【子どもの願い・語るべき生活】がないと発達が止まる。白石正久『発達の扉(上)』
『発達の扉 子どもの発達の道すじ』
「語るべき生活」を教えてくれたのは、サッチャンという26歳になる 仲間です。私が初めてサッチャンに出会ったのは、養護学校高等部を卒 業したあとでした。サッチャンには、右半身のマヒがあります。そのこ ろのサッチャンは、マヒのある右手も使うように言うと、その手を後ろ に隠してしまうほど、自分の障害を悲しくとらえていました。サッチャ ンは、ちょうど1歳半ころの壁を乗り越えようとしている発達段階でしたが、ことばはなく、また積木などを積んでいるときに、失敗でもしよ うものなら、その積木を全部放り投げて、靴下まで脱いで、怒りまくっ ていました。家でも気にいらないことがあると、この通りの怒り方をす るというのですから、おかあさんもたいへんです。はじめに出会ったと きは、結局「おかあさんもたいへんですねえ」で、発達相談をしめくくらざるをえませんでした。
ところが、このサッチャンがその後「大変身」を二度遂げるのです。 一度目は、1年後の発達相談に彼女がやってきたときです。わざわざ左 手で内屈している親指をこじあけてまで、あんなに嫌がっていた右手を 使おうとしだしたのです。思わず「すごい!」と叫んでしまいました。 この1年の経過をおかあさんに伺ってみると、サッチャンは新しい施設 で、クッキングをしたり、裁縫をしたり、新しい経験がとてもうれしか ったようです。はじめてつくることができた目玉焼きや雑巾を家の人に も、株露できて、本当にうれしかったのでしょう。左手だけではできない ときには、マヒのある右手を介添え用に使おうとしました。それを指導 員の先生に認めてもらって、もっとがんばってみる気になったようです。 どんなに自分の障害に後ろ向きになっていても、生活のなかで新しい自分に出会い、それを喜び合ってくれる人がいるなら、困難に立ち向かう 勇気がわいてくるのです。
しかし、それから何年か、失敗したときや気にいらないときに、怒り まくるサッチャンの姿は続いていたようです。最近、施設の先生に出会 うと、あまり外に出たがらず、おとなしすぎるともいわれていました。 おかあさんもそのことに気づかれ、なんとかサッチャンがもう一度生ま れかわれるように、たとえ週1回でも「労働グループ」に入れてもらえ ないかと希望を出されたようです。先生もおかあさんの願いを理解し、 サッチャンは、この春から週1回、「労働グループ」に加わることにな りました。サッチャンは、そこで封筒づくりやコップ敷づくりという新しい活動に取り組むことになりました。
先週、その作品を持って、私たちの発達相談室にやって来てくれまし た。おかあさんの期待通り、サッチャンは、学校卒業後、二度目の「大 変身」を遂げていたのです。少しむずかしい課題になると、泣き叫んで その場から逃れようとしていた1年前の姿はなく、私たちが用意してい た課題を最後までがんばってやり遂げようとしてくれました。しかも、 何ごとでもあのマヒのある右手からまず使おうとするのです。「労働グループ」に入れてもらってから、家でも我慢強くなり、要求が通らない とき、ものを放って怒りまくるようなことはなくなったと、おかあさん はとても喜ばれていました。
養護学校卒業後、サッチャンははじめてさせてもらったクッキングや 裁縫で、新しい自分に出会いました。それによって、自分の障害に立ち 向かう力をもちましたが、その後の時の流れのなかで、「もっと新しい 自分」を求めていたのでしょう。ひょっとすると、それが家でのイライ ラになっていたのかもしれません。しかし、再び「もっと新しい自分」 に出会えたことによって、自分の可能性に目が覚めたようです。そして、 しばらく眠りこんでいた自分への信頼を覚醒させて、自ら新しい自分を 築こうとしはじめたのでしょう。だから、おかあさんのことばを受け入 れ、自分をコントロールし、自らの障害にいっそう立ち向かおうともす るようになったのです。サッチャンは、養護学校を卒業した時点では、 1歳半の壁にさしかかったところでしたが、今は何と3歳の発達段階に も至ろうとしています。すばらしい8年間の発達でした。
サッチャンは、発達とは「良き自分」のイメージに支えられて、自ら発達の壁を乗り越えていく道程であることを、私たちに教えてくれました。ほとんどことばがなかったサッチャンに「オシエテ」と相手にお願 いすることばが聞き取れるようになったと、おかあさんは言われました。 「オシエテ」とはすばらしいことばです。自らの可能性の開花を願い求めることばです。20歳を過ぎても、人間の発達に壁はありません。(白石正久『発達の扉(上)』p.244)
【子どもの願い】がなければ発達しない。言語遅滞?学習障害?
伝えたいことが生まれているか
だいちゃんの問題を強いてあげるならば、発達の遅れはないのに、ことばに形容詞的な表現が乏しいということです。
「おいしい」、「きれい」、「かわいい」、「気持ちいい」などの形容詞は、 どのくらいの年齢から使えるようになるのでしょうか。話しことばが増 えるのは1歳半頃ですが、「おいしい」などはほどなく言うようになり ます。お花を見て「きれいきれい」とも言うでしょう。しかし、本当に 目の前の花を「きれい」と思って言っているのかはわかりません。先生が「きれいなお花ね」と、散歩のたびに言っているので、花は「きれい」 という名前のものだと思っているのかもしれません。その段階では、形 容詞というよりも名詞といったほうがよいでしょう。本当に「きれい」、 「おいしい」などという感情をともなってそのことばが現れはじめるのは、2歳の後半だと言われています。
なぜその時期にこのような形容詞が現れてくるのでしょうか。子ども ちは、1歳の早い時期に歩きはじめ、その足で探索しながら、きれい なお花を見つけ、おとなと共感し合っています。しかもおとなに教えて もらって感動するのではなくて、子どものほうが見つけておとなにお花 を教えてあげたり、あるいはかわいいワンちゃんを見つけて教えてあげ たりするのです。自分なりの発見の感動を味わいながら、その感動をと もに歩むものと共感し合っているのです。そして、そのおとなが子ども の目の高さで、子どもの世界に入って、ともに感動してくれるのです。
そのとき、おとなは「きれいなお花だね」、「かわいいワンワンだね」と 言ってくれるでしょう。そのことばは意図したわざとらしい響きではあ りません。子どももおとなも、共に感じているから共感というのです。 そういう共感を積み重ねながら、子どものなかに発見の喜びである感情 とそれを表すことばが作られていくのです。日々のうれしい食事のなか で「おいしいね」という共感を積み重ねながら、おいしいという感情も 作られていくし、おいしいということばも作られていくのでしょう。そ ういう生活のなかでの当たり前の共感が、つまり感情を共有し合うこと が形容詞の世界を作っていくのです。そこには、感動する力と共感する力が存在していなくてはなりません。もし、これらが十分につくられな いと、自分の世界だけが広がってしまいます。だから、他者にはあまり 興味のない人間の祖先の話や宇宙ステーションの話がだいちゃんの関心事になるのでした。
形容詞の世界は、伝えたい感情が子どものなかにできている証拠とい ってもよいでしょう。「伝えたいこと」は、やがて5歳頃からつくられ る書きことばの土台に結びついていきます。書きことばの発達にとって たいせつな土台のひとつは、子どものなかに伝えたいことがあることで す。だから、ひらがなの習得とともに、伝えたいことを作文や手紙とし て表現してくれるようになるのです。遠足でとてもうれしい発見があっ たから、その喜びを作文にして、先生やおかあさん、おとうさんと共有 し合いたいのです。おじいちゃんやおばあちゃんに手紙を書くというこ とは、たとえば自分の学校生活をおじいちゃんやおばあちゃんと共有し 合いたいからです。(白石正久『発達の扉(下)』p.109)
自然な暮らし・健康的な暮らし・自然な発達
「命」の力を信じる
乳幼児期の保育・療育の内容や方法を考える基本的な視点は何でしょ うか。3人の事例を踏まえてわたしの結論を急げば、「人間にとって不自然なものは、その発達に役立たない」ということです。人間にとって 不自然なものとは、「不自然な生活」と「不自然な発達」です。では何が自然で、何が不自然なのでしょうか。事例を補足する目的で、説明し ましょう。
自閉症の子どもたちは、落ち着いてくるとことばでの指示にずいぶん 応えるようになります。一方で偏食や多動な傾向は残るため、「○○食 べよう」、「座っていてね」などのことばの指示によって、行動をコント ロールするはたらきかけが多くなります。それによって、偏食も一定の 改善がみられるかもしれません。
自ら考えて見通しをもった行動をすることがむずかしいために、自閉 症の子どもたちが得意とする絵や写真などの視覚の手がかりによって、 見通しを与えようとする試みもあります。それによって、確かに場面転 換ができないでパニックを起こしたり、次に何をすべきかわからないで 「こだわり」の世界に入ってしまうことは少なくなるようです。
このようなはたらきかけで、自閉症の子どもたちの「困った行動」は 確実に減ることでしょう。それは、保育・療育が目に見える「答え」を 出せたということです。そして、父母も満足されるかもしれません。し かし、わたしが発達相談でお会いしたお母さんは、次のように言われて いました。「絵や写真で日課を示されたり、よく整理された空間のなか で自閉症の子どもたちが生活している施設に親の会で見学にいってきました。子どもたちがパニックを起こすことも、こだわりにふけることも 少なく、整然と動けている姿を見て、すばらしい実践だと感動したお母 さんもいました。でも、わたしはわが子がそこで生活している姿を想像 すると、それは本当のわが子ではないような気持ちになりました。チャ ップリンのモダン・タイムスを思い出したのです」。これは、たいせつ な感じ方だと思いました。いかに整然と動けていても、それがわが子の 本来の姿ではなく、自分が出せない姿と直感されたのでしょう。このお 母さんは、子どもにとって何が幸せなことなのかを考えはじめているの です。
自閉症の子どもたちには、ことばでの指示がないと動けないような行 動特徴が、学齢期になると現れることがあります。また、思春期ころから、パニックの強くなる子どもがいます。 よかれと思っていたことばでの指示が、過剰に相手の指示を求める指示 待ち傾向に結びついたのでしょう、そしてよかれと思って与えていた見 通しへの手がかりが、自分の意図がはっきりする思春期において、子ど もとの間に葛藤を生んでしまうことにもなるのです。パターン化した流 れに乗って生活してきたために、自分の意図が生まれたときに、相手と 葛藤しつつ自分をコントロールする力が十分育っていないのでしょう。
このように、長い目でみると、乳幼児期の指導の妥当性が後から見え てくることがあるのです。
ダウン症の子どもたちは、「模倣が得意」といわれています。絵カー ドや実物を提示して、その名前を模倣させることで、ことばを増やそう とする言語訓練があります。また、衣服の着脱、食事の準備、歯みがき 等々、一つひとつの生活動作の獲得にスモールステップをつくって、で きることを増やしていこうとする訓練があります。このような指導のも とで、絵カードを提示すればその名前が言え、そして、いつもの食器を 提示すれば、じょうずに並べられるでしょう。しかし、絵カードの犬は命名できても、街角で出会った犬に、「イヌ」とは言えないのです。そ して、家では食器が並べられるのに、よそではできないのです。このと きはじめて、どちらも本当に使える力にはなっていなかったと気づくで しょう。ことばは、子どもの発見の喜びとその感動を共有し合うなかか ら芽生えてくるものです。そして、生活動作も自分でしたい願いや他者 への憧れの心があり、はじめてできた喜びを感動し合うなかで、獲得さ れていくものです。このような本物のことばや生活動作を獲得していく 土台が、むしろ、ダウン症の子どもたちは弱いのです。根本的な弱さへ のアプローチをせず、目に見える「発達」を急いで求めると、それは子 どもにとって生きてはたらく力にはなりません。(白石正久『発達の扉(下)』p.114)
自然な生活・自然な感情
子どもには、無意識に求める自然な生活の流れがあるはずです。午前 中は、朝目覚めたときから期待しているワクワクドキドキする遊び、午 後のゆったりした一日をしめくくる生活、だから、家庭へ心を収めて帰 ってくることができるというようなメリハリのある日課の流れを、子ど もは求めているはずです。そして、そのような期待のもてることがある からこそ、自分で考えて生活をきりひらく見通しの力も育つし、楽しい 散歩があるからがんばって靴をはくんだというように、身辺自立への意欲も高まるのです。基本的に楽しいことができ、自分の力が発揮できた という満足感があると、それで心を収めて、あとはのんびりエネルギー を補給したくなるでしょう。そうやって、がんばりと安息のバランスが とれるようになっていくのです。
もちろん甘えだけを受けとめることは良いことではありませんが、も し家での生活も園と同じようながんばりを求められたら、子どもの心の バランスはどうなるでしょうか。もし、先生が二人とも同じようなかか わりしかしてくれなかったら、子どもは息がつまるのではないでしょう か。また、園でがんばりすぎたら、どうなるでしょうか。家では甘えた い、のんびりしたいを通り越して、イライラしたり、あばれたりするこ とが強まらないでしょうか。逆に、家でがんばらせ過ぎたら、園であば れたり、過剰なこだわりがみられるようにならないでしょうか。これは、 いずれもがんばらせ方が子どもを追い込んでいる、不自然な生活といえ るでしょう。 (白石正久『発達の扉(下)』p.108)
【語るべき生活】生活の中のリッチネス・価値ある人生が発達を支える。
語るべき生活
当時の私の先生は、生活綴方をたいせつにとりくまれていました。 「釣り生活」のなかで、頭のなかで話を巡らす術だけはたけていた私は、 いつも要領よくひとつひとつの作文をこなしていきました。何を書いて いたのかは、さっぱり思い出せません。
5年生の秋口だったと思います。あきおくんという友だちがいたので すが、彼の綴り方がみんなの前で読み上げられました。それは、朝一番 で蚕に桑をやるときの眠たさ、蚕が桑に食らいつくときの何ともいえな い歯音で目が覚める瞬間のこと、そしてその蚕が繭をつくりはじめる姿 への共感と愛情が、少年らしいことばで、すがすがしく綴られていまし た。先生は、朝の眠気も蚕の歯音で吹き飛ぶとの表現にとても共感され、 あきおくんに「蚕の心がわかる立派なお百姓さんになれるよ」といわれました。
私はそのとき、心のなかにぽっかり穴があくのがわかりました。自分 には何も語るべき生活がないことに気づいたのです。そして、そんな自分への不安が湧き起こり、以後、小学校を卒業するまで何も書けないような心の状態になりました。
今から思えば、この「語るべき生活がない」という苦しみは、「語るべき生活」こそ人間を未来に運んでくれる力であることを実感する、た いせつな日々を私に与えてくれたように思います。どんなに小さな生活 の一こまであろうと、それがともに生活する人と喜び合え、たがいに感 動を生む力をもっているなら、その一こまの経験によって、人は生活の 主人公になることができます。そして、生活の主人公になることこそ、 自分への信頼を獲得し、自分の力で、人格を高みへと一歩一歩運んでい く原動力になるのです。(白石正久『発達の扉(上)』p.8)
【子どもの願い】心を味わう。
生活の主人公に生まれかわった子どもたちは、自分の手で食べたい願 いだけではなく、パンツも自分ではこうとするし、歯も自分で磨こうと するようになるでしょう。生活のすべてにおいて受け身を嫌い、自分で したいのです。この願いがわからずに、ついつい急いでおとなが手助け してしまうこともあります。また、せっかく片足はいたのに、「反対も はかなけりゃだめよ」とすぐ言われてしまうこともあります。どちらに しても子どもはじだんだふんでおこることでしょう。おとなは、子ども のことを思ってしていることですが、子どもの願いは違うのです。子ど もは、ただただ自分でできる喜びを味わいたいのです。だから、どんな に小さな一歩でも、子どもの自立への歩みを、同じ目線の高さで喜び合 いたいと思います。 (白石正久『発達の扉(下)』p.30)
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