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第7回:魔界の諸相 ー冷たい令和の暴力

安冨歩 「知」の棚

安富歩『経済学の船出』『複雑さを生きる』『ドラッカーと論語』:暴力の諸相

第7回:魔界の諸相ー冷たい令和の暴力

社会・会社

蟻か人間か、それが問題だ。

ウィーナーは、このようなフィードバックと学習の質的差異という観点から、人間社会の特徴を、蟻の社会と比較した。そしてその両者の違いを、行動遂行のための機構が、事前に与えられているか、学習によって構成されるか、に求めた。蟻は幼虫から成虫になる時点で、変態を経て、身体の構造自体を根本的に再構成する。(略)これらのことから身体の構造上、蟻には多くのことを習いおぼえる機会のないことがわかる。
昆虫は、計算機に例えると、命令があらかじめ「テープ」に書き込まれており、その命令を変更する機会が非常に限られている機器に類似している。…言い換えれば、昆虫の成長はその身体のまとう拘束衣に制約されており、それがそのまま、行動パターンを制約する精神的な拘束衣ともなっている。

蟻の社会は、生まれながらに決定されているメッセージに従って、規則正しく行動する主体によって構成された、秩序正しい組織である。これに対して人間は、蟻と同じく社会的生物であるとはいえ、その本質は対照的である。人間の身体の特徴は、その発育不全にある。哺乳類は一般的に長期の幼年時代を親の庇護のもとに過ごすが、人間の赤ん坊は自分では全く何もできない完全な未熟状態で生まれてくる。一人前の身体構造を獲得するだけで十数年を必要とし、社会的に必要な知識とを獲得するには、さらにそれ以上の年月を必要とする。たとえ心身ともに一人前となったとしてもそれが終着地点ではなく、生きていく過程の中で、常に学習過程を作動させており、死ぬまで学習し続けている。それゆえ、
ありの社会が遺伝的パターンに基礎を置いているのと同じ意味で、人間社会は、学習に基礎を置いていると考えるのが、全く自然である。

ということができる。つまり、ウィーナーは、孔子をはじめとする儒家の思想家と主に、学習こそが、人間社会の秩序の基礎だ、と主張したのである。ウィーナーはこのような観点から、ファシズムをはじめとする人間の学習を阻害する社会を、次のように批判する。
ありのモデルを基礎とした人間のありさまを理想とするファシストの熱望は、蟻の本質と人間の本質とに対する深刻な誤解に起因する。…人間という素材を使ってファシスト流のあり社会を組織することは、私が示すように、まさしく人間の本質を乏しめるものであり、経済的に見て、人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.185)

問:蟻化した社会でどう人間として生きるか。それとも蟻として生きるか。

李卓吾の「假人」=蟻=童心のない人間

李卓吾の「童心」とは、人間に生まれながらに備わっている心身の作動のことである。これは孟子のいう「仁之端」を継いでいる。李卓吾は、この童心が失われる「魂の植民地化」の過程を次のように書く。
しかるに童心は、どういうわけか、ふいと失われる。(胡然而遽失)。蓋し、さいしょは、聞見が耳目から入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。長じては、道理が聞見に乗じて入ってきて、内の主となる、かくて童心が失われる。

このように魂が植民地化された状況を李卓吾は、「假」という言葉で表現する。これは「仮面」の「仮」であり、中国語のニュアンスは「偽」に近い。
すでに聞見・道理をもって心となす。しからば、言うところのものは皆な聞見・道理の言にして、童心の自ら出せし言ではない。言、巧みなりと雖も、(真の)我と何のかかわりがあろうや。まさにこれ、假人にして假言を言い、事は假事、文は假文、なるものではないか。けだし、其の人すでに假なれば、ゆくとして假ならざるはないのである。かくて、假言をもって假人と語れば、假人喜ぶ。假事をもって假人と道えば、假人喜ぶ。假文をもって假人と断ずれば、假人喜ぶ。ゆくとして假ならざる無いのであるから、ゆくとして喜ばざるないのである。満場これ假なり、矮人なにをか弁ぜん。
「假人」というのは、単に他人を批判しているのではないと私は感じる。これは、自分自身のかつての姿への怒りなのだ。
『焚書』巻三「卓吾論略」によると、李卓吾は世間の「假」に順応する人間であり、さまざまな気苦労を重ねた。その上、祖父の訃報に接して葬儀と服喪のために家族を残して故郷に帰り、三年をそこで過ごした。家に戻ったおtきに、娘二人を飢餓で喪っていたことを妻から聞いた。「その時はじめて下駄の歯がぽっきりと折れる思いがした」と言う。それまで「假」のために奔走していた自分が、上の空であったことに気づいた、というのである。彼が「満場これ假」の世間に対して投獄されるほどの厳しい言葉を投げつけたのは、娘を殺した自らの愚かさが許せなかったからであろう。彼の思想は「異端」とされ、清朝の焚書目録に載せられたが、それは孔孟の教えを歪めたからではなく、その本質を取り出したがゆえであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.76)

問:童心を取り戻すには、悲しみ、痛みしかないのであろうか。

マルクスの「経済決定論」=蟻社会=資本制社会

マルクスは、この経済的な諸関係が、人間お社会関係や慣習や思想をも制御しており、それに反するものは残存し得ない。と考えていた。これがいわゆる「経済決定論」である。(略)労働者のみならず、資本家もまた、厳しい競争に晒されており、「貯蓄せよ、貯蓄せよ。これがモーセで預言者だ」という抑圧の下にいる。かくして労働の所有者として振舞うことを要請される労働者のみならず、資本家もまた、自分自身の生き方に沿って生きることを阻害されており、資本の所有者として振る舞うように矯正される。だれもが、資本の貯蓄という火車に追われて、疎外され、走り続ける社会。それが資本制社会である。マルクスは、人間関係や社会慣習や思想が、生産関係を反映して作り出される、としていたが、それは、人間の本性を否定するものではない。彼は、このような上部構造が人間に押し付けられ、内面化することによって、人間の本性が抑圧されることを、告発していたのである。つまり、資本制社会においては、いかなる文化的要素も、経済関係に反しているものは存続し得ないので、結局のところそれを強化するイデオロギーに堕ちてしまい、真実を隠蔽する装置となって、人間の本性を破壊する暴力となってしまうのである。マルクスが示そうとしたことは、このような社会では、誰も幸福にならないのであり、その事実を各人が認識し、人間の本性に沿って、各人が幸福の追求を実現できるような、理性的な社会を作り出そう、ということであった。この理性は、結局のところ人間の本性の反映であるが、それはスピノザの欲望と理性との定義に沿ったものとなっている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.118)

問:人間の本性に沿った経済活動のあり方とは、どのようなものだろう?

隠蔽される社会

フロムが、マルクスとフロイトとを高く評価するのは、その両者が、社会の隠蔽を解明したからであるマルクスは、資本制社会が生産物の再戦さんを通じて生産関係を再生産し合法的に搾取が行われ、隠蔽されている事実を解明し、フロイトは個々人の意識が、本当の衝動を隠蔽し、無意識へと抑圧している事実を解明した。フロムが行なったことは、フロイトの抑圧が、マルクスの搾取の隠蔽の結果として生じるとともに、その抑圧構造が、社会の再生産に貢献している、という循環関係の解明である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.200)

スピノザの教えは多くの点でブッダの教えと似ている。非合理的な動因(受動的情動)に流される人間は、必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間である。理性に導かれる人間はもはやかんっ国は誘惑されないで、二つの〈能動的情動〉すなわち理性と勇気に従う人間である。マルクスは、真理を救いの条件と考える人びとの伝統の中にある。彼がなした仕事の全ては、良い社会とはどのようなものかという社会像を示すことが第一義ではなく、人間が良い社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判であった。マルクスが言ったように、人間は幻想を必要とするような環境を変えるために、幻想を打ち破らなければならない。フロイトもまたこれと同じ文章を、精神分析の理論に基づいた治療法にふさわしい格言として、定式化することもできただろう。彼は真実の概念を途方もなく拡大した。彼にとって真実とは、人が意識的に信じたり考えたりすることだけではなく、考えたくないゆえに抑圧するものをもさすのである。
フロイトの発見の偉大さは、個人が真実だと信じていることを超えた真実にまで達する方法を、考え出したことにある。そして彼は抑圧の及ぼす結果と、それに応じた合理化とを発見することによって、これをなしえたのである。彼は治療への道は自分自身の精神構造への洞察と、それによる〈抑圧の除去〉にあることを、経験的に実証した。真理は解放し治療するという原理をこのように応用したことが、フロイトのおそらくは最も偉大な業績なのである。(略)

「魂の脱植民地化」とは、まさに「人間がよい社会を築き上げるのを妨げる幻想に対する容赦ない批判」であり、本書に言う「合理的な神秘主義の系譜」とは、「真理を救いの条件と感g萎える人びとの伝統」に他ならない。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.202)

問:臨床心理学の方法さえ学べば、魂の脱植民地化は成功するのか?

自己愛者、ナルシスト、うぬぼれ

自愛が自分自身を受け入れ、大切にすることであるのと逆に、自己愛は、自己嫌悪から生じます。自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることができない状態です。そして、自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感やx罪悪感を抱くのです。(略)たとえば、髪の毛を念入りに形作り、顔を念入りに化粧し、ダイエットと運動によって体を引き締め、慎重に選んだブランド品を身につけて、鏡に映った自分の姿にうっとりする、というのが自己愛です。あるいはまた、猛烈に勉強して有名大学を卒業し、有名企業に入り、華々しく仕事をし、高い所得を得て、そういう自分を誇りに思う、というのも自己愛です。有名大学も、有名企業も、高い書とこうも、裸一貫の自分自身の姿ではありませんから、ブランド品となんらかわらないからです。さらに言えば、毎日トレーニングに励んで筋骨隆々に鍛え上げた自らの肉体にうっとりするのもまた、典型的な自己愛でsう。そんなものは自らの人格とは関係ないからです。つまり、自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することであるということになります。(『生きる技術』安冨歩 p.61)

自己愛者のとる戦略は2つあります。一つは利己的になることです。自分の偽装を維持するためには、多くの資源と時間とを必要とします。それらを確保するために、他人の迷惑を顧みないようになるのです。少しでも多くの資源を獲得し、少しでも自分の時間を確保して、自分の偽装を維持・発展させることに全力を挙げるなら、他人痛いする顧慮をする余裕はなくなります。自分の不安を抑え込むための偽装に追い立てられている人間は、他人を踏みにじろうと、他人がどうなっていようと、気にすることなどできなくなるのです。ゆえに、偽装に奉仕するための資源と時間の獲得に奔走するのが利己心であるということになります。(略)

自愛者のもう一つの戦略は、不安を紛らわせるために、自分を補填してくれる人を確保することです。容姿の美しさ、優しさ、聡明さ、資産、学歴、地位、能力、強さ、身分などなんでもいいのですが、自分にないものを持っている人に狙いを定め、その人の美点を取り込んで、自分の一部としてしまおうという浅ましい欲望を抱きます。この他人への欲望が執着です。つまり、自己愛を満足させるために、他人の美点に欲情することが、執着であるといえましょう。このような、他人の美点を切り取って自分のものにしてしまおうという欲情は、じつに危険なものですが、恐ろしいことに、どこにでも見られます。特によくみあっれるのが、親子関係です。多くの親が、自分の子供を愛さずに主ちゃくしています。執着されて育った子供は、ひとに執着するようになります。(『生きる技術』安冨歩 p.64)

本当に必要なものは何か、必要でないものは何かを、日々の生活の中で見極める。自分を身軽にする。

 

「命」を削る消費社会

フロムは、その両親が「社会の代理人」であって、社会的に望ましい性格の人間を再生産する役割を果たし、その結果、子どもは「社会的性格」を身につける、とした。社会的性格とは、特定の社会の機能の実現に役立つように形成される、精神エネルギーの特定の構造である。このような特定の構造を身に帯びることによって人は、その社会の生産過程における生産力として機能するように形作られる。この概念によってフロムは、マルクスの社会理論を拡張する。
ひとたびある社会が、その平均的人間の性格構造を、彼がなさねばならぬことをなすことを好むようにかたちづくるのに成功すれば、人間は、その社会が彼に課す、まさにその状態に満足するものである。かつてイプセンの劇中人物がいったように、彼がなしうることだけを彼は欲するから、彼がしたいと思うことはなんでもできるのである。いうまでもなく、服従に満足しているような社会的性格は、不具化した性格である。しかし、不具化していようと、いまいと、そのような性格は、それ固有の機能であるゆえに、服従的人間を獲得するという社会の目的に役立っているのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.205)

フロムは「財産と富との所有が中心的な欲望であった十九世紀資本主義」と区別して、「高度に産業化された社会においていっそう優勢となりつつある二〇世紀」社会を想定し、その社会的性格を消費人(homo consumens)とする。

消費人は、必ずしも第一にものを所有することを目標とはせず、ますます消費すること、従って彼の内的空虚・受動性・孤独・不安の代償を主目標とする人間である。巨大企業、巨大産業や政治機構や労働の官僚制によって特徴付けられる社会では、自分の労働環境をコントロールできない個人は、無能力・孤独・退屈・不安を感じる。同時に、大消費産業の求める利潤への欲求は、広告という媒体を通して、個人を、大食家に、ますます消費することを欲する永遠の幼児に変えてしまう。彼にとっては、すべてのものが消費の対象となる。すなわちタバコ・酒類・セックス・映画・テレビジョン・旅行、そして教育・書籍・講演でさえも消費の対象となる。新しい人為的な欲求が創造され、ひとびとの趣味が操作される。(消費人の性格は、その最も端的なかたちとしては、よく知られた精神病理学的現象である。それは隠された抑圧と不安の代償として、過食・買いすぎ・アルコール中毒へ逃避する抑圧された、あるいは不安な人間の多くの場合に見られる。)消費欲(フロイトが[口唇ー受容的性格]と呼んだ極端な形態)は、現代の産業化された社会における、支配的な精神的力となる。消費人は、無意識のうちでは自分の退屈さと受動性に悩んでいるのに、幸福であるかのような幻想をもっている。彼が機械に対してより大きな力を持てば持つほど、人間存在として彼がますます無力となる。より多く消費すればするほど。産業組織がつくりだして操作するたえず増大する欲求の奴隷となる。彼は、す率や興奮んを喜びや幸福と取り違え、物質的安楽を生きがいと取りちがえる。食欲を満足させることが人生の意義となり。それを求めることが一つの新しい宗教となる。消費する自由が、人間の自由の本質となってしまう。
フロムのこの指摘は、二一世紀になっても、今だに通用しているように私は感じる。ということは、経済的土台が、コンピュータの出現によって根本的に転換しつつあるとしても、社会的性格は、未だに変化していない、ということになる。フロムの目指した社会主義とは、このような貪欲の体制化とも言うべき消費社会の病理を治療するためのものであった。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.206)

 

相克するコミュニケーションの場【ビジネスの原理と子育ての原理】

一人の人間の周辺に形成されるコミュニケーションの場はもちろんひとつではない。いくつもの種類の場にさらされつつ人間は生きている。それぞれの場は互いに矛盾することもある。たとえば銀行のサラリーマンとして上司の示唆を受けて金融庁の検査官に対して事実を隠蔽するというコミュニケーションは、会社という場のなかでは公正であるが、「合法/不法」という二分法によって記述される法という体系の中では不法行為となり、下手をすると逮捕される。コミュニケーションとその場は、重なり合う綱のように張り巡らされ、それぞれのダイナミクスを主張するのに対して、「わたくし」の身体はひとつしかない。それぞれのネットワークのダイナミクスが結節点に要請する運動はそれぞれに異なるが、「わたくし」が一人しかいない以上、その複数のダイナミクスを「わたくし」一人で引き受けねばならない。それゆえその身に降りかかる矛盾に「わたくし」は苦しむことになる。その矛盾が深刻でかつ長期にわたっていれば、人格の動きがぎこちなくなってしまい、あまりにひどければ統合失調症のごとき精神障害を惹起することになる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.65)→ハラスメント

 

蟻社会=全体主義=学習の阻害

組織とは、人が、個人として、そして共同体のメンバーとして、貢献と達成とを目指す手段である。社会的目的を達成するための社会の道具としての組織の発明は、人類の歴史にとって、一万年以上前の労働の個人ごとの専門家に匹敵するほどに重要であろう。そして、その背後にある原則は「個人的悪を公共的善に」ではない。「個人的強みを社会的利益に」である。これが正統性の根拠を提供する。これが権威が基盤たりうる倫理的原則である。マネジメントを自律的な者として維持し、まさに「民間の」ものとすることは、社会の不可欠な要請である。それは社会の自由を維持するために不可欠であるそれは社会を機能させるために不可欠である。それに変わるものは、「全体主義」的構造であり、そこではすべての活動、すべての個人、すべての組織が、一枚岩のように同じパターンを繰り返しており、一つの、そして同じ支配集団によって管理されており、同じ価値、同じ教義、同じ正当性を表明する。これは人間の魂の死であるばかりか、グロテスクである。それはまた浪費的であり、窮屈であり、息詰まる。
ここには、ドラッカーがマネジメントによって、どんな社会を求めているのかが集約的に表現されている。全体主義の大東と破滅を目撃し、新しい時代は「企業」をはじめ、ありとあらゆるものが組織化していくという動きの中で、ドラッカーはマネジメントを生み出した。そこにあるのは、組織の機能不全化全体主義への暴走に帰結するのを防ぎ、社会の自由を守ることが狙いだということは前にも述べた。ではなぜ、自由な社会を実現しなくてはいけないのかといえば、「個としての人間」が自己実現を果たすためだ。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.145)

マネジメントを、人間を組織に適合させて使うための管理手法と錯誤してしまうことから、全体主義への暴走が始まる。組織をうまく機能させるため、命令系統を整備する。巨大組織を統制するため様々な規格を統一し、同じ目標に向かって邁進させるため、同じ価値観を抱かせる。そのような組織の構築だけに目を奪われすぎることで、結果として、自らを束縛し、そこにいる人間の「学習」を阻害するような環境をつくってしまう。そういう失敗が多々ある。例えばそれは今の日本社会では“大企業病”などという言葉で表現されるが、それは全体主義への道にほかならない。そのような「組織の罠」に陥らないためには、君子が必要である。学習回路を開き、「過ちを真摯に認め、すぐに改める」という「仁」を貫き、組織のあり方を修正し続ける「君子」がいる。それが優れたマネージャーである。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.151)

問:あなたは組織のために働いていますか?自己実現のために組織を利用していますか?あなたは、学んでいますか?

オートメーション化

決定的に重要なことは、オートメーション化された機械化工場では、機会が機械を自分で操作するようになった、ということである。かつて機械は、自分で自分を操作できなかった。それゆえ、機械は実行だけを担い、人間がその結果を観察し、調節する役割を担わざるを得なかった。そればかりか、複数の機械を用いる場合には、機械同士の関係の調節も人間の仕事であった。ところがセンサーとコンピューターとが取り付けられた機会は、自分で自分の実行の結果を観察し、それに基づいて調整できるようになった。これが「フィードバック」である。そればかりか、機械と機械との間の調節も、自分で行うようになった。現代では「機械」といえば、こうした「フィードバック機械」を指すようにさえなった。(略)かくして人間の仕事は重として、このようなシステムを設計し、プログラミングし、保守管理することになったのである。ただ、ドラッカーが見落としていたことがあった。それは、このようなシステムを運営するには、わざわざシステムを作り出すのがバカバカしいような種類の単純作業を担う大量の人間を必要とすることがわかったからである。システム設計が完璧であれば、そういう仕事は生じない。しかし、状況は常に動いており、システムも常に変更せねばならない。そういう柔軟性を生み出すためには、システムは必然的にモジュール化される必要がある。そうなると、モジュールとモジュールとの間をつなぐ作業が生じてしまう。オートメーション化されたラインの生み出す膨大な仕掛品を、別のオートメーション化されたラインへとつなぐ作業には、大量の単純労働が生じるのである。そのため、現代の工場は前者の仕事を担う技術者と、後者の仕事を担う大量の低賃金労働者とで成り立つようになった。かつての「機械化」された工場では、熟練技術を持ち、統率がとれ、式の高い人間集団を必要とした。しかし「オートメーション化」された工場は、システムを作り出して管理する少数の技術者と、大量の単純労働者という、二極化された人間集団を必要とすることになる。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.181)

塾の構造ですね。少数の「教室長」と大量の「生徒」が「マニュアル」に従ってただただ親に「安心」を提供する。

 

家庭・学校

 

社会的転移現象と服従人間の再生産

転移現象の背後にあるのは、子どもの無力さであり、それゆえ親に対して抱く保護の願望である。精神分析は、日分析者の幼児性を解明しようとするため、これが分析者に向けられることにあんるが、フロムが指摘したのは、大人もまた無力だ、という事実である。
子供にはどうすることもできない多くの場合にも、おとなはなすべきことを知っているが、結局はおとなもきわめて無力なのである。彼が直面する自然と社会との力はあまりにも圧倒的なので、多くの場合、彼はそれらに対しては、子供がその世界で無力であるのと同じように、無力である。
それゆえ、大人にもまた、この無力感から生じる転移現象が、普遍的な社会現象としてみられるのである。たとえば国家や政治や司法や専門家や知識人や経営者に対して、人々は容易にこの転移現象を起こす。それは、転移の対象となった人の資質に対して起きるのではなく、その社会的な位置付けに依るのである。それゆえ、人々が無力感に襲われているなら、社会的転移が起きやすくなり、それは体制・権力への盲従を生む。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.204)

 

呪縛、憑依、非礼

「呪縛」という概念をこのような意味で用いたのは深尾葉子である。深尾はハラスメントが人々の魂を呪縛し、呪縛された魂がハラスメントを引き起こすと指摘する。自分自身の感覚との接続をたち、おさえこむ装置ないし機構を「蓋」と呼ぶ。「しつけ」や「教育」といった形で行われるハラスメントは、子供に蓋の形成を強制し、その上に人格を偽装させる。これがいわゆる「正常」と呼ばれる状態である。「正常」な人は、自分自身の行動を自分の魂の接続によって生み出すことができないので、自分の行いを他人がどう考えるかを「憑依」によって判定したうで決定するようになる。「憑依」というのは、魂が他の魂の動きをなぞって、わかったつもりになることであるが、この場合になぞっているのは、他人の蓋の上の人格にすぎない。このような呪縛された魂の生み出す関係性は、必然的に非礼なものとなる。礼とハラスメント(=非礼)との違いは、前者が双方の人としての尊厳を保持し、やりとりが充実感をもたらすのに対し、後者が他人を物扱いするものであり、非礼な扱いを受ける側に苦痛をもたらすという点にある。礼によれば両者の関係は充実するが、ハラスメントによれば関係は空疎になり、人間性を阻害する。(『経済学の船出』安冨歩 p.59)

「魔法」の観点からすれば、経済活動が令に基づいているか、非礼に基づいているか、が決定的に重要となる。そのやりとりによって人間関係が充実し、人々が神聖性や神秘性を感得できるならそれは正しいのであり、それが失われているなら間違っている。(『経済学の船出』安冨歩 p.63)

問:礼にもとづいた関係性を数え上げてみよう。物扱いされているなら、非礼である。

「闇教育」

ミラーは一九八〇年に出版された『あなた自身のため(邦題は、魂の殺人)』において「闇教育(black pedagogy)」という概念を導入した。「闇教育」というのは伝統的に「正しい」とされている各種の育児の手法のことであるが、実際には親が子どもの頃に受けた虐待によって生じた傷に振り回されてやっていることであり、同じ心の傷を子どもに負わせる虐待を正当化するための偽装にすぎない、というのである。
『魂の殺人』では、かつて、闇教育の教えを広めるために書かれた書物をたくさん引用しています。それらの書物では、子どもの生まれた最初の日から、従順と清潔追求の教育を行うよう、強力に薦めています。これらの教育書のおかげで私は(そしてその後私の本を読んでくださった方たちも)、ドイツの第三帝国時代、(たとえばアイヒマンのように)何の両親の咎めを感じることもなく、完璧な殺人機械として機能を果たした人たちのことが理解しやすくなりました。「人らーの熱心な意図実現者」になった人たちは、実は非常に古い勘定を払っていたのです。この人たちはそれまで、乳幼児期や子ども時代に体験させられた暴力に対してまともに反応することを、一度も許されていませんでした。この人たちの内部に潜在的な破壊傾向を生み出したのは、フロイトの「死の欲動」ではなく、非常に幼い時期に抑圧された情動上の反応だったのです。
この人々は隠された破壊衝動を発露する必要に駆られていたのであり、「ヒトラー箱の人たちに『合法的』に血祭りにあげられる犠牲を提供」したのである。彼は「罰せられる虞れなしに、幼時に抑圧した感情と復習欲をぶつけられる相手」を提供することで、人々の熱狂的支持を得た。もちろん、ヒトラー自身が典型的な事例である。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.248)

近代の教育=デカルト/ニュートン的

安冨 デカルトを始祖とする近代の諸学問は、基本的に「方法論的個人主義」です。この方法論的個人主義は、たとえば社会を考えるときにその構成員たる個々人の行動を考えて説明したり理解したりしよう、という方法です。この背景には、明らかにデカルト流の「要素還元主義」の応用があります。つまり、ものごとは一度バラバラにして個々の要素を解明した上で、もう一度統合すれば理解できる、という方法です。これを社会現象に応用して、個々人の行動を理解し、もう一度統合すれば良い、というのが方法論的個人主義です。(略)(『生きるための親鸞』安冨歩・本多雅人 p.101)

安冨 一般にお寺さんの子供には成績の良い人が多くて、いわゆる“良い大学”に行って、そこで近代的なものの見方のトレーニングをしっかりと受けますから、学校を出るときには、言語システムとして、親鸞的な枠組みとは本質的に違うものがすっかりインストール(導入)されてしまうのですよ。それでいざお寺に戻った時、まず何を感じるかと言うと、インストールされたものと、親鸞的なものの見方があまりに違うと言うことなんじゃないかと思います。そこで若いお坊さんの多くは苦しむことになる。
本多 得てしてそういう苦しみにぶち当たった人は、親鸞を答えとして握りしめたり、知らず識らずのうちに、自分自身や周りの人に「真宗ハラスメント」をしてしまう(笑)。反原発運動などにのめり込んでいくのも、その一つのあらわれである場合もあるでしょう。(『生きるための親鸞』安冨歩・本多雅人 p.81)

「闇教育」=裏切りと人格破壊

人間は、自分の感覚に従って判断し行為するという、当たり前の能力を持って生まれてくる。これが本来のあるがままの人格である。ところが、親が子供の「ためを思い」、野心をもたせ、競争に勝てる、社会に従順な子供に育てたいと考えたとたん、その子供が本来持っていた人格を捨てさせることになる。そのかわりに見せかけだけの「正常」な行為を算出する装置が組み込まれ、それが「人格」を構成するようになる。こうして本来の人格は「自分の中の他人」となってしまう。
子供は、本来の自分の存在を認めてくれない親の目で、自分自身を否定的に見るようになる。そして「親が愛してくれないのは自分が悪いからだ。自分のせいだ、親は良い人たちなんだから」と言い聞かせる。子供は、自分が本当に受け止めた感覚を否定して、親の求める虚像を演じていれば、親に愛してもらえると理解する。この転換過程がグリューンの言う「自分に対する裏切り」である。
この自分に対する裏切りを引き起こす、親による子供の人格の破壊を、アリス・ミラーは「闇教育」と呼んだ。親が恣意的なルールを設定し、子供がそこから外れたことを見つけるとそれを罰し、さらにその理不尽な取り扱いによって心を傷つけられて子供が泣いたり叫んだりして感情を表現することを禁じる時、子供の魂は抑圧される。この抑圧は教育やしつけという名前の下に正当化され、奨励される。(略)自分を裏切った人間は、自分のなかの他人となった本来の自分に不安を覚え、憎悪するようになる。本来の自分が持つ豊かな感受性と感情を否定し、それを弱さだとして嫌悪する。このような人は、自分の痛みも他者の痛みも感じなくなる。さらに、本当の感情を持った人がいると、それが本来の自分の感情に影響し、その動きを自覚してしまうことを恐れそういった人を憎悪する。この自分に対する裏切りの機構は、自己に対する信念が、大胆な情報の取捨選択を通じて御都合主義に作られるという脳の機構と関係するものと思われる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.92)

与えられた環境の中で人は育つ。もしそこに「学」がなく、「闇」があるとしたら、「闇」の中で生きる心の仕組みを作り出して当然だ。「死なない」ことが第一だ。「闇」の生態、ショッカーの世界で生きる方略を、みつけた。それが「裏切り」であり「抑圧」であり「欺瞞」であり「ハラスメント」である。「闇」の生態系と「学」の生態系。さて、ここで「学」は「闇」を攻撃するだろうか?ナウシカの答えは、なんだったのだろうか?私たちはどのように「生きる」といいんだろう?→「生きる」ということ

親による子どもの搾取と欺瞞

ミラーは一九七九年に出版された『才能ある子のドラマ』によって、親の隠れた欲求を満たすために、子どもの愛情への欲求が利用され、搾取されていることを明らかにした。このため子供は自分の欲求を自分自身から隠してしまうことになり、親の都合に合わせた自己像を構築し、自分自身を牢獄に閉じ込めてしまうのである。ミラーは次のように指摘する。
幸福な、保護された子ども時代を送ったと信じ、そのイメージをもったまま心理療法の門を叩く人の数はおどろこうほど多いのです。そのような患者さんは、成長後の現在も可能性豊かで、才能を発揮している人もすくなくありません。その天与の才と成し遂げた仕事に対して賞賛を受けている人もいます。この人たちはほとんどの場合、一歳でオムツがいらなくなり、一歳半から五歳のときにはちゃんと上手に弟や妹の世話を手伝うような子どもでした。一般に信じられているところに従えば、このようなー親の誉れとも言うべきー人たちには、強靭で安定した自信があるはずなのですが、実際には話はまるで逆なのです。その人たちの手がけることは、すべてがうまく行き、素晴らしい結果に終わって、その人たちは賞賛されたりねたまれたりします。成功するということが大事な場合に失敗することはありません。けれども、何をしても駄目なのです。すべての成功の裏に憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが潜んでいますー自分は偉大な存在だという麻薬が切れたり、「頂点」でなうなったり、間違いなくスーパースターとは言えなくなったりすると、あるいは突然、なんらかの、自分の理想像に合わなくなってしまったと感じたりしますと、隠れていたものが即刻頭をもたげます。それが始まると、不安発作や猛烈な罪悪、ならびに恥辱感に苦しめられるようになるのです。これほど才能に恵まれた人たちが、これほど深い障害を負っているのはなぜなのでしょうか。
ミラーはこの書物について、後に次のように述べている。
子どもの時に自分を率直に表現することを許されなかった人たちの悲劇は、その人たちが自分では知らぬままに二重の生を生きている点にあります。『才能ある子のドラマ』で述べたように、そのような人は子ども時代に偽りの自己を作り上げており、自分にもう一つ別の自己があるとは気づいていません。その、もう一つの別の自己の内部には、その人が抑圧した感情や欲求が閉じ込められています。ちょうど牢獄のように。その人たちはまだ一度も、その危機的状況を理解し、自分の感情や欲求が閉じ込められている牢獄をまさに牢獄として認知できるように、そしてそこから自己を解放し、自分の感情と真の欲求を言葉にするのを手伝ってくれる人に出会ったことがないのです。
このような人の行動は「自分の生を賭けた欺瞞を維持し続けるという目標」によって決定されており、彼らは「自分が本当は誰なのかがわからず、ただある役割を演じている」だけであって、「その役割というのは、周囲がその人に演じることを期待している、その役」なのである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.246)

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エピクロスが「むなしい臆見と結びついた欲求」といったものをヴィトゲンシュタインは「語りうるものによってすべてを覆い尽くそうとする妄想」といい、李卓吾は「假」といい、ミラーは「自分に対する裏切り」といい、マルクスは「資本制社会」と呼び、ウィーナーが「人の持つ人間的価値の最低最悪の浪費」と呼ぶものであり、安冨歩が「暴力」と呼ぶものであり、こう言ったものを体現した人をフロムは「必然的に自己及び世界に関して不十分な観念を持った人間、すなわち幻想を抱いて生きている人間」「消費人」といい、孔子は「小人」といった。

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