、内面の世界をもち、何かを感じ、何かを伝えようとし ているのです。そこには、立派に主人公としての価値ある姿があるのではないでしょうか。 そんな、子どもの心の世界を尊重することが、子どもの能動性を育てることになるのです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.33)

 

子どもの「力量」

自閉的な傾向のある子どもは、一対一対応の学習が容易に成立するので、写 真や絵カードや構成のモデルの提示によって、大人の意図した通りに活動する ことも多い。このような指導法は、一見功を奏したように見えるが、行動において大人の意図に適応しているのであって、発達そのものの変化ではない。学習の成立と発達的変化は区別されるべきことである。学習は、提示された条件 のもとで成立しても、他の条件のもとで同じように成立するとは限らない。そ のような異なった条件のもとであっても、試行錯誤を繰り返し自分を調整しな がら、新しい活動を生産していく基盤になるのが発達的力量である。子どもは、 自らの要求を実現するために、試行錯誤、他者との葛藤、他者の援助や指導を 必然的に経験し、そのなかで「自一他」関係を基盤として、外界と自己を変革 していく方法を獲得していく。この変化が発達的変化である。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.75)

「失敗から立ち直る経験」

さらに教育に望みたいことは、「失敗から立ち直る経験」です。介助・ 介護される経験のなかではこのことは、圧倒的に少ないのです。失敗し そうになれば必ずといっていいほど、援助の手がさしのべられます。介 助する側が失敗することはあっても、本人が失敗することは少ないので す。しかし、「失敗からの立ち直り」は大きくなっていくときの必須条 件といってもいいすぎではないくらい大事です。失敗のなかで、悔しい 思いを噛みしめたり、失敗しても他のことで取り返せる経験をしたり、失敗することはたいしたことではないのだと思えたり、そこから立ち直 る経験をくぐることが、思春期の大事な仕事のひとつです。教育という 場は「失敗してもいい場なのだ」と子どもたちに伝えたいものです。(『発達相談室の窓から』p.93)

 

能動的な身体の使用がなければ思考は内面化しない:実例

 

白石正久『発達相談室の窓から』p. 165-170

1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり

細かな手の操作や全身の協調運動に 障害の現れているしげちゃんは、養護学校になっても、小学校以来の苦 手意識は消えず、「ぼくへたやから」と逃げ腰になるのでした。いつも 「へた」な自分を実感してきたので、集団のなかでの力関係は変わったの に、養護学校でも友だちのなかに入れません。しかし担任の先生は、そ んな友だちのなかに入れないしげちゃんの姿に、「ぼくだってやってみ たい」という心を、痛いほど感じられたそうです。

先生は、しげちゃんの「心の中心課題」に迫るために、さまざまな工 夫を始められました。みんなで取り組むエアロビクスでは、しげちゃん も少しずつがんばるようにはなっていたのですが、そもそもからだが「不器用」なしげちゃんにとって、大きな達成感や自信をそのなかで引き出すのはむずかしいことなのです。でもそんなエアロビクスのなかで、走 ることが好きなしげちゃんを発見した先生は、思い切り走って爽快な気 持ちになれるような時間をたくさん取ることにしました。一歩引いてし まうしげちゃんも、心は「もっと大きい自分」を求め始め、負けず嫌いなのです。その心をくすぐるように、マラソンで休憩するしげちゃんに、 「しげちゃんどうする。あと3周走ったらSちゃんに勝つぞ」と揺さぶり をかけたのです。そうするとしげちゃんは立ち上がり、その3周を走り きりました。教室に帰って、「けっこう走ったな」とおしゃべりするし げちゃんは、きっと自分への手ごたえを感じ始めていたのでしょう。

そんなしげちゃんに、先生は、かけがえのない存在になってくれる友 だちをつくりたいと思いました。しげちゃんの大好きな相撲をいっしょ に楽しみ、互いに好きになってくれたらいい、とKさんを引き合わせる ことにしました。先生の「読み」通り、しげちゃんはひびき合うものを 感じたのか、「Kさん、Kさん」といって昼休みに出かけていくようにな りました。「Kさん来てるかな」がしげちゃんの口癖になり、作文にはK さんがたびたび登場するようになったのです。相撲では、勝つときが多 いのですが、負けることもあります。わざと負けているような姿も、と きどき見かけるようになりました。Kさんとのあいだには、「勝つ一負け る」だけが問われるのではない、「もう一つ」の価値をもった世界が生 まれはじめていたようです。しげちゃんの心のなかに、友だちという存 在が位置づきはじめたのでしょう。 K さんだけではなく、他の友だちの 名前もおぼえるようになりました。

先生は、「できる」喜びの積み重なりにくいしげちゃんに、からだの 活動だけではなく、何かをつくりあげる喜びを伝えたいと願いました。 両手の協応と細かい操作が苦手で、運針が上手にできないしげちゃんに とって、みんなが楽しそうにがんばっている裁縫は、参加したくないこ との一つでした。そこで先生は、しげちゃんの自尊心を大切にしながら 裁縫に参加できるために、しげちゃんにミシン縫いをさせてみることに したのです。学校の掃除に使う雑巾をみんなにたくさんつくってあげよ うと相談して、雑巾づくりに取り組んだのです。ミシンを前に嬉々とし て作り上げたしげちゃんの雑巾は、なんと一日で7枚になりました。同 じ組の友だちに、こんなにたくさんつくった事実を知ってほしいし、喜んでほしかったのでしょう。とくに、しげちゃんが大事にしてあげたい と思いはじめているTくんには、特別に2枚あげることができました。

先生は、活動が充実して新しい自分に出会え、伝えたい思いがあると きには、それが必ずことばに現れ出ると考えて、文を綴ることを欠かさ ず取り組んできました。とくにしげちゃんは、からだや手の活動は苦手 でも、語彙は豊かなのです。それが、しげちゃんの一枚の作文になりま した。

マラソンしたこと

今日学校でマラソンをしました。Tくんたちもマラソンとなわとびを していました。ぼくも走りました。とってもつかれました。もう少しで あせをかくところでした。でも、あせは、でませんでした。ほんとうは、 でるはずなのにどうしてあせがでないのか、それがふしぎです。

とってもよかったのは、Tくんたちがよろこんでくれたことです。も う一つのよかったところは、ミシンでぞうきんが七枚できたことがよか ったです。やくそくどおりTくんには、とくべつに二枚あげました。ほ かのひとたちは一枚だけなのにTくんには、二枚です。ほんとうは、み んな一枚なのに、Tくんは二枚あげて、のこりはMさんも一枚です。よ ろこんでくれたのが一番うれしかったです。またミシンぬいをします。

きょうは、いいことばっかりでした。マラソンが一つ目です。次は、 ぞうきんが今日じゅうに、できたのが、よかったです。みんなは、大よ ろこびしてくれてぼくは、うれしくてうれしくて、なみだがでるほど大 かんげきです。ぼくは、みんながよろこんでくれて、ほんとうによかっ たです。ぼくは、うれしくてうれしくてこんなにそんけいされたのは、 はじめてだったので、ぼくもまんぞくしました。こん度もがんばります。

実は、しげちゃんは、この作文を書いたころ、養護学校の寄宿舎に入 舎することになりました。通学がむずかしいわけではなかったのですが、家族を離れて生活するなかで、生活の力をつけ、自立できる自信を、本 人も家族も必要としていたのです。寄宿舎のなかでのしげちゃんの最大 の苦手は、「ごはん」を食べることでした。だから食堂にもなかなか入 ろうとせず、いすに座っても横を向き、苦手なことと向き合えないので した。先生ははじめは、「6時までがんばって食べよう」という指導をし ていたのですが、けっきょくいやいや食べて食べきらないという結果の 繰り返しになってしまうのでした。そんな悪い結果の積み重ねが、しげ ちゃんにはとてもこたえるのです。先生はそのことに気づき、むしろが んばろうとしているしげちゃんの本当の心を信頼して、「どうせしげち ゃんは食べられないものね」と、心を揺さぶったのです。くやしい思い を少しずつバネにしながら、がんばって全部食べきることができた日、 しげちゃんは、空になったお茶碗のなかを友だちに見せびらかすように して「ジャン!」と自慢してみせたのです。それから、寄宿舎のなかで は、この「ジャン!」が大流行になりました。生活の場でも、しげちゃ んは確かな手ごたえを感じはじめ、自らの存在感をもてるようになって いったのです。

 

2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す

しげちゃんの、たとえば「だんだん大きいマル」を描く系列化課題の むずかしさは、養護学校に入ったことでも根本的には変わりませんでし た。14歳7か月での表現が、次のようになっています(図3)。そこに、 しげちゃんのもっている認知障害の頑固さが、現れていると思いました。 しかし、そのなかにも、自分が大きいマルに続けて小さいマルを書いて しまった間違いに気づいて、自分で「×」をして書き直している部分が あります。

 

「だんだん大きく」という依拠すべき基準枠をもてるように なり、その基準枠との関係で、自分を見つめ、修正することができるよ うになっているのです。このように頑固な認知障害に立ち向かい、それ を克服しようとする力は、人格発達のなかから生まれてくるのです。

同じことが、先の作文のなかにもみられます。「マラソンしたこと」と いうテーマを選びながら、文脈は、突然ミシンかけになってしまいます。 しかし、「ミシンかけ」に転じてしまっても、自分の掲げた「マラソン したこと」というテーマを忘れ去ることはなく、その依拠すべき基準枠 に、もう一度立ち戻ろうとしているのです。そうして文脈は、もう一度 「ミシンかけ」にもどります。確かに「マラソンしたこと」がテーマだ った作文ですが、それはしげちゃんの本意ではなく、とにかく「ミシン かけ」の喜びを記したかったのです。結果として、しげちゃんは「ミシ ンかけ」の喜びを伝える筋の通った文脈をつくりあげようとしているの です。しかも、その文脈のなかで、これまでその意味を十分わかっては いなかったであろう「そんけい」ということばに、自分なりの意味と喜 びの感情を込めているのです。しげちゃんの心のなかには、本当に尊敬 されている自分がいるからです

このように認識の力は、外界を認識するだけではなく、自分自身を認識する力にもなっていきます。4歳の発達段階では、その時期の対比的 認識によって「できる一できない」「勝つ一負ける」などという二分的 評価で自分を認識しています。しかし、その自分はいつまでも二分的評 価だけで測れる存在ではなくなっていきます。勝ちたいばかりではなく 相手のことを思って負けようとするような、「大きい自分のために小さ い自分を選択する」こともある「もう一つ」の可能性をもった存在にな り、そして時間の流れのなかで、昨日より今日が、去年より今年が、「だ んだん大きく」変化する存在になっていくとき、対比的認識や二分的評 価にしばられる段階から卒業し、系列的認識ができるようになっていく のです。しかも、その「だんだん大きくなる自分」のイメージが発達に フィードバックし、いっそうすじ道を立てて考えたり、系列的に操作す る力を鍛えてくれるでしょう。

しげちゃんにとっての「だんだん大きくなる自分」は、ちょっとつら かった時期を越えて、時間の流れのなかで変化する可能性をもった自分 であるとともに、人間関係のなかでその存在価値が変化してきた自分で した。「だんだん大きくなる自分」は、自分よりも小さいものに、相手 の立場にたって教え導く力をもち、そうすることによって、いっそう教 え導ける自分を誇りに思えるようになる発達段階の特徴なのです。そん な人格形成の課題を、周到な友だちづくりと活動の選択によって粘り強 く進めた養護学校と寄宿舎の教育は、すばらしいと思います。もちろん、 その教育を選んだのはしげちゃん自身ですが。

【学校で生き残ったいい先生のモデル】子どもの「命」を強くする大人の姿【能動的な身体の使用→思考の内面化=「心」の形成】

 

白石正久『発達相談室の窓から』p. 165-170

1)「大きい自分」を実感できる仲間づくり

細かな手の操作や全身の協調運動に 障害の現れているしげちゃんは、養護学校になっても、小学校以来の苦 手意識は消えず、「ぼくへたやから」と逃げ腰になるのでした。いつも 「へた」な自分を実感してきたので、集団のなかでの力関係は変わったの に、養護学校でも友だちのなかに入れません。しかし担任の先生は、そ んな友だちのなかに入れないしげちゃんの姿に、「ぼくだってやってみ たい」という心を、痛いほど感じられたそうです。

先生は、しげちゃんの「心の中心課題」に迫るために、さまざまな工 夫を始められました。みんなで取り組むエアロビクスでは、しげちゃん も少しずつがんばるようにはなっていたのですが、そもそもからだが「不 器用」なしげちゃんにとって、大きな達成感や自信をそのなかで引き出 すのはむずかしいことなのです。でもそんなエアロビクスのなかで、走 ることが好きなしげちゃんを発見した先生は、思い切り走って爽快な気 持ちになれるような時間をたくさん取ることにしました。一歩引いてし まうしげちゃんも、心は「もっと大きい自分」を求め始め、負けず嫌いなのです。その心をくすぐるように、マラソンで休憩するしげちゃんに、 「しげちゃんどうする。あと3周走ったらSちゃんに勝つぞ」と揺さぶり をかけたのです。そうするとしげちゃんは立ち上がり、その3周を走り きりました。教室に帰って、「けっこう走ったな」とおしゃべりするし げちゃんは、きっと自分への手ごたえを感じ始めていたのでしょう。

そんなしげちゃんに、先生は、かけがえのない存在になってくれる友 だちをつくりたいと思いました。しげちゃんの大好きな相撲をいっしょ に楽しみ、互いに好きになってくれたらいい、とKさんを引き合わせる ことにしました。先生の「読み」通り、しげちゃんはひびき合うものを 感じたのか、「Kさん、Kさん」といって昼休みに出かけていくようにな りました。「Kさん来てるかな」がしげちゃんの口癖になり、作文にはK さんがたびたび登場するようになったのです。相撲では、勝つときが多 いのですが、負けることもあります。わざと負けているような姿も、と きどき見かけるようになりました。Kさんとのあいだには、「勝つ一負け る」だけが問われるのではない、「もう一つ」の価値をもった世界が生 まれはじめていたようです。しげちゃんの心のなかに、友だちという存 在が位置づきはじめたのでしょう。 K さんだけではなく、他の友だちの 名前もおぼえるようになりました。

先生は、「できる」喜びの積み重なりにくいしげちゃんに、からだの 活動だけではなく、何かをつくりあげる喜びを伝えたいと願いました。 両手の協応と細かい操作が苦手で、運針が上手にできないしげちゃんに とって、みんなが楽しそうにがんばっている裁縫は、参加したくないこ との一つでした。そこで先生は、しげちゃんの自尊心を大切にしながら 裁縫に参加できるために、しげちゃんにミシン縫いをさせてみることに したのです。学校の掃除に使う雑巾をみんなにたくさんつくってあげよ うと相談して、雑巾づくりに取り組んだのです。ミシンを前に嬉々とし て作り上げたしげちゃんの雑巾は、なんと一日で7枚になりました。同 じ組の友だちに、こんなにたくさんつくった事実を知ってほしいし、喜んでほしかったのでしょう。とくに、しげちゃんが大事にしてあげたい と思いはじめているTくんには、特別に2枚あげることができました。

先生は、活動が充実して新しい自分に出会え、伝えたい思いがあると きには、それが必ずことばに現れ出ると考えて、文を綴ることを欠かさ ず取り組んできました。とくにしげちゃんは、からだや手の活動は苦手 でも、語彙は豊かなのです。それが、しげちゃんの一枚の作文になりま した。

マラソンしたこと

今日学校でマラソンをしました。Tくんたちもマラソンとなわとびを していました。ぼくも走りました。とってもつかれました。もう少しで あせをかくところでした。でも、あせは、でませんでした。ほんとうは、 でるはずなのにどうしてあせがでないのか、それがふしぎです。

とってもよかったのは、Tくんたちがよろこんでくれたことです。も う一つのよかったところは、ミシンでぞうきんが七枚できたことがよか ったです。やくそくどおりTくんには、とくべつに二枚あげました。ほ かのひとたちは一枚だけなのにTくんには、二枚です。ほんとうは、み んな一枚なのに、Tくんは二枚あげて、のこりはMさんも一枚です。よ ろこんでくれたのが一番うれしかったです。またミシンぬいをします。

きょうは、いいことばっかりでした。マラソンが一つ目です。次は、 ぞうきんが今日じゅうに、できたのが、よかったです。みんなは、大よ ろこびしてくれてぼくは、うれしくてうれしくて、なみだがでるほど大 かんげきです。ぼくは、みんながよろこんでくれて、ほんとうによかっ たです。ぼくは、うれしくてうれしくてこんなにそんけいされたのは、 はじめてだったので、ぼくもまんぞくしました。こん度もがんばります。

実は、しげちゃんは、この作文を書いたころ、養護学校の寄宿舎に入 舎することになりました。通学がむずかしいわけではなかったのですが、家族を離れて生活するなかで、生活の力をつけ、自立できる自信を、本 人も家族も必要としていたのです。寄宿舎のなかでのしげちゃんの最大 の苦手は、「ごはん」を食べることでした。だから食堂にもなかなか入 ろうとせず、いすに座っても横を向き、苦手なことと向き合えないので した。先生ははじめは、「6時までがんばって食べよう」という指導をし ていたのですが、けっきょくいやいや食べて食べきらないという結果の 繰り返しになってしまうのでした。そんな悪い結果の積み重ねが、しげ ちゃんにはとてもこたえるのです。先生はそのことに気づき、むしろが んばろうとしているしげちゃんの本当の心を信頼して、「どうせしげち ゃんは食べられないものね」と、心を揺さぶったのです。くやしい思い を少しずつバネにしながら、がんばって全部食べきることができた日、 しげちゃんは、空になったお茶碗のなかを友だちに見せびらかすように して「ジャン!」と自慢してみせたのです。それから、寄宿舎のなかで は、この「ジャン!」が大流行になりました。生活の場でも、しげちゃ んは確かな手ごたえを感じはじめ、自らの存在感をもてるようになって いったのです。

 

2)集団のなかで育つ「自分」が発達を耕す

しげちゃんの、たとえば「だんだん大きいマル」を描く系列化課題の むずかしさは、養護学校に入ったことでも根本的には変わりませんでし た。14歳7か月での表現が、次のようになっています(図3)。そこに、 しげちゃんのもっている認知障害の頑固さが、現れていると思いました。 しかし、そのなかにも、自分が大きいマルに続けて小さいマルを書いて しまった間違いに気づいて、自分で「×」をして書き直している部分が あります。

 

「だんだん大きく」という依拠すべき基準枠をもてるように なり、その基準枠との関係で、自分を見つめ、修正することができるよ うになっているのです。このように頑固な認知障害に立ち向かい、それ を克服しようとする力は、人格発達のなかから生まれてくるのです。

同じことが、先の作文のなかにもみられます。「マラソンしたこと」と いうテーマを選びながら、文脈は、突然ミシンかけになってしまいます。 しかし、「ミシンかけ」に転じてしまっても、自分の掲げた「マラソン したこと」というテーマを忘れ去ることはなく、その依拠すべき基準枠 に、もう一度立ち戻ろうとしているのです。そうして文脈は、もう一度 「ミシンかけ」にもどります。確かに「マラソンしたこと」がテーマだ った作文ですが、それはしげちゃんの本意ではなく、とにかく「ミシン かけ」の喜びを記したかったのです。結果として、しげちゃんは「ミシ ンかけ」の喜びを伝える筋の通った文脈をつくりあげようとしているの です。しかも、その文脈のなかで、これまでその意味を十分わかっては いなかったであろう「そんけい」ということばに、自分なりの意味と喜 びの感情を込めているのです。しげちゃんの心のなかには、本当に尊敬 されている自分がいるからです

このように認識の力は、外界を認識するだけではなく、自分自身を認識する力にもなっていきます。4歳の発達段階では、その時期の対比的 認識によって「できる一できない」「勝つ一負ける」などという二分的 評価で自分を認識しています。しかし、その自分はいつまでも二分的評 価だけで測れる存在ではなくなっていきます。勝ちたいばかりではなく 相手のことを思って負けようとするような、「大きい自分のために小さ い自分を選択する」こともある「もう一つ」の可能性をもった存在にな り、そして時間の流れのなかで、昨日より今日が、去年より今年が、「だ んだん大きく」変化する存在になっていくとき、対比的認識や二分的評 価にしばられる段階から卒業し、系列的認識ができるようになっていく のです。しかも、その「だんだん大きくなる自分」のイメージが発達に フィードバックし、いっそうすじ道を立てて考えたり、系列的に操作す る力を鍛えてくれるでしょう。

しげちゃんにとっての「だんだん大きくなる自分」は、ちょっとつら かった時期を越えて、時間の流れのなかで変化する可能性をもった自分 であるとともに、人間関係のなかでその存在価値が変化してきた自分で した。「だんだん大きくなる自分」は、自分よりも小さいものに、相手 の立場にたって教え導く力をもち、そうすることによって、いっそう教 え導ける自分を誇りに思えるようになる発達段階の特徴なのです。そん な人格形成の課題を、周到な友だちづくりと活動の選択によって粘り強 く進めた養護学校と寄宿舎の教育は、すばらしいと思います。もちろん、 その教育を選んだのはしげちゃん自身ですが。

 

 

【「命」を強める「心」のあり方】と「発達の段階」を無視した大人の暴力『発達相談室の窓から』

自らの障害を見つめ、受け入れる

できない宿題を無理にやらせることは暴力です。 お子さんの「できるできない」「発達の段階」を無視した関わりは、暴力です。 もっといってしまえば、訳のわからない授業に縛り付けるのも発達を阻害する暴力です。 日本の学校は暴力の中心部なので気をつけてください。   「命」はいつでも、どこでも、能動的であり、発達する欲求があります。 だから学校で子どもが「命」の発達を阻害する「心」の仕組みを作り上げるのは、何としても避けなくてはいけません。

「発達」は、子どもの一番の願い

自閉症という障害がなければ、生後10か月ころには、相手のことばを 理解し、相手の世界へのあこがれをもち、自分でやりたいとひっくり返っ てもめ、いろんな押したり引いたりのやりとりのなかで自分で行動を決 めていきます。しかし、自閉症児は「相手をとらえる」ことにまず弱さ をもっています。なんとか相手をとらえられるようになっても「相手と 自分の意図を調整する」ということに弱さをもっています。発達の力を つけていく過程のなかでエアーポケットのように次々に「問題」にはま りこんでしまいます。ここに自閉症児の保育や教育のむずかしさがあります。 子どもたちの姿は多様です。子どもたちの発達はさまざまな力が互い に関係しあいながら育ちます。ある力を引き出すために、またある問題 行動を改善するためにはたらきかけるのではなく、あくまでも子どもの 全体像をみながら、子どもの姿の裏にある願いを引き出し、育てる、そ んな保育・教育が大切なのではないでしょうか。(『発達相談室の窓から』p. 140)

成長を求めて止まない「命」

発達相談にやってくるしげちゃんは、いつも姿勢を崩したり、課題に 取り組む前には、絵本などに手を出してすぐには答えようとしませんで した。しげちゃんの姿勢にも儀式にも、自分の力に見通しがもてない、 自分の力を信頼できない心が素直に現れるのでした。「小さい自分」で はない、「大きい自分」を求めてやまない3、4歳ころの子どもたちは、 自分が大きい存在になれることによって、自分への手ごたえをもち、いっ そう「大きい自分」をつくりあげようとします。「大きい自分」とは文 字通り、自分よりも小さい仲間、弱い仲間に対して、手をさしのべられる存在としての自分です。そして、集団のなかで、自分の役割を果たせ た喜びや存在感を抱ける自分です。その自分づくりに成功することによ って、「もっと! もっと!」大きい自分を求めて発達の大道を歩くよ うになるのが、5、6歳の発達段階でしょう。いわば、そのための大事な 人格形成の課題が、先立つ発達段階にはあるのです。しげちゃんは、そ の大きい自分を実感する機会が、十分には保障されていませんでした。 障害児学級の集団のなかでも、認識の力はあるのに、からだや手の「不 器用さ」が、しげちゃんの心を支配していたのです。 しかし、そんなしげちゃんのなかにも、確かに変化への準備がなされ ていました。絵に力と思いがこもるようになったのです。美術展への入 選が、本人のなかに自信をつくったとお母さんは言われていました。な かでも、6年生の発達相談で描いてくれた絵は、「ラーメン屋さん」です。 そこには、大きくなったらラーメン屋さんになりたいというしげちゃん の未来への希望が、力強く表現されていました。(『発達相談室の窓から』p. 163)

能動的に身体的が使用できる条件は何か?

たかしくんは、9歳ころから、たとえば「飴を二つ持っています。も う一つもらったら、全部合わせて何個ですか?」などとむずかしい質問 をされると、悲しそうに泣き出すようになりました。家でも精神的に不 安定で、お兄ちゃんが彼のことをからかうと、ばかにされたと思ったの か、泣き出してしまうのでした。「ごめんごめん」と謝れば、すぐに泣きやむのですが。 とくに、10歳のときの「救急車」のように答えたいのに知らないこと があり、自尊心が傷つけられるようなことばがかけられるときに、悲し みをあらわにするのでした。きっと、自分のからだや能力が、客観的に 認識されはじめた時期だったのでしょう。みんなができるのに、自分に はできないことがいっぱいあるのです。5、6歳の子どもたちが、「だん だん大きくなる自分」になりたくて、なんでも一番になりたい願いをも つのに、現実の自分の力が及ばないで、悲しくなって周囲に八つ当たり する心と、どこかで似通っているように思いました。しかも、たかしく んは、自分のからだやことばに現れる重い障害も、みえるようになって いたのです。そこには、時間が解決してくれるわけではない、深い二重 の葛藤がありました。おそらく、たかしくんの泣きは、「こうありたい 自分とそうではない自分」という自己認識の矛盾に悩む時期にみられる、 障害児としての深い葛藤の姿だったのでしょう。 「しようとしてもできない自分」「みんなのようにできない自分」とい う認識を、子どもからとりのぞくことはできません。子どもはどうやって、この深い葛藤をのりこえていくのでしょうか。 そんな葛藤のなかにあっても、たかしくんは確実に自らの可能性と能 力を広げていきました。動かせなかった手が、開ける挙げられる自由を 獲得し、動かせなかった頭が、左なら傾けられる自由を獲得し、それに よって、イエス・ノーの基本的な意思も伝えられるようになりました。 自分のことで精一杯だったたかしくんは、そんな自由を拡大するにつれ て、学校では友だちのことが気になりだし、誰かが泣いていると声を出 して伝え、友だちがほめられると自分もうれしそうに笑うようになりま した。給食のときに友だちががんばって食べていることをほめられると、 まるで「自分は何をがんばったらよいか」と問うように、先生の顔をじっ と見るのでした。「たかしは、口を閉じて咳き込まないように食べるこ と」と言ってもらうと、その日はなんども口を閉じて食べようとしたといいます。 こんな経過を見ていると、常に子どもの可能性を広げ、新しい力を導 き出してくれる教育や機能訓練の役割の大きさを実感します。重い障害 はあっても、確実にからだの自由が拡大していくこと、そのからだによっ て、自分の意思を表現し伝えられること、「みんなのようにできない」こ とはたくさんあるけれど、でも同じ障害をもった仲間のなかでなら、自 分もみんなと同じに、みんなに負けずにできることもあること。 たかしくんは、「できないことがいっぱいある」という自己認識をもっ たうえで、「でも自分には、がんばってできるようになったこともいっ ぱいある」という「もう一人の自分」に誇りをもち、障害をもっている 仲間を「友だち」として認識し、その友だちとなら、自分も負けずにが んばりたいという「もう一つの世界」をだいじに思えるようになってき たのです。そんななかでたかしくんは、「もう一つの世界」で生きる「も う一人の自分」が、実はより確かな、本当の自分として信頼できるよう になっていったのでしょう。 「できないことがいっぱいある」たかしくんではなく、「がんばってで きるようになったこともいっぱいある」たかしくんを認め、障害をもっ た友だちとの心の絆をわがことのように喜んでくれた家族の存在は、す ばらしい養護学校の存在とともに、ますます輝きを増しているのです。(『発達相談室の窓から』p. 110)

次の発達へ向かう力

この「さまざまな障害像は発達の過程のなかで、生まれ、変化し、発 展していく」ととらえる視点が実は保育・教育するうえで大切なのでは ないでしょうか。この視点をぬきに子どもたちの示す固有の障害や発達 の弱い力にばかり目がいって、これをなんとかしようと機械的な対応や 訓練を繰り返すならば、形のうえでは「できる」ようになったとしても、 その力は「次への発達にむかう力」にはつながっていきません。ある場 面や状況のなかではできたとしても、場面や状況が変われば同じように はできなかったり、あるいは逆に場面・状況に応じて変化させなければ ならないのに、固執してしまったりします。 「次への発達にむかう力」は 「○○したい」という子どもの意図と密接に結びついています。子ども の意図は相手の意図とぶつかりあい、やりとりするなかでより確かなも のになります。保育・教育はこの「子どもの意図」を引き出すことと無 関係ではありえません。しかし、この子どもの意図への配慮がないまま に「○○ができない」からと形のうえで「できる」ことを追求すると、 子どもはパニックを引き起こしたり、「意図」がうまく育ちきらないま ま相手の指示を待つようになったりします。 「○○ができる・できない」 は固定的なものではありません。発達していく過程のなかで必ず変化し ていきます。子どもが示すさまざまな状態を、自閉症という枠組みで固定的にとらえて、「○○ができないから○○ができるようにする」とい うような直接的に練習させるような方法ではなく、子どもの意図をうま く引き出し、相手とうまくぶつかりあいながら「○○ができる」ように することがだいじです。「できた」「わかった」ことが自分自身への自信と なり、次への挑戦につながるようなそんなはたらきかけが必要なのです。 また、本物の「できる」力はどんな発達の力を基礎にしてできてくる のでしょうか。たとえば、先にあげた、「他者のことばを理解する力」 は、相手のやることや次の場面を期待する心がうまれてきて、いっしょ にワクワクと待つことができるようになり、楽しみあえるようになると、 獲得されてくるようです(“まてまて”と追いかけてもらうのが好きに なる、“イナイイナイバアー”を楽しみ、自分もかくれて探してくれる のを待つなど、です)。「見通しをもつ力」もまた、生活のなかで楽しい ことがいっぱい準備され、経験するなかで次を期待する力として育てら れます。やりたいことがはっきりすると、友だちとぶつかることや先生 の思いとぶつかることもあり、大変な波紋を引き起こしたりもしますが、 見通しをもち実現していく力となります。 「自分で行動を組み立てる力」 は、本人の得意とする活動が生活のなかにあり、他人の指示ではなく、 本人が自分で選び自分で決めることが保障されるなかで育ちます。どの場合にも、本人がやりたくなるような、あこがれをもってのぞむことが できる活動・生活がそこにあることが前提です。(『発達相談室の窓から』p. 138)

自分の場所・自分の時間(保健室)

圭くんのお母さんは「またきっと何かがあるのだろうと思うし、でも、 たとえ何かがあったとしてもこの子のかわろうとするサインなのだろう と受けとめられるような気がします」と話してくれました。確かにこれ からもいろいろな形で圭くんはサインを出してくれることでしょう。そ のなかには「困ったこと(問題行動も含む)」もたくさんあるような気 がします。「問題行動」を発達要求へのサインと見ることについては、今 まで述べてきました。しかし、それだけではなく、この子どもたちが自分自身でいることができる場、自分自身を取り戻すことのできる場とし て、独自の世界をもつことも必要なのではないかと思います。とくに青 年・成人期の自閉症の人たちをみた時に、その思いが強くします。私た ちは大人になっていく時に、まわりの世界との調整をしながらも、自分 独自の世界をつくり上げていきます。いつまでも親やまわりに依存した 生活をするわけではありません。がんばった後でちょっとひといきつい て、ウロウロしながら自分を取り戻せる場があること、学校や作業所の 帰りに、電車やバスを見ながら時間をつぶせること、休みの日には、時 刻表を片手に遠出ができること……などなど、自分で自分の肩の力をぬ いて、休憩できることが必要なのではないでしょうか。そしてまた、休 憩した後に戻る世界は、やりがいのある、楽しい、自分らしさを発揮で きる世界であることはいうまでもありません。自分らしさを評価されな がら、まわりの世界ときちんと結びついていること、結びついているこ とが自分でわかっていることが青年たちを大きく成長させるのです。小 さいときから、「この子は自閉症」と配慮しているつもりでかえって人 間関係を狭めることはしたくありません。不器用で、一つひとつつまず くけれども、のりこえるときにいいのりこえ方をしてほしいのです。つ まずきながらも、人間関係を広げ、生きる社会を広げてほしいのです。(『発達相談室の窓から』p. 155)

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