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第4回:「コミュニケーション」成立条件ー 「学習の回路」を開く「心」

安冨歩 「知」の棚

安富歩『合理的な神秘主義』『ドラッカーと論語』:コミュニケーション成立条件

第4回:「コミュニケーション」成立条件ー「学習の回路」を開く「心」

過ちを認める

 

子ども時代に学ぶべきこと。人間は不完全である。

ミラーは、このような闇教育の連鎖が人類社会を危機に陥れていると考えており、その連鎖を断つことが、私たちにとって何よりも必要なことだと説く。そのためには、自らがそのような悲惨な子ども時代を送ったのだ、ということを認めることが不可欠である。ところが人は、その痛みを引き受けず、そこから目を背ける強い傾向がある。ミラーは次のように指摘する。
(略)誤りを認めることは、どんな場合でも簡単ではありません。この能力もたぶん、他の多くの能力同様、子ども時代に獲得し、のちにそれをさらに発展させることが可能なのではないかと思います。もしも、誤りに対して叱りつけられるのではなく、愛を込めて、自分のふるまいのどこが適当でなかったのか、あるいはそれだけでなく危険でさえあったかを説明してもらえば、私たちは自然に後悔を感じ、人間というものは間違いを犯さずにはいられないという経験を、自分の内に組み込むことができるのです。ところが、親がごこう小さな間違いでも許さず、罰を下していると、私たちはそれによって、自分の失敗を打ち明けるのは危険だ、そのために両親の愛情が奪われてしまうから、という知恵を獲得することになります。このような経験は永続的な罪悪感と不安をもたらすことにもなりかねません。
ミラーのこのような指摘は多くの人々を震撼させた。それは誰もが自分自身に対して秘密にしていたことだからである。しかしミラーの著作は多くの国で読まれ、児童の虐待が新奥な反社会的行為である、という認識を広く知らしめることになった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.250)

問:失敗してもいい、間違えてもいい、ということを学んできましたか?

「学」は「仮」

安冨|マイケル・ポラニーが書いているのですが、たとえば、相対性理論を否定するような実験結果って、いくらでも出てくるのですどうしてかというと、実験がとても難しいからですだから少しでも間違えば、すぐに理論を否定する結果がでてしまうのです。
その時に科学者はどうするかというと、相対性理論を否定するような実験結果は間違っているからと行って、それを全部捨てるんです。でも、たまに、これはどう見ても間違っているとは思えないから、論文を書いて学会誌とかに投稿するでしょ。そうすると、「こんなもん間違っているに決まっているだろう。却下」と言って、落とされてしまうんですね。
そういえば最近もありましたよね。ニュートリノの方が光よりもお早いという実験結果が出たというのがあって。そしたら、すぐ後に「やっぱり間違っていました」ということになったんです。
だから、相対性理論に関する実験で、間違いの元人がはっきりした喪男のを除いた実験結果をすべて合わせると、多数決で、それもその九十九の実験結果のほうが捨てられて、一のほうだけが正しいものとして残るんです。
じゃあ、なぜ九十九のおほうが間違っているといふうに科学者が思うかといえば、本当は相対性理論があまりにも美しいので、正しいと確信しているからです。それゆえ、それを否定するような実験結果が出たら、自動的に排除する。あるいは自動的に排除おできない場合には、徹底的に原因というか、あらを探して排除してしまう。そしてそれが、実際にも、正しいやり方なんだ、とポラニーは言います。
ところが、そんなことをしているくせに、物理学者たちは、「いや、理論にあわない実験結果が出たら、いつでも否定する覚悟はできています」みたいなことを言う。だけど、そんなのは嘘だということを、ポラニーはいろいろ書いているんですね。ありとあらゆる分野でそういうことが起きている。それでは、相対性理論を信じ込んでいることおがおおかしいのかといえば、そんなこおとはありえません。相対性理論は正しいのです。そうではなくて、私たちが何を信じるのが正しいかどうか、そのことをちゃんと意識している間は、それでいいと思うんですよね。もしも将来、相対性理論と矛盾する、さらに美しい理論や実験結果が出るなら、相対性理論は否定されるでしょう。
ただその美的感覚への信頼を失うと、「信」は、いつでも狂信に変化するということがある。間違っているはずがないだろうと言って、正しいことを示されても無視することをしてしまうときに、狂信というものが起こる。

佐野|そういうようなことを、私たちは日常的にやってしまう。
安冨|つまり、「異」であることを逃れられないのが、人間の姿だとも思うんです。常にそういうことをやってしまうという。だからと言って、そんなこと抜きに暮らしていけるかといううと、それはもう、それこそ生身で生きている間は無理ですね。
佐野|親鸞聖人は、本当の、「仮」のかたちをとらない、あるがままの、言わばむき出しの心理を体現して生きるとおういのは、生身では難しいと言っています。仮面なしには生きられない。仮面がないと丸裸で傷だらけになってしまって死んでいますよ。
人格のことをパーソナリティと言いますけど、この言葉は仮面という意味のペルソナという言葉から来ています、もともとはペルソナというのは、むうしろ裸の自己を守る盾のようなものとしての役割があったんだけど、この仮面が非常に強大化して、逆に仮面に乗っ取られてしまうというようなことが起きている。安冨さんのいう「魂の植民地化」というのも、そういう形で起きているんだと思うんです。だから、人間にとって、仮面、あるいは「魂の植民地化」というのは、なくて済まされるものではないのかもしれませんね。
安冨|親鸞のいうとおり、生身の体で生きている間は、そこから逃れることは無理なのです。大事なコテャ、そのペルソナみたいなものをいつも被って生きているという、その自覚ですよね。そして、それをいつも取りのけていこうとする姿勢。
佐野|親鸞聖人は「虚仮不実(こけふじつ)のわが身」と言っています。虚仮といいうのは、ウソの仮面を被って、つねに真実から離れていくような生き方のことですう。その言葉なんかは、そのことを非常に的確に言い当てているとおもいます。
(『親鸞ルネサンス』p. 112)

現実を受け入れ、成長する「イノベーション」の意志

ドラッカーは、この「変革の意思」というものがイノベーションの絶対条件であると述べている
これらの物語が示すように、成長するためには、戦略が必要である。準備が必要である。自分がなりたいものに焦点を当てた行動の理想を確立する必要がある。しかし、最高経営者に変化を起こす意思がない限り、これらも決して役に立たない。偉大なヴィジョンも、高邁な決意も、欲求不満と無駄騒ぎに帰結するばかりである。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.104)

現実を受け入れることの重要性は、これまで説明したように孔子も繰り返して説いている。ドラッカーが言う「現実を直視する姿勢と、間違っていたら素直に認めるだけの謙虚さ」をもっと端的に述べたのが、すでに引用した次の言葉であろう。
子曰く。過ちを犯しながら、改めないのが、過ちである。
それが成功であろうが、過ちであろうが、自分が予期せぬ者である以上、その現実を見つめ、注意深く原因を探求しなくてはいけない。なぜか正直者こそがすばらしい、などというお説教めいた話ではない。ドラッカーも講師も、予期せぬアクシデントこそがイノベーションのチャンスだ、という結論にともに至っていたからだ。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.107)

この勇気を持つということがなかなかできない。予期せぬ失敗、予期せぬ成功、想像もしていなかった危機や好機に直面をした際、本来であればこの現実を直視し、学習回路を開き、自分のあり方と自分を取り除く全てに耳をすませ、注意深く観察をしなくてはいけない。これができれば「君子」としてイノベーションを起こすことができるが、「小人」は、過ちを取り繕い、現実から目をそらし、何もなかったことにしてしまう。これではイノベーションどころか、組織を破滅へと導くことになる。
子曰く。気候が寒くなって初めて、松や檜が常緑樹であることがわかる。(=危機になって初めて、誰が真に力があるのかわかる)
機器や予期せぬ事態が起きた時、素直にそれを認め、現実を直視できるか。そして、そのような「変革」を恐ることなく受け入れることができるのか。それができる君子(マネージャー)だけが、イノベーションを成功させることができるというわけだ。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.110)

無知の知

ソクラテスの弟子のカイレポンはあるとき、デルフォイの神殿に、ソクラテスより智慧のあるものはいるか、と伺いを立て、ソクラテスより智慧のあるものはいない、という神託を得た。ソクラテスはこの神託に衝撃を受けた。なぜなら自分が智慧のないものであることを、確信していたからである。そこでソクラテスと、智慧のあると思われる人々を次々と訪ねて、自分より智慧があることを確認し、神託を反証しようとした。ところが、立派な作品を残した作家や、高い技能を持つ技術者でさえ、自分たちの作品や技能について語ることができず明確には何も知っていないことを知った。そしてソクラテスは、そういった人々が、何かを知ったつもりでいることによって、何かを知ったつもりでいない自分よりも、劣っている、と神託は述べているのだ、と考えた。そして神託の意味を、次のように理解した。
「人間たちよ、ちょうどソクラテスのように、知恵に関しては本当のところは自分は何の価値もない者なのだということを悟った者、まさにその者こそがおまえたちの中でもっとも知恵のある者なのだ」
そして「知らないことを知っていると思い込んでいるという無知」こそが、「最も恥ずべき無知」だと指摘した。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.40)

親鸞の「愚」=ありのまま?

善であれ悪であれ、固定的なところから離れるという意味で、そうした善悪の立場をいったん離れる姿勢のことを、「愚」と言い「悪」というのですね。だからそういう愚の立場に立ったときにはじめて、人はひとりでに救われる方向に行くというのが、親鸞の発想だと思うのです。ところが、愚とか悪というのを、それぞれの具体的なここの行為に対して、これは良いとか悪いとかと定義してしまうと、悪をすれば救われるということになってしまう。それじゃあ、人を殺せば救われるのかということになってしまう。でも、そうではなくて、善なる者として自分があり続けるという枠組みがまずいわけです。そうした枠組みを外すということが、親鸞のいう「悪」の意味ですよね。(『今を生きる親鸞』安冨歩・本多雅人 p.52)

山本 一人一人が「愚」の近くに立つということですね。
本多 親鸞は、しばしば「苦悩の群萌(ぐんもう)」とか「無明煩悩のわれら」という言い方をしますよね。これは、苦悩がなくなって、煩悩が少なくなって救われる、と言うことでは決してない。「われら」の内実は凡夫ということです。それも苦悩する凡夫そのものなのです。これは如来の目、本願を通して言われることです。ですから、悪人とか愚者とか凡夫を救う本願ではなく、本願にふれることによってもたらされる自覚が「凡夫」ということです。(略)
安冨 そう考えると、その凡夫性から逃避しようという力が、今日の「経済発展」だとか、「進歩」と呼ばれているものの実装だということになりますね。(『今を生きる親鸞』安冨歩・本多雅人 p.78)

重要なのは「愚」という概念です。近代学問の「知」というのは、自力で知の高みにのぼろうとするものです。しかし、そういうことをやっていたら世界からますます乖離していきますので、その種の知から手を離して「愚」の大地に立つということによって、新しいというか、今まで自分が気付けなかった、盲点になっていたことを発見するのです。親鸞は自ら「愚禿(ぐとく)」と名乗りました。「愚禿」というのは「愚かな僧侶」という意味であるという説があるようですが、私はそうは思いません。どう考えているかといえば、「愚」と「禿」は並列だろうと考えています。「愚」というのは、自分自身の内面を飾らないという意味で、「禿」というのは外面を飾らないという意味だと思うのです。ですから、そういう「愚禿」という観点を獲得することによって、はじめて世界の真理であるとか知識というものを身につける道が拓かれていくのではないだろうかと。(『今を生きる親鸞』安冨歩・本多雅人 p.149)

「学」は「過ち」を認めるところから始まる。

ウィーナーのサイバネティックスは、『論語』に始まる儒家の思想と、強い相同性を持っている。その今回は、人間の身体の作動に基づいた、学習の過程に、社会の秩序の基盤を見出す、という点にある。両者の相同性はそればかりではない。すでに明らかにしたように、『論語』の論理構造には、サイバネティックな側面がある。
子曰、過而不改、是謂過矣。
子曰く、過ちを改めず、是を過ちと謂う

この章の意味は、「過ちを犯して、改めないのを、過ちという」ということである。これはフィードバック機構そのものである。サイバネティックスの用語を使って謂うなら、ここの行為が正しいか間違っているかは大きな問題ではなく、間違っていた場合に、それを改めるフィードバック機構が作動しているかどうかが、大きな問題だ、ということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.189)

問:フィードバック機構それ自体の修正以前に、「過ち」と認められなければ、「学」は始まらないのだろうか。

マーケティング=「己を知る」

このようにマーケティングを「調査」や「分析」と考えることこそがそもそも誤りだ。なぜなら、ドラッカーは「marketing」を「己を知る」という行為と位置付けているからだ。もちろん、それは組織を構成する個々人にも求められる。「自分自身をマネジメントする」という論文のなかでドラッカーは次のように述べている。
出世というものは計画できない。それは、人々が訪れた機会(チャンス)を掴む準備ができている時、つまり彼らが自分の強みを知り、仕事の仕方を知り、自分の価値を知っていることで、実現する。自分がどういう類の人間なのかを知ることは、一生懸命働いて有能でありながら、それ以外では凡庸に留まる凡人を、卓越した実行力のある人物へと変える。
「己を知ること」(=マーケティング)ができれば出世も実現する。逆に「己を知る」ということができなければ、失敗の道を辿る。ただ、それは言葉で言うほどたやすくはない。「己を知る」ことの難しさについて、ドラッカーは以下のように述べている。
たいていの人は、自分は何が得意なのか、知っていると思っている。しかし彼らは、常に間違っている。人々はたいてい、自分が不得手なことを知っている。しかしそれでさえ、正しいよりは間違っていることが多い。
良いことも悪いことも、ほとんど間違い。私たちが思い描いている自己像は、ドラッカーに言わせれば、ほぼ誤りだと言うのだ。では、いったいどのようにすれば「己を知る」ことができるのか、。まず、ドラッカーはその心得についてこのように述べている。
自分自身を変えようとしてはならない。滅多なことでは成功しないからだ。しかし、自分の実行するやり方を進歩させるために、努力を怠ってはならない。そして自分がうまくできない仕事をやろうとしてはならない。いくらやっても惨めなことしかできないからだ。
「苦手克服」は絶対にやってはならない、と言う指摘は、特に重要である。そんなことをすると惨めになって自尊心を損ない、自分を見失う体。自分を見失うことなく、試行錯誤を常に繰り返して成長をしていく。このような普段の努力を貫く姿勢を、我々はすでに見ている。そう、これが『論語』のいうところの「仁」であり、学習回路が開いた状態であることは前にも述べたとおりである。つまり、「己を知る」という行為も、やはりドラッカー思想の根幹をなす「フィードバックと学習」を進めていくということなのだ。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.75)

まず、
自分が自分のことを知らないことに気づく。
これがすべての大前提である。これに気づくことで「知」というフィードバックと学習の過程が始まる。その結果として以下の作動が起きる。
①真剣に自分を知る努力をする。
②他人のことを理解することができるようになる。
③その結果、自分を他人に理解してもらうことができる。
これを図式であ表すと、こうなる。
己知己⇒己知人⇒人知己
これは『論語』の議論の構造と同じである。学習を重んじる両者が、深い洞察の上で同じく「己知己」と言う結論に至ったというのは、ある意味では自然の流れである。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.82)

己を知る「マーケティング」

多くの企業はマーケティングとコミュニケーションとをまったく別物と分けて考えているが、それは大きな誤りだとドラッカーは述べている。コミュニケーションを介さない一方的な調査や分析では、「己を知る」ということができない。つまり、それは本当の意味のマーケティングではないのだ。そして、孔子も「知る」ということの意味について、このように述べている。
子曰く。「知る」という学習過程を作動させずに、そのフリをする人がいるが、私はそんなことはしない。そういう人は、多くのことを聞いて回り、そのなかから善さそうなものを選択してそれに従い、多くのものを見て回って、これを覚えておく。こんなものは、「知る」の代用品にすぎない。
(略)ドラッカーもこうしも「己を知る」ということこそが、すべての始まりだと述べている。他人にどんなことをして欲しいのかたずねているようでは、決して「己を知る」ことはできないのである。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.87)

己知己、己知人、人知己の順番

「自愛」する

自分の感覚という唯一の選択の基準

ハラスメントは人々の不安を餌に拡大する。不安の根源は、本来の自分がうけいれられていないという感覚である。この不安をまぎらわすために、他人を支配し操作するという意欲が生まれ、ハラスメントの加害者を創り出す。また、被害者の方も同じ子の不安から生まれる。親に愛されていないにもかかわらず、親は自分を愛してくれているのだと自分に言い聞かせ、愛されていないという自分の感覚を否定する子供は、自分の感覚という唯一の選択の基準を失う。何か不愉快なことが生じると。それは自分のせいだと思い込む罪悪感を育ててしまう。ハラスメントの加害者は、被害者のこの罪悪感に付け込む。
このように、被害者も加害者も、同じ不安から生まれる。ハラスメントから社会を防衛する唯一の方法は、各人のなかのハラスメント的なるものを攻撃し、退治することである。自分の痛みと向き合い、その痛みがどうして生じているのかを全体的な機構の中で理解する。理解するだけで事態は大きく変化する。この理解の上に立ってその機構を解体させる。自分に近い人がハラスメントの被害者であることを知れば、その人のそばに立って無前提に支え、その心を罪悪感から救い出す。加害者に対しては「そんな事をするんじゃない。やめろ。お前の悪意は見え透いている」と断固とした態度を示すとともに、その根源である不安を取り除くための手を差し伸べる。
社会の敵は「誰か」ではない。人間の中に巣食う不安である。この不安と戦うのは誠に用意ならざることである。というのもコミュニケーションを可能とし、社会を成り立たせている規範そのものが、コミュニケーションを破壊するハラスメントの契機だからである。規範を打ち壊してしまえば、社会を崩壊させることになる。規範に依存すれば、ハラスメントの拡大を通じて、これまた社会を崩壊させることになる。善と悪とは相互依存の関係にある。それでも、あるいはそれゆえにこそ、不安との戦いを続ける以外に、社会を守る方法はない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.105)

→「責任」という呪いの言葉【ハラスメント用語】

主体的「状況認識」ー「みんな」という呪文

「アイヒマン実験」と一般に呼ばれるのは、彼がエルサレムで行われた裁判で「私自身はやりたくありませんでした。私は言われたことをやっただけです」と言い訳したからである。「実験者」が「先生」役の被験者に命令する場合には、「実験は、あなたが続けること必要としています。(The experiment requires that you continue.)」というように、単なる人間の命令を超えた客観的な印象を抱かせるような言葉が使われた。これによって被験者は、自分が置かれている状況を誤って(あるいは「正しく」)理解するのである。
被験者は、自分と同じような人間が、実験を続けて欲しがっているだけだ、ということを認識できなくなる。彼にとって人間という登場人物が視界から消え去り、「実験(The Experiment)」が非人格的な重圧を獲得してしまったのである。(略)
ここでミルグラムが指摘していることは、「コンテキスト」という深刻な問題である。ある行為の意味は、その行為そのものでは決まらず、その行為が置かれた状況に依存して変化する、というのである。しかも、その「状況」は、客観的状況ではなく、主体の「状況認識」に依存する。ミルグラムの実験では、大半の人は唯々諾々と電気ショックを与えたが、なかにはそれを決然と拒否する人がいた。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.256)

人間行動にとって本当に大切なことは、自分の状況をどのように把握するか、である。外部から設定された状況に「適応」してしまうことで「服従」が生じ、それが暴力を生み出す。グレッチェンのように、自分で自分の状況を把握しているなら、そのような暴力に身をまかせることはない。ミルグラムの実験は、まさにガンディーやキング牧師の「不服従」についての実験であり、つまりは、被験者の「魂の植民地化/脱植民地化」に関する実験だということになる。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.259)

「心」を働かせるために

「恕」というのは、「如」と「心」とでできている。これはつまり「心の如し」とおいおう意味である。「恕」には「おもいやり」というような訳語を与えられているが、それは、自らの内なる心の作動から生じるものであって、外面的なものではない論語には「恕」を定義した次のような問答がある。(略)「己所不欲、勿施於人」という句は、「自分のやりたくないことは、人にするな」という意味になる。これは一見したところ当たり前のことに見える。しかしもしあなたが組織に属しており、なんらかの命令を受ける立場にいるなら、当たり前ではなくなる。

「自分のやりたくないことは、人にするな」という論語の命題は、「私は法規や命令に従っただけだ」という言い訳を粉砕する。自分がやりたくない行為であれば、それがたとえ命令であっても、その業務に携わってはならない。携わったのであれば、「やりたくなかった」などと言い訳をしてはならない。それがこの論語の命題の含意である。(略)この覚悟がなければ、学習過程を開くことはできない。その意味で「恕」もおまた、「仁」と直結している。(『合理的な神秘主義』p.29)

問:従うだけの小人の心のしくみとは?

 

親鸞の自愛

親鸞とルターの違いは、ルターの『キリスト者の自由』と比較してみればわかりやすい。同署のルターの議論は次のように展開する。まず、神の戒め(旧約聖書の立法)に直面した人間は、そのうちのたった一つですら実践できないことを思い知る。絶望の果てにあるのは、「神の約束」(福音)であり、無力な人間は「信仰」することにより、すべての「戒め」から解き放たれる、とする。「キリスト者の自由」とは、「信仰すること」であり、戒めから解き放たれる」ことである。ここまでは親鸞に似ていると言えなくもない。これに続いて後半でルターは、「戒め」はキリスト者になるために守るのではなく、信仰を持つキリスト者が自ら守るものだという。なぜなら神に奉仕することが、キリスト者の悦びだからである。もし守れないとすると、それは信仰が足りないからだ、ということになる。この前半と後半とのセットにより、上手のような無限ループが回ることになる。信仰と罪悪感とが手に手を取って深まっていく。これでは魂の蓋がマンホールのように重く、がっちりとはまってしまうように私には思われる。

このような観点から見た場合、親鸞の思想は驚くべき内容を持っている。それを如実に示すのが、既に引用した『歎異抄』の唯円と親鸞との対話である。「念仏を称えてもさほどの喜びを感じられない」と告白する唯円に、親鸞は「自分もそうだ」と驚くべき発言をする。そして、阿弥陀の恩恵を感じられないような、そういう煩悩具足の凡夫であるという自覚が、阿弥陀の救いを明らかにしている、という。この思想によって親鸞は、上の図のように、どんどん緩む方向に信心の循環を作動させている。このようなシステムは、人の心に形成されて魂を抑え込む「蓋」を緩め、自分に対する裏切りを解消する方向への変化を自律的に引き起こす可能性がある。この考えが正しいとすると、罪悪感の裏返しとしての自己愛に駆動された繋縛強化の罠から、抜け出すことができる。この状態が、「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」であり、そうやって自愛(=阿弥陀の慈悲)の中に生きていく道が開かれる。これが親鸞のいう「現世利益」である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.69)

スピノザの「自愛」

個々のものが、自らの有に固執する「努力」のことをラテン語で「コナトゥスconatus」と呼ぶ。これがスピノザ倫理学の基礎概念である。(略)コナトゥスを基盤としたスピノザの倫理は次の言葉に凝縮的に表現されている。
理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、ー一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めることを、要求する。これは実に全体がその部分よりも大であるというのと同様に必然的に真である。(略)(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.91)

責任とは何か1=如来を信じること

清沢は「精神主義[明治三四年講話]において、「精神主義は各個人が、宇宙万有に対して、全責任を負ふこと」だ、という。これは決定論と、決定的に異なっている。決定論においては、すべては必然であるがゆえに、免責されることになるからである。これに続けて彼はいう。(略)「万物一体の上に立つところの責任」というものに立つなら、責任に起因するすべての苦痛から解放される。なぜなら、そういう問題については、如来が必ず支援するはずだからである。つまり、縁起によってつながりあった世界において責任を感ずる、というなら、全宇宙のすべての出来事に責任を持たねばならない。そうでなければ責任のとりようがないからである。ところが、人間にそんな能力はない。それゆえ、もしも人間が何かについて責任を取りうるとすれば、それは、如来の導きに依るしかない。如来の導きに依るなら、それは無責任ということである。かくして、全責任を負うときにのみ人は、無責任となる。これが、「全責任が無責任と同様の心情を持つ」という言葉の意味である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.134)

たとえば闇教育によって子どもが心に傷を負い、そのまま犯罪をしたとしよう。その責任はどこにあるのか?原因を求めるならば、親、親の親、親の親の親まで遡れるか?その「親」を作り出した社会の様々な暴力に原因をもとめるか?

問:世の中で使われる「責任」という言葉の背景を探ってみよう。

責任とは何か2=自己変革をすること

アルノ・グリューンは、責任を引き受けるとは、ほかの人に痛みや苦しみを与えていると認め、その痛みを感じ、自己を変革することだとする。そのためには何よりもまず、自分がかかわることによって他人が感じている痛みや苦しみを感じることができなければならない。この感受性なしに、責任をとることはできない。この感受性を持つためには、人は自分自身の感覚を信頼しなければならない。これは当たり前のようだが、(略)自分の感覚をそのまま信じることはそれほど容易なことではない。(略)罪を認めるためには、自分の行為は間違っていたとしても、人格が否定されるわけではない、という確信を持てなければならない。たとえ責任を引き受けたとしても、自分が人間として無価値になるのではない、と思えて初めて人間は自分の行為の過ちを認めることができる。他人の痛みを感じ、自分の罪を認め、その上で自己を変革して初めて責任を引き受けることができる。自己を変革することもまた容易ではない。多くの人は罪を認めたとしても自己を変革せず、自己憐憫に浸ることで自分が他人にした仕打ちから目をそらせるからである。「見てくれ、同情してくれ、こんなに苦しんでいるのだから」。(略)真の意味での責任は、つまるところコミュニケーションにおける学習過程を作動させるということと等価である。この学習過程を停止させている限り、自己の変革はありえず、責任を引き受けることもない。人々が自分の価値を信じ、感受性を開き、学習過程を活発に作動させているとき、そこに責任ある、規範にのっとった、まっとうな社会が出現するのである。計画制御と結び付けられ、あるいは固定した規範との距離として認識される意味での「責任」は、自分に対する裏切りを助長し、ハラスメントを作動させる口実を与えるだけの、無責任な概念である。自分の感覚への信頼と学習家庭の作動に裏付けられたとき、人は初めて責任をとることができる。このとき、やわらかな制御が可能となる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.143)

問:学習過程が作動するには?

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