『マシュマロ・テストー成功する子・しない子』ストレスとファンタジーと実行機能
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第16章 麻痺した意志
ホットシステムを冷却するためにクールシステムを使える。が、ホットシステムに働きかけることで、ネガティブな感情に対処できるようになる。
ジョン・チーヴァーの1961年の短編「橋の上の天使」は、自制のスキルに優れ、心理的な免疫系が最善を尽くしており、自制心と石の力を働かせようという動機付けがこれ以上ないほど強くてもなお、クールシステムが容易に損なわれるることを教えてくれる。物語の主人公は、マンハッタンに住む羽振りの良いビジネスマンだ。アルバン彼が家に帰るためにジョージ・ワシントン・ブリッジに近づくと、突然、猛烈な雷雨に襲われる。風が吹き荒れ、この大きな橋が揺れているように感じられて、主人公(名前は出てこないので、「ブリッジマン」と呼ぼう)は、橋が崩壊するのではないかという恐ろしい考えが頭に浮かび、パニックになる。彼はなんとか家まで帰り着くが、自分がジョージ・ワシントン・ブリッジだけでなくほかの橋に対しても、身動きが取れなくなるような恐れを抱いてしまったことに間も無く気づく。ブリッジマンは仕事のために橋をしばしば渡らなければならないので、意志の力で恐怖心を克服しようと必死になるが、どんなに懸命に努力してもうまくいかず、しだいに落ち込み、自分はどうしようもない泥沼にはまってくくだけなのだと思われてならなくなる。(略)幸いなことにチーヴァーの物語の中では、「天使」がブリッジマンを助けてくれた。それはある晴れた日のことだった。彼は橋を渡らないで目的地に着く道筋を見つけることができずに、渡らなければならない橋に近づいていくと、再び恐怖に襲われた。彼はそれ以上進むことができなかったので、しかたなく車を道路脇に止めた。そのとき、一人の愛らしい天使のような若い娘が小さなハープを持って近づいてくると、車に乗せてくれるように頼んだ。その長い橋を渡る間ずっと、娘が耳に心地よいフォークソングを歌って聞かせてくれたので、彼の恐怖心は消えていった。ブリッジマンは、ジョージ・ワシントン・ブリッジを私のはやはり用心して避け続けたが、ほどなく、他の橋を渡る行為は日常生活の一部に戻った。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.231)
これは何かと言えば、赤ちゃんが1歳くらいで「社会的参照」をするのと似ている。怖い、どうしたらいいかわからない、そういう時、励ましてくれる、安心させてくれる、そういう「お母さん」がいることで、恐ろしさに慣れ、ついには一人でも渡れるようになるというもの。恐ろしい原因は何か?といわれたら、ない。恐怖は感情であって、焦燥と同じように勝手に出てきてしまうものだ。石橋を叩いて渡る気持ちは、合理的に「この橋は石でできており構造計算が云々」だと理解して渡るのではない。みんな渡っているから安心だ。というので渡る。最愛の「お母さん」が一緒だからわたる。渡ってみたら平気なものだ。よし、今度は橋の上から川でも一緒に眺めてみよう。といって、世界を広げていく。世界を信頼していく。
ブリッジマンの話は、精神や心理の先生方にいわせればトラウマということになる。トラウマをどう克服するか?そのための手法も数多く研究された。有名なのが、EMDRという手法。ひと昔ではその方法が「極秘」だったが、今はどうかしらん。
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例えば昔話で怪物が現れる。そこにとある琵琶法師がやってきて、琵琶を奏でる。すると、怪物(その物語では蛇であった)がいろいろと喋り始めて、とりあえずいい方向に物語が進んだ。怪物は理性を超えた情動、人間の手に負えぬ自然を表していることが多い。神秘的であって合理性では太刀打ちできぬものに関わりあう一つの方法が、身体的感覚的なアプローチである。
これは人間恐怖症、人の中に入るのが怖いとか、家の外に出るのが怖いとか、意志や心が麻痺している人たちが世界を広げるための助けになる考えだ。
少しずつ、慣らしていく。恐怖を飼いならしていく。そのうち、恐怖と付き合えるというより、恐怖の人相が変わってくる。そんなアプローチだ。怖い顔をしていると思っていたのに、付き合ってみたら、まぁなんだ。笑えるではないか。という。
ウォルピは、筋肉をすっかり弛緩させて深呼吸をするリラクゼーションのエクササイズをすれば、患者が必要とする、不安と相反する反応が生じやすくなるだろうし、そうすればリラクゼーション反応が次第に恐怖刺激と結びつき、ついには恐怖心が消えるだろうと考えた。この種のセラピーでは、リラクゼーション反応はまず、トラウマとなっている刺激位とほんの少しだけ関係している刺激(たとえば日差しを浴びた穏やかな浅い池に架かる小さな橋の絵など)に結びつけラエッル。そして、こうした穏やかな恐れの元に対する不安が克服されると、患者は次のもう少し恐ろしい刺激を呈示され、それを段階的に繰り返すことで、ついにリラクゼーション反応は恐怖刺激について考えることに、そして最終的には恐怖刺激そのものに実際に近づくことに結び付けられる。この時点で、もしその刺激がジョージ・ワシントン・ブリッジなら、患者はリラックスした状態でその橋を渡ることができる。(略)短編では、いかにもフィクションらしく、橋を渡っているあいだ、愛らしい天使が歌ってくれるという、これ以上ないかたちでそれが実現した。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.234)
愛らしい天使の姿を子どもに見立てることはできないだろうか。
いろんな恐怖心・不安感を煽る世の中で、扁桃体は熱くなっている。
それを毎日、子どもの笑顔でリラックスをしていく。子どもから、橋を渡る(会社に出勤する)ためのリラックスした状態になるためのお守りをもらうかんじ。子どもからたくさんもらっているお母さんは、しあわせだ。
この心の機能の根底にあるものは「模倣」だ。
信頼できるだれか、憧れるだれかを真似たいとおもう。
踏み入れたことのない、不安と恐怖の世界に入ってみようとおもう。
情動によって情動を乗り越える。
よりポジティブな情動によって、「感情の習慣」を変えていく。
たとえばそれが「褒める」ということなのかもしれない(煽てるオダテルのではない)。
このシステムがまだ作り途中の幼少期にさまざまな感情と出会い、それと関わっていくことの大切さをおもう。大人になると、扁桃体の深く深くに、ある種の神経は埋没していくものだから。その配線を変えるための努力を要する。誰かの助けが必要になるのは、小さいときでも、大きくなってからも、かわらない。
時間をかけて、目の前で起こっている小さな出来事を感じて、噛み締めながら、記憶の奥底で眠っている子どもの心を呼び起こして育てなおす。いつだってやり直せる。大人なら、閉じ込めてしまった子どもが心のどこかに幽閉されていると感じる瞬間が、あるかもしれない。
子育てとは、大人が自分の中にいる子どもを、橋を渡るときに現れた天使を、大切にすることなのかもしれない。
子どものおかげで、いろんな人と出会えたり、世界が広がる。
それがよろこびにならないで、一体何になるだろう。
僕が昔、大切な人から教わったことがある。
「嫌な気分になったらどうするの?」僕は聞いた。
「寝る!」と、その人は答えた。
「失敗してくよくよしちゃったらどうするの?」僕は聞いた。
「ヘラヘラしてたらいいんだよ」と、その人は答えた。
寝たり、笑ったり。
大切なことは、どうやら、子どもが全部、教えてくれそうだ。
がんじがらめになった自分の心を解きほぐして、リラックス!!!!!!リラッX!!!!
大人になってからも、大切なことを、学び続ける。
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第17章 疲労した意志
ニューヨークのアッパーイーストサイドにある上品なハンガリー領事館でのレセプションで、疲れ切った聴衆がプログラムの開始を待っていた。長い1日の仕事が終わった夕方遅くだった。40歳ぐらいからずっと年上までの、ほとんどはグレイか黒のビジネススーツを着た「芸術に造詣が深い」人たちが、ロレックスの腕時計やiPhoneを再び見やり、目を閉じ始める。散々待たされた後で、突然、スピーカー0から大音量の音楽がどっと溢れ出した。
今、悪いことをしたいんだ!あとで苦しんだってかまうものか!
寄せ集めのようなバンドがステージ上でその歌詞をいかにも楽しそうにがなり立て、バイオリンやギターを荒々しく演奏し、ドラムやメタル缶を叩き、カスタネットを打ち合わせ、ラトルを振り鳴らした。小さな古びた中折れ帽を被り、ヒッピーのような服装をしたバンドのメンバーは、お互いに呆れるほどふざけあい、いかにもまじめそうなx聴衆にも誘いをかけてきた。ハンガリーに旅行に行きたいという気持ちを掻き立てるために。居眠りをしていた聴衆は度肝を抜かれて、ロックコンサートで若者があげるような興奮した感性と唸り声を思わずあげた。もしそうでなく、プログラムが型通り、ブタペストのすばらしさについてのビデオと講演ではじまっていたとしたら、咳が止まらなくなったふりをしながら出口に向かう人たちがたちまち続出していたことだろう。バンドが興奮を引き起こすまで、聴衆はおのおの自制心の発揮し過ぎで疲れ、そろって深刻な意志の疲労状態にあったように見えた。毎日意志の力を使った努力を続け、ストレスの多い長い1日の仕事をやり通すだけでも、人は披露しうる。聴衆は内なるキリギリスを今すぐ喜ばせてやりたくてうずうずしていたので、羽目を外せ、陽気にやれ、ホットシステムを楽しませろというバンドの誘いを嬉々として受け入れ、そのあいだ、働き過ぎたクールシステムは一休みしていた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.239)
疲労感、意志が消耗した、ホットシステムがうずうずしているという感覚が次にどんな反応を引き出すか。
ある人は寝る。
ある人はゲームをする。
ある人は散歩をする。
ある人は修行を始める。
ある人は無茶食いをする。
ある人は麻薬に手をつける。
ある人は人を殴る。
ある人は人を捕まえて喋りまくる。
ある人は音楽を聴く。
ある人はスマホを手に取る。
ある人は・・・
意志の力は消耗する、ということは実験で証明されているし、それは実際、現実に僕たちのみに起こっている。
僕たちにはご褒美が必要だ。
そのご褒美があまりにも頻繁だと、「自制心がない」とされる。
どうしよう・・・
で、人はこうした自制心をどのように学ぶか。というものだ。
この本では、やはり親を真似る。という研究結果がでているという。
親が厳しい基準で自分にご褒美を出すなら子どもはそれを真似る(子どもに厳しい条件を出して、自分へのご褒美は甘いと、子どもは甘い条件を採用する)。
ご褒美が遠く、遠くにあるときでも、ある一定の条件があれば、それに向かうことができる。
この本では、SEALという特殊任務集団のメンバーになるための訓練は「懸垂が100回できたら、それは次の30回を意味するようになる」といった、永遠とも思える意志の力を必要とするものだ。ご褒美は遠く、輝いている。それに向かって意志の力を働かせ続けられる人もいる。
マークの体験や成功が浮き彫りにしているのは、意志の力について人が暗黙のうちに持っている理論の重要性だ。努力や我慢強さを守り立てて持続させるような、熱烈に達成を望む目標と、人を奮い立たせてくれる手本とさまざまな支援を与えてくれる社会環境とがあれば、意志の力は事実上無限の発達を遂げられる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.252)
赤ちゃんが必死に立ち上がろうとしたり、はいはいをしようとしたとき、向こうでお母さんが笑顔で励ましてくれる。
何かを喋ろうとしたら、お母さんが反応してくれる。
指をさしたら、そっちのほうを向いて、興味を示してくれる。
そうした関わり合いが、赤ちゃんの発達を、成長する意志を、自立する意志を支えている。
人は一人では、なかなか成長できない。
無尽蔵の支援をする。
子どもは自立しようとしている。
(ところで、子どもにとっての1番のご褒美ってなんだろう?たぶん、抱きしめてもらうことだと僕はおもう。高校生になっても、大人になっても、大切なことかもしれない。肌が触れ合う距離で言葉を交わせる人がいることほどのご褒美はないんじゃないか。思春期の女の子にはよくあること。男の子は日本の文化的にそれがなかなかできなくて、うーん。。。。。)
お母さんが一人でできいないこともある。
「社会環境」が大切だ。
だから、僕はれいわ新鮮組の安冨さんに一票をいれます。
ファンタジーを使えないと、自動思考に流される?
『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル
まずこのブログを読んでくれているお母さんが多くならないのはなぜか。
というか受験の話しか読んでくれないのがとても悲しい。
けどそれが現実。
心が大事。
成功するしないに関係なく、自分で自分をコントロールできるようになるためには?
実行機能とは?どんな関わり方が大切なの?
そういう問いに答えてくれるのがこの本。
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保育園でマシュマロの誘惑にうまく抗い、その後の年月も一貫して自制が得意だった人とそうでなかった人とで、前頭葉と線条体を結ぶ脳の神経回路網(動機付けと制御プロセスを統合する回路網)の活動がはっきり異なることがわかった。先延ばしにする能力の高い人では、効果的な問題解決や創造的思考、衝動的な行動のコントロールに使われる前頭前皮質領域の活動が、より盛んだった。それとは対照的に、先延ばしする能力の低い人では、腹側線条体の活動がより盛んで、情動的にホットで抗い難い刺激に対する反応をコントロールしようとしているときには、とくにそうだった。農夫描くの、より原始的な部分にあるこの領域は、欲求や快楽、中毒と結びついている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.35)
私が研究のために未就学児を選んだのは、付随性というものを子どもが理解し始めるのがちょうどこの年頃であることが、自分の娘たちを眺めているうちに伺えたからだ。彼らは、少ない量のご褒美を今得ることを選べば、より望ましいご褒美をあとで得られなくなることを理解できる。またこれは、この能力における重要な個人差がはっきり見て取れるようになる年齢でもある。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.37)
うまく先延ばしにできる子供は、気をそらし、自分が経験している葛藤とストレスを和らげるために、ありとあらゆる工夫をした。意志の力を妨げられないように、楽しい空想の気晴らしを考え出して、つらい待ち時間を過ごしやすくした。例えば、短い歌を作って歌ったり、滑稽な顔やグロテスクな顔をしたり、鼻の穴をほじったり、耳掃除をして出て来た耳垢をいじったり、足の指を鍵盤に見立てて手で引いたりという具体だ。気をそらす手立てを使い尽くした挙句、目を閉じて眠ろうとする子もいた。ある女の子は、とうとうテーブルの上に手を組んで頭を乗せ、深い眠りに落ちた。その頭からベルまでは、わずか数センチしかなかった。こうした作戦は、未就学児が使うのを見ると目を見張らされるが、教室の最前列に座って退席するわけにもいかず、退屈な講義を最後まで聞く羽目になったことがある人なら誰にとってもお馴染みだろう。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.40)
マシュマロと忍耐とファンタジー
マシュマロを我慢するのは、忍耐、だとしよう。
では、忍耐とは何か。
忍耐とは、ストレスをどう和らげて、目標に向けて自分を律していくかというものだ。
自白をするよう鞭で打たれている人が、忍耐を発揮しているときも同じことがいえる。
忍耐とは、辛いものから逃げたい、ストレスをなくしたい、目の前の利益にあずかりたいという気持ちを「抑えて」、目標に向かう力であり、最近の言葉を使えばグリッド(やり抜く力)となる。
手に入れたいものが今手に入らないもどかしさをなくす努力の一つに、ファンタジーがある。
ある実験の条件の一つでは、実験者が部屋を出る前に、実物のお菓子を眺め続けることになる子供たちに次のように言った。「もし、そうしたくなければの話だけれど、このお菓子は本物ではなくてただの写真だというふりをするという手もありますよ。頭の中で、写真のように額縁に入れてしまうんです」。一方、ご褒美の写真を目にし続けることになる子どもたちには、本物であるかのように思うように促した。「頭の中で、目の前にあるのは本物のふりをすることもできますよ。本物がそこにあると思えばいいんです」。報酬の画像を前にした子どもたちは、平均すると18分我慢できたが、自分の目の前にあるのが画像ではなく本物のお菓子であるふりをしたときには、6分もまてなかった。また、本物の報酬と向かい合った時でも、それが画像だと想像すれば、18分待てた。頭の中に呼び起こした心象が、テーブルの上でむき出しになっている現物に打ち勝ったのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.42)
そこにはないものをあるとみたてたり、あるものをないとみたてる。別のものにしてしまうチカラを、忍耐のために使うことができる。無知の痛みを和らげるために、忍耐を発揮した末に幻覚をみるようになる人を想像してもいい。
ホットな情報に敏感な脳の部分、線条体が暴走するのをやめるためには?
「甘くて柔らかくていい匂いがしてドキドキするマシュマロ」という情報を線条体に与えないために、前頭葉で情報を操作する作戦もある。
実験者は一方の条件では部屋を出る前に、もっちりして甘いマシュマロの味というう、ご褒美のホットで欲求をそそる魅力的な特徴を考えるように子供達を促した。一方、「クールに感g萎える」条件では、マシュマロのことを丸くふっくらした雲だと考えるように促した。子どもたちは、ご褒美のクールな特徴に注目するように仕向けられると、ホットな特徴に注目するように仕向けられた時の倍の時間、待つことができた。(略)「クール」に考えるように仕向けられたときには、簡単に待つことができたのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.44)
一人にして誘惑と向き合わせる前に、待っているあいだ、悲しくなるようなこと(泣いていても誰も助けてくれない状況など)について考えたりしてもいいと言っておくと、もらえるお菓子のことについて考えるように進めたときとおなじぐらい早く、待つのをやめた。楽しいことを考えたときには、その3倍近く、平均で14分弱待てた。9歳児を(例えば描いた絵について)褒めると、作品についてネガティブなフィードバックを与えた時と比べて、報酬をただちにではなく、待ったあとでもらうことを選ぶ場合がずっと多い。そして、子供達に言えることは大人にも当てはまる。ようするに、私たちは悲しい時や落ち込んでいるときのほうが、欲求充足を先延ばしにする可能性が低いのだ。慢性的にネガティブな情動に襲われたり鬱に陥ったりしがちな人も、幸せな人と比べると、あとでもっと価値ある報酬を得るよりも、それほど望ましく鼻い報酬をただちに手に入れることを好みがちだ。 (『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.44)
ストレスの影響、ネガティブな感情は人間につきものだ。それとどう向き合うか。疑念、疑問、あれ、嫌だな。と思った時に、大人がどうやって、おしめを替えてあげるように、ぬぐいとってあげるか。その情動処理の方法は文化的なものであり、人間が人間から教わっていくもの。そして「目標に向けて自制する」能力をよりよく発揮するためには、騒々しい家庭の一室では、子どもの脳に負担がかかることがある。
シェイクスピアのハムレットは、悲劇的なまでに非建設的な経験の評価法しか知らない人物の典型ではあるものの、この点は鋭く捉えていた。「善いものも悪いものもありはしない。考えようによってどちらにもなるのだ」。これまたハムレットが示しているとおり、刺激や、自分の中にしっかり植えつけられた経験をどう「頭の中で表象する」(考える)かを変えようとするのは、自分の脳を自分で外科手術しようとするのと同じで、無駄な場合もある。どうすれば出来事をより簡単かつ効果的に再評価して認識を変えられるかは、認知行動療法の最大の難問であり、しっかり確立された気質や習癖を変えようと真剣に取り組んでいる人にとっても同じだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.46)
外科手術をする前に、「頭の中で世界をつくりあげる」大切な幼児期に世界のストレスから身を守るお守りを渡せればいいのだが。大人になって、いろいろな人と出会うなかで、新しい状況で、見つめ直して「ああ、あかんわ」となるのは自然だ。時代も変わる。場所が変われば文化も変わる。組織が変われば価値観も変わる。その時に?シャーマニズムの世界では、儀式を行うだろう。儀式には二種類があると僕はおもう。一つは集団で行われるもの。もう一つは、呪術者と問題を抱えた困っている人の間だけで行われるもの。例えばアメリカのインディアンのスー族に受け継がれているスウェット・ロッジという儀式では、何人かが小さいロッジ(テント)の中に入る。ここで肌と肌が感じる距離で、自分の中にある不安や恐れ、困りごとなどの言葉を声にして語るという儀式だ。もちろんそこには、神(グレートスピリッツ)も居合わせている。安心感。外からやってきた困りごと、ストレスが人間の心の内部で暴れているのを、心の内部で沈める工夫である。大人でも男でも、この儀式の中で子どものようにわんわん泣く。泣いてもいい。テントを出た後、世界は変わっていないかもしれないが、世界の見方は変わっているだろう。少なくとも、誰かがそこにいて、自分の声を聞いてくれたという、お母さんにしてもらったことを、大人になってからも必要としている。こうした「不安を取り除く」社会的な装置が準備されている文化があった。
必要な力は前頭前皮質にあり、この皮質を活性化させれば、評価の仕方を変えてホットで魅力的な刺激を「冷却する」、ほとんど無尽蔵の方法を実現可能にしてくれる。前頭葉がまだ発達していない未就学児でさえ、おおいに想像力を活用し、すばらしいお手本を見せてくれた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.46)
年齢:4歳、9歳、次は12歳?
3歳の子どもたちの大半は、質問が理解できず、どう答えていいかわからなかった。4歳児たちは、私たちの質問は理解できたが、たいてい最悪の戦略を選んだ。待っているあいだ、ご褒美をむき出しにし、それについて考え、それを眺め、食べたらどれほど美味しいかに意識を集中することを望んだ。なぜご褒美をむき出しにするのか訊かれると「そのほうが楽しいから」とか、「なんとなく、見ていたいから」とか「すごく美味しいから」とか答えた。どうやら、自分のほしいものに意識を集中しており報酬を目にしていると待つのが難しくなることが、まだ理解できていないらしい。あるいは、それを気にしてはいない。彼らは、自分が待ち望んでいるものを、すぐ目の前に置いいておきたかったのだ。そして、ご褒美をむき出しにしておいたために、待つという真剣な意図を無にしてしまい、自分がベルを鳴らしてお菓子を食べてしまったことに気づいて驚いた。彼らは、自分の行動を正しく予測できなかったばかりでなく、先延ばしにした報酬を獲得するのを不可能にするような条件を生み出すことにこだわった。このような研究結果を知れば、親は4歳児が相変わらず自制に苦しむ理由が理解しやすくなる。その後の1年ほどで子どもたちに起こる変化には驚かされる。5、6歳になると、たいていの子どもは自制の手段として、ご褒美を見えなくする戦略を選び、お菓子への関心を掻き立てるようなことを考えるのを一貫して拒んだ。そして、誘惑から気をそらそうとした。さらに年齢が上がると、付随する条件に意識を集中してそれを繰り返し口にすることの価値を理解し始めた(「もし待てば、マシュマロが二個もらえる。でも、ベルを鳴らしたら、一つしかもらえない」)。また、自分に忠告や指示を与えた。「『だめ。ベルをならしちゃいけない』っていうんだよ。もしベルを鳴らして先生が入ってきたら、これ一個しかもらえないから」。「マシュマロをもらうために待つのを楽にするには、どうすればいいかな?」と、私は9歳になる「サイモン」に尋ねた。すると、答える代わりに、マシュマロ・テストを受けている子供の絵を描いてくれた。それには吹き出しがついていて、「気をそらしてくれるような、何か自分の好きなもの」について考えていることが示されていた。彼はさらに、こんな助言を書き添えた。「自分が待っているものを見ないこと。頭をカラッポにしようなどとはしないこと。そんなことをすれば。それについて考えてしまうから。そのときそこにあるもので気晴らしをすること」。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.48)
これは心というよりも、戦術を誰かから教わり、それを習慣化し、前頭葉によってつくられる「世界」で線条体をコントロールする思考の回路にすること。子どもがそれに気が付いてもいいし、大人が言葉で教えてもいい。何かに我慢ができない状況があったとする。それを子供もわかっている。じゃぁどうしよう。お母さんが、大人が、子供に、作戦を、戦略を伝える。人間らしさを象徴するかのような前頭前皮質は、学ぶ。
ほとんどの子どもが、関心を掻き立てるホットな思考に勝るクールな思考の価値にようやく気付くのは、12歳ぐらいだった。(略)先延ばしを楽にする戦略を知っていると、子どもたちは(いや、それをいうなら大人も)、自分が抵抗しようとしている誘惑にコントロールされ、翻弄されることを免れやすくなるかというのが、この研究の原動力となる肝心の疑問だった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.50)
年齢はおおいに関係がある。4歳未満の子どもの大半は、マシュマロ・テストで欲求充足を先延ばしにし続けられない。誘惑に直面すると、たいてい30秒以内にベルを鳴らしたり、お菓子をかじり始めたりする。クールシステムがまだ十分に発達していないからだ。それとは対照的に、12歳になると、一部の実験では60%近い子どもたちが、25分もまたて。これは殺風景な小部屋でクッキーとベルに向かい合って座っているのには、恐ろしく長い時間だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.57)
私たちの大脳辺縁系は依然として、進化上の祖先の大脳辺縁系とほとんど同じように機能する。今でも情動的にホットな「ゴー!」システムのままで、快楽や苦痛、恐れといった情動を自動的に引き起こす強力な刺激に対する、素早い反応を専門としている。(略)脳のホットシステムと密接に相互接続しているのがクールシステムで、それは認知的で、複雑で、思慮深く、ゆっくり活性化する。おもに前頭前皮質に座を占める。(略)強いストレスがkぅーるシステムを押さえ込み、ホットなシステムの効果を高めることは、ぜひ指摘しておかなければならない。ホットシステムとクールシステムは、互いを補うかたちで絶え間なく相互作用し、一方が活発になるともう一方が活動を弱める。私たちは、ライオンに対処することは稀だが、現代社会の果てしないストレスとは日常的に直面しており、そこではホットシステムがしばしば優位に立ち、クールシステムが最も必要なときに、それが使えない状態になっている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.54)
成績が悪い、で困っている人は、まずその子のストレスの状況、情動的かつ認知的な対話ができているかどうかということを振り返るといいかもしれない。
イェール大学のエィミー・アーンステンは、ストレスの影響についての研究を精査したあと、「急性の制御不能のストレスは、非常に軽いものでさえも、前頭前皮質の認知的能力を急速かつ劇的に減じる原因となりうる」と結論した。ストレスが長引くほど、こうした認知的能力が損なわれ、害はより永続的なものとなり、最終的には、心身両面の疾患につながる。こうして、創造的な問題解決を可能にする脳の部位が、必要とされればされるうほど使えなくなる。ハムレットを思い出して欲しい。ストレスが増大するにつれ、彼はしだいに窮地に追い込まれて苦しみ、怒りに満ちた思いと千々に乱れた感情の中で身動きがとれず、まともに考えることも振舞うこともできなくなり、周囲を混乱に陥れ、自らの破滅をさらに早めた。(略)ハムレットにはまるで勝ち目がなかった。ストレスがなば挽いた時、問題解決に欠かせないかれのクールシステム、具体的には前頭前皮質と記憶にとって重要な海馬が、萎縮を始めた。同時に、ホットシステムの核心にある扁桃体が、過度に大きくなった。この脳の変化の組み合わせのせいで、時制とクールな思考が不可能になった。そのうえ、彼のストレスが長期化するうちに、扁桃体は肥大から萎縮に展示、最終的には、正常な情動的反応を妨げ出した。ハムレットが悲劇の人物なのも無理はない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.60)
保護者の悪口をいう「あれじゃぁ子どもが」とかいう保育者・学校の先生がいる。「子どもがかわいそうね」とかいったり子供の悪口をいうそういった人たちは、社会が見えていない。職場、目の前の仕事、仲間内での評価しかみえていない。周囲を混乱に陥れる人がいる。「その人が」悪いのだろうか。「学校の先生が」悪いのだろうか。「保育士が」悪いのだろうか。「親が」わるいのだろうか。それとも、つかみどころのない「世の中が」悪いのだろうか。
情動的でなおかつ認知的な対話で子どもの前頭前皮質の発達を促せなかったお母さんが悪いのか。
お母さんがそうした知的能力を発揮できずに仕事に駆り出されなくてはいけない世の中が悪いのか。
悪いものは悪い。
けどそれで悪いものをよくしようとおもっても、時間の無駄になることもある。
学校に掛け合うストレスを受けあって、よりよい結果が出せるだろうか?
悪いものは悪い。
けどそんなこと世の中にはたくさんある。
どうしたらいいいのか?
心の免疫は、学ぶしかない。
社会という人工的な「自然」のなかに生まれた
子どもという無垢の「自然」をどう育むか。
心の免疫力を強めること。
これをちょっとカリキュラム・プログラム化しようと僕は思いついた。
ーーーー
マシュマロと愛着障害:ストレンジャーテスト
メアリー・エインズワースの有名なストレンジャー法(愛着の意味)とマシュマロの関係
母親のいないあいだ、おもちゃで遊んだり、部屋を探検したり、いっしょに残された個人とかかわわったりして気をそらすことができた幼児は、ドアから離れられず、たちまち泣き出した子どもが経験した強烈な不安を避けられた。母親不在の2分間に用事が経験するストレスは、刻々と高まった。最後の30秒間は、永遠にも感じられたに違いない。このもっともつらい時間に用事が見せた行動が、その子の将来を占う上でとりわけ有用であることがわかった。完璧にはほど遠かったが、偶然よりもはるかに高い確率で、保育園でマシュマロ・テストを受けたときにどう振舞うかが予測できたのだ。具体的には、「新奇な場面」で別離の最後の30秒間を、母親からの不在から気をそらして過ごせた幼児は、5歳になってマシュマロテストを受けると、お菓子のためにより長く待ち、より効果的に気をそらすことができた。(略)この結果は、人生の早い段階からストレスをコントロールし、「冷却」するために注意を調整するのが重要であることを強く示している。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.65)
自制の力は時として、忍耐、というよりも、平常心と言い換えたほうがよいのかもしれない。悲しい出来事に陥ることなく、辛い出来事であっても、「大丈夫大丈夫」といえるポジティブさ、ということもできるだろうか。執着しているもの、見えてしまっているもの、禍々しい記憶、忘れたいことをすっかり忘れるなどなど、不安に対処する方法を知っている。気を紛らわせることができる。そうして楽に生きられる。この戦略を教えてもらっている子が(つまりこの1歳半の段階できちんと親子が対話できてい子が)、アタッチメントがしっかりできている子だといわれるようだ。
愛着ができているとは、自分で気晴らしができるスキルを子どもがもっていることを表している?
『よくわかる情動発達』をもう一度読み直さないとかなー。
—
ウハウハ期前の子どもの状態。
赤ちゃんを「ひとりで」遊ばせることの重要性。
ある研究で、生後半年から1年の赤ん坊が眠っているあいだにfMRIで脳をスキャンした。就寝中にとても腹立たしげな言葉を耳にすると、たえず対立している親と暮らしている赤ん坊は、それほど対立が見られない家庭の子供と比べて、情動とストレスを調節する脳の領域が盛んに活性化した。こうした研究結果から、発育にとって決定的な時期には、社会的環境に由来する比較的穏やかなストレス要因でさえ、ホットシステムに認識されることがうかがわれる。赤ん坊が発育するにあたり、初期の情動的経験は脳の構造に深くとどめられ、その後の人生の展開に重大な影響をもたらしうることは明らかだ。幸い、赤ん坊が情動を調節し、認知的スキルや対人関係のスキル、情動的スキルを伸ばすように手が差し伸べられれば、赤ん坊がダメージに最も弱い子の人生の初期段階には、改善の可能性がいちばん多くある。誕生から数カ月以内に、保育者は赤ん坊が苦悩の感覚に浸るのをやめさせ、子供が興味を持つような活動に注意を向けさせ始めることができる。これはやがて、赤ん坊が自分沖をそらして自らを落ち着かせるのを学ぶ助けとなる。神経のレベルでは、赤ん坊はネガティブな情動を「冷却」したり調整したりするための、注意コントロールシステムとして、脳の前頭皮質中部を発達させる。ともに自己調整機能発達の分野の先駆者でもあるマイケル・ポズナーとメアリー・ロスバートは、このプロセスについて論じるにあたり、こう述べている。「生後4ヶ月のときには示された刺激にすべて目をやる子どもたちも、一年半後に実験室に戻ってくるときには、自分自身の方針をしっかり持っている。自分の計画の方が優先順位が高いため、私たちのディスプレイに注目させるのは難しい。私たちは必死の努力をしてみた挙句、首を横に振り、この子たちは独自の考えを持っているとつぶやくしかない」(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.66)
不安定型アタッチメント
不安定型アタッチメントを示す幼児が母親が戻ってきても省みない反応は、支配的な母親を「選択しない」子どもの賢い選択である。
就学前までに効果的な自制スキルを発達させた幼児はたいてい、とても支配的な母親が注意を求めると、そばを離れずにいる代わりに、ほかへ気をそらし、母親から(「1メートル以上」)距離を置き、部屋を探検したりおもちゃで遊んだりした。支配的な母親から距離を置き、母親が近くそぶりを見せると、文字通り離れていった幼児たちは、5歳のときにマシュマロ・テストで長く先延ばしにすることができた。注意コントロール作戦を使って欲求不満を「冷却」し、もっと幼かったときに支配的な母親から自分の気をそらしたのと同じやり方で、報酬とベルから気をそらすことで成功したのだ。これとは対照的に、同じぐらい支配的な母親を持ちながらも、注意を向けるように言われた時にそばを離れなかった子どもは、マシュマロ・テストに挑むと誘惑のもとに注意を集中し、たちまちベルを鳴らしてしまった。母親があまり支配的でない幼児に関しては、話が違っていた。母親が注意を引こうとした時に、そばを離れなかった子どもは、5歳になったときにマシュマロ・テストでより効果的な自制と「冷却」の戦略を見せた。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.70)
安定型アタッチメントを示す幼児が、母親が戻ってきた時に表す喜びは、認めてもらいたい存在、影響力のある存在を母親にみていることを表している。情動的と同時に認知的な、言語的かつ非言語的な対話がなされているが故に、子どもは母親から多くを学び、自立している。
子どもの選択と、自由意志があるという感覚を後押しすることで自主性を奨励した母親の子どもは、のちにマシュマロ・テストで成功するのに必要な種類の認知的スキルや注意コントロールスキルが最も優れていることがわかった。(略)すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を犯しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子供が保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.71)
「イフ・ゼン」プラン
たびたび出てくるこの戦略は、あらかじめ「こういう状況になったら、こうする!」ことを決めておくことで骨の折れる情動のコントロールを楽にすること。
注意点
ホットシステムをまんまと騙して、あなたのために無意識のうちに反射的に働かせられるのだ。そうすれば、必要な時にホットシステムが台本に沿って望み通りのことを自動的にさせてくれるので、クールシステムは休んでいられる。だが、誘惑に抵抗するためのプランをあらかじめホットシステムに組み込んでおかなければ、そのプランが最も必要とされるときに発動される可能性は低い。なぜなら、ホットな誘惑に直面したときには情動的興奮とストレスがまし、ホットシステムを加速させて迅速で自動的な「ゴー!」反応を引き起こし、クールシステムの効果を弱める体。ホットな誘惑が現れた時には、しっかり確立した「イフ・ゼン」プランがなければ、自動的な「ゴー!」反応が勝ち目を収める見込みが大きい。だが、「イフ・ゼン」プランが確立されていれば、驚くほど多様な場面で、様々な人々や年齢層でうまく機能し、難しい目標ー以前ならとうてい達成不可能と考えていた目標ーを効果的に達成する助けになる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.80)
注意点2
「大人の言うことを聞いても何もいいことはない」と悟った子どもたちの目線と似ている。
約束を守らない人と接してきた未就学児は、驚くまでもないが、ただちにマシュマロ一個をもらわず、あとで二個もらおうとする率がはるかに低い。このような常識的な見通しは、実験によって、とうの昔に裏付けを得ている。人は、先延ばしにした報酬がもらえるとは思っていない時、合理的に行動し、その報酬を待たないことが立証されているのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.85)
今まで生きてきた中で、いろんな人と出会ったりなんだりしながら、自分の経験も加えると、多くの人はその場その場で直感的に考えている。目の前に出された広告を見て、反応する。定期テスト対策、大学受験、、、果たしてそれは?目の前の誘惑、キャンペーンで頭がいっぱいになって、相手の本当の意図に気がつかずに振り回されている人がたくさんいる気がする。子育ては理知的な仕事であって、長期的に、計画的に進めないといけないと最近は思うようになった。その時々、ぱっと選択しなくちゃいけない状況もたくさんあるけど。僕も最近頭の中で「安定をもとめなければ、本当にお金がない。身動きがとれなくなる」というホットな不安、恐怖、心配があると同時に、クールな部分で「じゃぁ、どうしたら僕がもっと楽に、僕にとって開放的に生きられるか、少し実験しようじゃないか」と対話ができるようになった。我慢することはないのだ。
人間の行動は、特定の環境に対する進化上の適応を反映しているかもしれない、低いレベルの自動的プロセスと、抽象的で普遍鉄器な論理的思考や将来の計画立案のための、より新しく進化した人間独特の能力とのあいだの競争によって支配されていることが多い。……人間の好みの持つこの特性は、私たちそれぞれの中に棲む、衝動的な大脳辺縁系のキリギリスと、先見の明のある前頭前皮質のアリとの競争を反映しているようだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.90)
DNA
約1.5Gバイトの遺伝子情報で、CD-ROM二枚を埋める量だが、DNA配列そのものは、よく尖らせた鉛筆の先に載りきる。
お腹の中にいる時から、遺伝子は新しい環境に向けて、親からもらったデフォルトを変形させる。
驚くべきことに、環境の影響は、受胎に先行することすらありうる。遺伝に関する従来の考え方とは相入れないが、最近の証拠からは、細胞の非ゲノム的な特徴の一部が遺伝することがうかがわれる。これは分子のレベルでは、社会的・物理的環境が引き起こしたこれらの特徴が、最終的に本人の子どもを創り出す細胞の特徴を変えうることを意味するとシャンペーンは指摘している。それがどのように起こるのかに関する詳細は、ようやく解明され始めたところだ。だが、対人関係における触れ合いに対処するときの危険と回復力の両方が世代間で遺伝するというのだから、はっとさせられる。これは、青少年や成人の生き方や、食べるもの、飲むもの、吸引するもの、対人関係でのふれあいや経験がもたらす喜びやストレスが、彼らの子どものゲノムのうち何が発現し、何が読まれずじまいになるかを、部分的に決めるということだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.101)
年齢
発達というのは、感覚が鈍くなっていくことだ。という言葉がある。つまるところ、認知能力が発達するにつれて、世界の情報で頭がパンクしてしまうのを防ぐために、情報を自動的に取捨選択していくということ。これができないと「平常心」が保てなくなる。自分で世界のどこにフォーカスをするか、コントロールする力(ある部分の情報は削ってしまえる力)をつけていくのが、発達だという。あれもこれもに目がいってしまうADHDという現象が起こる子は、体が大きくなっても、できることが増えてきても、では一体何をしたらいいのか。取捨選択ができない混乱状態にいるとおもったらいい。自制心とは「平常心」と読み替えたらよさそうだ。ある状況では、何が適しているか。そういった判断を適時、適当に行えると楽だ。そのつどそのつど、この状況でどうするんだっけ?と自動的に取捨選択ができない段階にいる子は、クールシステムの助けがなくて困っているだろう。
誕生後の1年間に、前頭前皮質は、自制と自発的変化に不可欠なかたちで発達を始める。ホットシステムとクールシステムというたとえを用いるなら、これはやがて自制を徐々に可能にするクールシステムの始まりを告げるものだ。おおむね3歳から7歳のあいだに、この発達のおかげで子どもたちは、目標をより効果的に追求するために、注意を移したり集中したり、情動を適応性のあるかたちで調整したり、望ましくない反応を抑制したりする能力をしだいに高めていく。こうした変化によって、子どもは年齢が上がるにつれ、自分の感情や藩王を調節したり、あらかじめ組み込まれているもののなすがままにならずに、その現れ方を修正したりし始められる。持って生まれた傾向の発言の仕方を変えるように自己調整するこの能力は、内気さの研究の第一人者で、ハーヴァード大学の発達心理学者ジェローム・ケーガンが語った逸話に余すところなく捕らえられている。彼の孫娘が保育園児で、内気さを克服しようと奮闘していた時に、彼女はうち気にならない練習ができるように、自分のことを知らないふりをしてくれとけーがんに頼んだ。そして、やがてそれが功を奏した。けーがんが以前に行った研究から明らかになっていたとおり、内気さのような傾向は遺伝的ルーツを持っているものの、変えることができる。就学前に良い経験を重ね、保護者が自分を律して過保護にならないようにできれば、内気な子どもがあまり引っ込み思案でなくなるのを助けられる。けーガンの孫娘は、内気さの研究の権威に、子ども自身が自らの発育における積極的な主体者となって、さまざまな戦略を使い、人生で自分の気質がどう発現するかを変えうることを示したのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.101)
この例は、就学前の子どもがすでに自分をかなり具体的に認知している例だ。僕はこの孫娘の認知発達はかなり進んでいるように思うのだがいかがだろうか。恐れ入った。
オトノネのキーワード「平常心」
フォーカスは、別の部分に対するピンボケを意味する。
平常心とは、世界に多くのピンボケを作ることである。
また平常心とは、煩雑な感情、扱えないものから一歩二歩遠くへ距離を置くことでもある。→「遠近感」へ
遺伝が半分。育ちが半分。というのはもうご存知だろう。遺伝を生かすのも殺すのも育ちだと思えば、全ては、育ちだとおもうのだが。『パーソナリティの科学』ででてきたグッピーの話を思い出す。上流のグッピーが下流の環境に置かれたら、生き残る確率が減っただろうか。魚類と哺乳類(母親に育てられるかどうか)の違いかもしれない。
臆病な母親の元で育った遺伝的に大胆なマウスは、遺伝的に内気なマウスに似てきた。ここから二つの明確な結論が浮かび上がってくる。まず、遺伝的な資質は、行動の重要な決定要素であること。だが、それに劣らず重要なのが、幼い頃の、母親に関連した環境だ。その環境は、遺伝子がどう機能するかに強力な影響をもっている。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.103)
しあわせは前頭前皮質がつくる。
よろこびは扁桃体がつくる。
しあわせは静寂であり、動的平衡である。それは循環する。
よろこびは歓喜であって、憤怒・羨望と同じ根をもっている。一方的に、噴き出してくる。
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実行機能の発達を阻害するストレス環境
実行機能が働くためには、低ストレス環境が必要なのは、もう書きましたね。
自制心とは、注意深さ、とも言い換えられそうですね。「すぐに反応しない」「衝動から一歩下がってみる」「遠くから眺める」感覚。遠近的に目の前の状況を観察する力。これは、自分から距離を置くもう一人の自分がいること、自己フィードバックをかけられることでしょう。これは平常心とも似ているか。遠くのものを眺める。近視的にみない。自分との距離感を取る。
実行機能は、思考や衝動、行動、情動に対して、思慮深く意識的なコントロールを行うのを可能にする認知的なスキルだ。実行機能は私たちに、衝動的な欲求を抑制したり「冷却」したり、目標を追求して達成できるようなかたちで考えたり注意を柔軟に使ったりする自由を与えてくれる。こうしたスキルと神経のメカニズムは、良い人生を築くために不可欠だ。(略)首尾よく待てた子は、それぞれ独自のやり方で自制したが、彼らはみな、実行機能の三つの特徴を共有していた。第一に、自分が選んだ目的とそれに付随する条件(「もし今ひとつ食べたら、あとで二つもらえない」)を記憶し、たえず頭に浮かべておくこと。第二に、目的に向かってどれだけ進んでいるかを確認し、目的志向の思考と、誘惑を和らげるテクニックとのあいだで、注意を認知作用のスイッチを柔軟に入れ替えて、必要な修正を行うこと。第三に、目的を達成するのを妨げるような、衝動的な反応(誘惑のもとがどれほど魅力的かを考える、手を伸ばしてそれに触れようとする)を抑え込むこと。今や認知科学者は、誘惑に逆らおうとしている人をfMRIスキャナーにかけ、人間のこうした驚くべき偉業を可能にする前頭前皮質の注意コントロール・ネットワークを可視化し、これら3つのプロセスが脳の中で展開するのを目にすることができる。計画立案、問題解決、柔軟な思考を可能にしてくれる実行機能は、言語を使った論理的思考や学業での成功に欠かせない。実行機能がよく発達している子どもは、目標を追求するときに、衝動的な反応を押さえ込み、指示を念頭にとどめ、注意をコントロールできる。こういう子どもが、実行機能が未熟な同輩よりも、未就学段階で算数や言語、式辞のテストで良い成績を修めるのは、驚くまでもない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.121)
オトノネのキーワード「遠近感」
自分の現状を客観視する。→「自己フィードバック」、「自己内対話」
すぐ目の前にあるものと自分とのあいだに無限のステップを見いだすこと。(時間的空間的距離は相対的なものである)
空想に浸る力。ファンタジーにもなる。それは遠くの目標を見定めるチカラでもある。→「目標」「ファンタジー」
実行機能を発達させずに、全てを管理するのが日本の学校教育(恐育)
就学前に実行機能を十分発達させる子どもは、ホットな本能的誘惑が引き起こすストレスや葛藤に対処しやすい。それと同じスキルが、読み書き計算を習うときにも日頃から役に立つ。逆に、実行機能が十分発達していない未就学児(残念ながら、あまりに多過ぎる)は、学校時代を通して、ADHDをはじめ、さまざまな学習上の問題や情動的問題に直面する危険が高まる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.123)
実行機能は遠くのもの、空間的にも時間的にも自分とは離れている抽象的なものを見据える能力でもある。これのおかげで、他社の心に近くことができる。
実行機能のおかげで私たちは、目の前の状況や「今、ここ」という世界から抜け出し、現実の枠を超えて考えたり空想したり、不可能なことを想像したりできる。そして、実行機能は想像を容易にすることで、柔軟で適応性のある自制心の発達を促す。実行機能は、他者の心や感情を理解する能力とも強く結びついており、子供が触れ合う相手の意図を推測したり反応を予測したりするための、いわゆる「心の理論」を発達させるのを助ける。私たちは実行機能のおかげで、他者の感情や動機付けや行動を理解し、それを考慮に入れ、彼らの認識や反応が自分のものとはまったく違いうると気づくことができる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.124)
実行機能がうまく働いていると、たぶんしあわせだ。世界と自分とがあまりずれないし、ずれても微調整で済ますことができる。自分をコントロールしている、自分は大丈夫だとおもえること。自己効力感につながる。
ストレスを制御できるようになること
人生の初期に実行機能が十分に発達すると、子どもたちは望むとおりの人生を築く可能性が高まる。そうした子どもたちには、私たちが自分の愛する人には備わっていてほしいと願うもののリストで当然高い順位を閉めると思われる、自己信念を築くための基盤ができている。この自己信念とは、自分には自制心や問題解決能力があるおいう意識(「できるとおもう!」という態度に反映される)や、将来に対する楽観的な見通しといった、相互に関連した信念だ。このような恵まれた「資源」は、各自の自分についての信念であり、外部の評価でも、達成度や力量の客観的なテスト結果でもないことは、ぜひとも理解しておかなければならない。ストレスのネガティブな作用が、本人がそのストレスをどう認識しているか次第であり、誘惑の影響が、本人がその誘惑をどう評価し、どう頭の中に思い描くか次第なのとちょうど同じで、私たちの能力や業績や将来の見通しがもたらしうる健康上の恩恵は、それらを私たちがどう解釈したり評価したりするかにかかっている。とても力量があるのに、ネガティブな自己評価を下し、身もすくむような自己疑念を抱いて自らを害している人を、あなたも知っているだろうから、そんな人のことを考えてみるといい。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.125)
低ストレス環境下における情動的かつ認知的対話によって発達した幼少期の実行機能は、メタ認知が強くなる中学生以降の「自分の人生は自分でつくるものだ」という自己効力感・自己肯定感・自尊心・自立心・主体性・能動性を育む。
テレサは次第に動揺し、不安になり、もう自分の人生が手に余ると感じていた。3回目のセラピーセッションのとき、どうやら興奮が頂点に達したようで、自分は正気を失いかけているのではないかと涙ながらに声を張り上げ訴え、ケリー医師に、どうか答えてほしいと懇願し、こう尋ねた。「私は気が変になりかけているのでしょうか?」ケリーはゆっくりと眼鏡を外し、彼女の顔に自分の顔を近づけ、真っ直ぐに目を覗き込んで訊いた。「そうなりたいですか?」テレサはハッとした。肩から大きな重荷を降ろしたかのように、途方もなく気が楽になった様子だった。どう感じるかを変える力が自分にあるかもしれないなどということは、思った試しがなかったのだ。突如として、「気が変になる」というのは避けようのない運命ではなくなり、一つの選択肢に変わった。自分はこれまでの経歴の受動的な犠牲者として、人生が崩れていくのを指をくわえて眺めている必要などない。彼女にしてみればこれが、「わかった!」の瞬間だった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.126)
低ストレス環境(安心)→実行機能(自由・自立のためのスキル)→自己肯定感(楽観主義)
楽観主義を、フォーカスをポジティブな部分に向ける実行機能のスキルだとみてもいい。
成長しながら課題に取り組むにつれ実行機能は戦略をさらに豊かにしていく。が、もしそれが学習性無気力や、どうしようもない壁にぶち当たってしまったとき、その時こそ誰かに「教わる」ことが大切かもしれない。小さいときに子どもが、お母さんからいろんなものをもらったように。今度は別の人から「学ぶ」といいのかもしれない。
シェリー・テイラーとその共同研究者たちは、楽観主義者の方がストレスに効果的に対処し、その不都合な影響を受けにくいことを示した。楽観主義者は、楽観の度合いが小さい人と比べると、自分の健康と将来の幸せを守るために多くの手を打ち、全般に、より健康な状態を保ち、鬱になりにくい。(略)悲観とは、ネガティブな面に焦点を当てたり、最悪の事態を予期したり、この上なく陰鬱な解釈をしたりする傾向をいう。(略)極端な悲観主義者は、無力感を覚え、意気消沈し、自分の人生をコントロールできない。自分の身に悪いことが怒ると、何が悪かったのかについて、状況に即した説明や、あまり自分を責めないような説明は受け入れられず、自分が一貫して持っているネガティブな特性のせいにする。(略)幼いとこいに、この悲観的な説明のスタイルが極端だと、将来が危ぶまれる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.132)
『「やればできる!」の研究』読むかな
自分の知能や、周りの世界をコントロールする能力、社交性、その他の特徴は、生まれた時から逃れようのないもの、あるいは恵まれているものではなく、鍛えたり発達させたりできる筋肉や認知的スキルのように柔軟性を持っていると、幼い頃から考える子どももいる。ドゥエックはそういう子どもを「拡張的知能観」の持ち主と呼ぶ。一方、自分の能力(偉いか愚かか、良いか悪いか、強力か無力か)を、自分には変えられない、生まれてこのかた固定された水準に凍りついているものとみなすのが、「固定的知能観」の持ち主だ。(略)固定的知能観から抜け出せない子どもは、学業がしだいに難しくなったときにはとりわけ苦労することになるという。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.128)
拡張的知能観の持ち主の特徴
たいてい自分は成功するだろうと見込んでいる8年性(14歳)の男の子たちは、ただ待つだけではなくうまくやり遂げられないと、多いものの先延ばしにされた報酬が手に入らない、そんな認知的課題に進んでと陸yむことがわかった。これは、少ないもののただちに手に入る報酬腕は手を打たないということであり、彼らは成功をあまり見込んでいない子どもと比べて、この選択肢を選ぶ割合が2倍近かった。成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだ。彼らはしくじるとは思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険をおかした。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだった。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからだ。それまでの成功が彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励した。それがすべて合わさって、楽観主義をなおいっそう微笑ませる結果を生む。この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.135)
ストレスへの対処法の2タイプ。自分はどちらか?大抵は、情報を与えないで気をそらすだけでストレスを回避する選択をする。
治療中、あなたは視界に、何をしているか教えてもらいたいだろうか、それとも、頭の中でパズルにでも取り組んでいたいだろうか?もっと知りたい人は「監視者(モニター)」に、知らないほうがよく、自分の気をそらしたり、押さえ込んだりしたい人は「感覚を鈍らせる人(ブランター)」に分類される。(略)医療の現場であれば対人関係のばであれ、ストレスに直面した時、モニターはたいてい、多くを教えられた時にうまくいくし、ストレスを減らせる。どんな個人差を調べてもいえるように、ていうどのスケールでどちらかの極端に位置する人もいるが、大抵の人は、どこかその中間にいる。一般原則としては、自分の力が及ばない状況にあるためにストレスの減らしようがないときには、もっと知ろうとするとたいてい不安とストレスが増えるので、感覚を鈍らせたほうが、適応性があり、自分を守りやすい。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.160)
壁に止まったハエの視点で自分を眺める、距離を置く
「なぜ?」と自問して何とか良くなれる人もいる一方で、悪化する人も多いことを明らかにしてきた。そううい人はいつまでもくよくよと考え、反芻し、辛い経験を自分や友人や親身のセラピストに語るたびにいっそう落ち込むだけだ。果てしない反芻は、患者なが「その経験と折り合いをつける」のを助けるどころか、情動的な痛みを再発させ、怒りを改めて家たぎらせ、傷口を開いてしまうのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.165)
人間関係を恐れる人
「高RS(拒絶感受性(RS)が高い)」の人は、緊密な関係にある相手から拒絶されるのを極端に気にかけ、自分が「ミスれ垂れる」のではないかと心配し、自らの行動を通して自分が恐れているまさにその拒絶を誘うことがよくある。高RSは有害な影響をもっていて、その作用を緩和しないと、自己成就予言のような事態が展開する。(略)ビルのような高RSの人は、自分が「本当に」愛されているかどうかですぐに頭がいっぱいになり、一人で思いを巡らせているうちに、見放されるのではないかという恐れが募り、ホットシステム由来の怒りと憤慨がさらにほとばしり始める。自分の苦悩やパートナーの不満そうな反応に応じて彼はあからさまに、あるいは受け身の攻撃性を見せて、さらに高飛車に出て、相手が自分の思う通りに振る舞わないと気が済まなくなる。 (略)ミドルスクールでは、高RSの子どものほうが同輩たちから不当な扱いをつけたりいじめられたりしやすく、彼らは強い孤独感を抱いている。長い目で見ると、この弱点が著しい人は、より多くの巨舌を経験し続け、やがて自尊心が蝕まれ、鬱になる可能性が高まる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.177)
高RSの人はしばしば腹を立てて、敵意を感じるものの、深呼吸したり、戦略的に自分の思考を調節したり、長期的な目標について考えたりすることで、自分を「冷却」して落ち着かせれば、優位に立てる。自分のホットシステムの引き金(もし彼女が新聞を読んだら)や、内面的なキュー(もし怒りを判じ始めたら)を、、自制戦略(そのときには深呼吸をして、100から0まで逆に数字を数えていく)と結びつける」イフ・ゼン実行プランを立てて練習すれば、そうした戦略を努力一つしなくても自動的に実行に移せるようになる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.185)
社会的にうまくいっている残酷な経営者たちは自己高揚感があるゆえに健康的である。
自己高揚感の度合いが大きい人(自分を同輩と比較した時に自己肯定するような点の高い人)のほうが、実は慢性的な生物学的ストレスのレベルが低いことがわかった。生物学的にいうと、こうした結果になるのはおもに、消化から体温から、気分ん、性衝動、身体エネルギー、生物学的免疫系まで、ありとあらゆるものを調整する、視床下部・下垂体・副肝臓(HPA)軸の働きが原因だ。(略)自己高揚の度合いが大きい人は小さい人よりも、HPA軸が健康的だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.191)
現実をみなくなる。DVを受けているお母さんが幸せを感じていること。それでも、しあわせになれる心の働きが、人間にはある。果たしてそれが、「適応的か」それを見極めていくのが、もしくは適応的になれる場所を探すこと。
こうした研究結果は、多くのサイコセラピストが相変わらず辛抱している伝統的な考え方と矛盾する。その考え方によれば、ポジティブな幻想と自己高揚は、自らを守るためにネガティブな個人的特徴を否定するもので、誇張と神経症的なナルシシズムの表れであり、自分のネガティブな特徴を抑圧する試みには、大きな生物学的代償が伴う、ということになっている。だが実際には、ポジティブな幻想も含め、ポジティブで自己肯定的な精神状態は(現実を極端に歪めていないかぎり)、健全な生理的機能は神経内分泌機能を高め、ストレスのレベルの低下につながる。それに対して、自分のことをもっと正確に認識している現実主義者は、自尊心が低く、鬱を多く経験し、一般に心身の健康が劣る。逆に、より健康な人の自己認識には、たとえいくぶん幻想が混じったものであっても、温かな幸福感が伴う。(略)ダニエル・ギルバートが指摘している通り、両者はともに、二つの競合する必要性の狭間で、均衡をとらなければならない。生物学的な免疫系は、ウイルスのような外部からの侵入者があればそれを識別して破壊する必要があるが、体内の善玉の細胞を殺すことは避けなければならない。同時に、心理的な免疫系が、ほとんどの同輩よりも自分は優れているとあなたに信じ込ませたとしても、それは適応的であり、自尊心にとっては望ましいが、あなたが自分はほかの誰よりも優れていると考えるなら、話は別だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.192)
前頭前皮質が判断できない状況にある時、心理的な免疫系、ポジティブな思考は私たちの心を守る。
心理的な免疫系は、予想が外れた時に私たちがあまり落胆しないように守ってくれるが、間違っていることを一貫して示す証拠を私たちが目の前にしても、自分の信念にしがみ続けさせかねず、そのために私たちは誤りを犯し、高い代償を払う羽目になるということだ。楽観的な幻想は、そのせいで足に火傷をしているときにさえ、間違っていることを証明するのが難しい。20012年7月、カリフォルニア州サンノゼで、ポジティブ思考の威力を褒めそやす後援者に意欲を掻き立てられた21人のx聴衆が、熱い石炭の上を歩こうとして火傷を負い、治療を受けなければならなくなった。試しに石炭の上を歩いた人の多くはどうやら、足の火傷をものともせず、足を冷やした後には、人生を帰るようなポジティブな経験だったと感じたようだ(そしてそれによって、心理的な免疫系の力と、心理的な不協和音を和らげられる人間の能力をさらに立証したわけだ)。たとえ前頭前皮質が私たちを守ってくれず、「できると思う!」という考え方のせいで足に火傷をしたときにさえ、心理的な免疫系は、任務を果たし続けるのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.206)
脱感作
tool of the mind
実行機能の発達を促す目的で〈ツール・オブ・ザ・マインド〉(心の道具箱)というカリキュラムを作り、未就学児(平均年齢5.1歳)に、実行機能を向上させる活動を集中的に毎日40やらせた。これらの活動は、子どもが自分は何をするべきかを自分に告げるゲームのような訓練から、「ごっこ遊び」や、記憶力を改善する簡単な課題の練習、目的を持って注意を集中したりコントロールしたりすることの習得にまで及んだ。ダイアモンドの研究は、低い所得者層の多い学区にある20以上の教室で行われ、実行機能の能力に対する〈ツール・オブ・ザ・マインド〉の効果と、この学区での標準的でバランスのとれた読み書きのカリキュラム(似たような学習内容を扱っていたが、実行機能の向上を目指すものではなかった)の効果とを比較した。(略)ダイアモンドらの就学前教育の2年目に、両プログラムの子供達を実行機能に関する認知と神経系の標準的なテストで比べてみると、〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加した子どもたちが大差で優っていた。そして、実行機能が最低水準で始めた子どもたちに最も効果があった。実際、〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加した子供達の進歩はめざましく、一年目の終了時に、ある学校の教育者たちは実験をやめたいと言い出した。標準的でバランスのとれた読み書きのカリキュラムを受けていた大将軍の子どもたちにも〈ツール・オブ・ザ・マインド〉のプログラムに参加させたいから、ということだった。介入を通じて実行機能の発達に影響を与える機会は、就学前に限られてはいない。11歳から12歳の、学校で平均以下の子どもたちにわずか数時間のトレーニングをさせ、特定の「イフ・ゼン」実行プランや戦略の使い方を教えただけで、学業や成績評価平均値、出席率、品行が大きく改善した。(略)(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.262)
簡単な瞑想やマインドフルネスのエクササイズにも、実行機能をおおいに向上させる効果がある。「マインドフルネス・トレーニング」は、人が今この瞬間に注意を集中させるのを助け、沸き起こってくる感情や感覚や考え方の一つひとつにたやすく気づき、偏った判断をせず、細かい説明は求めずに、体験することはなんでも受け入れ、認めることを目指す。(略)マインドフルネス・トレーニングをすると、雑念が減り、集中力が高まり、アメリカの多くの大学院が入学の条件として採用している大学院進学適性試験のような標準試験での学生の点数が上がった。(略)同様に、正常な成人の脳や老年期の脳も、実行機能を高める比較的簡単な介入によるオン絵にあずかれる。とりわけ注意すべきものが2つある。一つは身体的なエクササイズで、程々の量や短時間の場合でも効果がある。もう一つは、孤独感を最小限に抑えたり、社会的な支援をもたらしたり、他人との絆やつながりを強めたりする介入で、そういうものならば事実上何でも効果がある。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.263)
回復の椅子
教室の一角に「回復の椅子」または「思考の椅子」が置かれている。昔の、教室の隅に立っている罰の代わりにその椅子に座っているという罰があるのではなく、生徒が感情を抑えられなくなりそうだ感じたり、今日が生徒を見てそうなりそうだと思ったりしたときに、生徒が冷静になるためにその椅子に座る。椅子のそばには砂時計があり、その近くの木安倍にはさまざまなメッセージが貼られていて、子どもたちが自分で落ち着きを取り戻すのを助ける。「興奮した状況から距離を置こう」「深呼吸をしよう」「数を逆から数えてみよう」「怒りがヘリウムガス入りの風船に乗って飛んで行くのを想像しよう」……。こうした戦略によって、落ち着き、自制心を取り戻し、熱くなった感情を冷まし、冷静に考えられるようになると、椅子を離れてクラスに戻る。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.273)
躾けるべきこと。教えるべきこと。
教えてはならないこと。
子どもたちに教えてあげますか。「強くなりなさい。どんな悪いことをしても、守ってくれるような、大きな組織に入りなさい。言われたことをやりなさい。そうすれば、入れてもらえるから」と。それが日本で生きる方法ですと、子どもに教えてあげますか。「いい子になりなさい。どんな人格になっても社会が許してくれるような、いい学校に入りなさい。…
大切なのは、自己決定。
私はディヴィッド・レヴィンに、KIPP校がジョージ・ラミレスのいうように、本当に「人生を救う」のかどうか訪ねた。彼は、誰の人生も救いませんときっぱり言いきり、こう述べ立てた。「私はチアリーダーであり、実際にプレイをしているのは子どもたちです。塚しいことをやっているのは彼らで、私たちは環境を整えてあげるだけです。肝心の骨折りは、本人がやらなければなりません」。さらにこうも語った。KIPPの指名は、子どもたちが選択肢の多い人生を送れるよう手助けすることだ。選択肢といっても、全員に同じ道が用意されているということではないーアイヴィーリーグの大学である必要はないし、大学である必要さえない。選択の自由とは、子どもたちが自分の人口統計学的データとは無関係に、どう人生を送るかについての正真正銘の選択肢を持つことなのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.275)
キャラクター教育
KIPPは教室でどのようにキャラクター教育を実現し、効力を持たせているのかと、私はディヴィッドに尋ねた。肝心なのは、生徒の学校で自制や粘り強さなどのキャラクター・スキルを伸ばすのに決定的に重要な行動を実践する機会を与えることだと彼は思っている。彼によると、「欲求不満を素早く乗り越え、失敗から立ち直り、集中して自主的に行動する方法を子どもに学んで欲しければ、学校の授業でこういったことをする機会を与えなければなりません。だから、教師は授業を構成するときに、このための時間を組み込む必要があります」。したがって、カリキュラムには実践するために相当の時間を含める。その時間に生徒は別の生徒とともに、あるいは小さなチームで、先生に頼らずに、集中力と継続的な努力が必要な難しい課題を自主的にやる。「カギは、もう教師は生徒たちの前に立って話をせずに、子どもたち自身に骨の折れる作業をさせることです」。キャラクター教育での進歩を追うために、生徒は年に数回、各楽器の終わりに自己評価をする。それぞれのキャラクター・スキル(とくに、自制、粘り強さ、楽観主義、熱意、社会的知能、好奇心、感謝)のt口調が現れている行動をどれだけ頻繁に、首尾よく実施できたか(「ほとんどできなかった」から「ほぼいつもできた」まで)を評価するのだ。各スキルにはそれぞれの特徴的な行動を示す、次のような説明が付されている。楽観主義の場合は、「物事がうまくいかなかったおtきでさえ、ずっとやる気を持ち続けられた」。粘り強さは、「始めたことはなんでもやり遂げることができた」。自制は二種類の自立能力に分けられている。も公表を念頭におき続け、集中力を保持したまま努力する能力(「注意を払い、気が散らないようにできた」)と、対人関係でいらいらさせられる状況で怒りと欲求不満をコントロールする能力(「批判されたり挑発させられたりしたときでさえ冷静でいられた」)だ。熱意に関しては、行動の特徴は「わくわくしながら精力的に新しい状況に取り組めた」といったものだ。そして社会的知性については、「他人んお気持ちを尊重できた」というような行動が挙げられている。教師は、生徒たちだけでなく自分お行動も同様のキャラクター発達の基準を使って観察したり評価したりするように求められている。学校全体の進歩を評価し、スキルの低下がないようにするためだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.277)
ホットシステムには現在志向の強いバイアスがかかっているので、誘惑に逆らうのは難しい。このシステムは、目の前の報酬は十分考慮するが、先延ばしにされた報酬は割り引いて考える。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.280)
練習、練習、練習。嫌なことを、戦略なしにやり続けるのが忍耐・自制だと思われがちだが。
戦略を使って目標に向かって行くこと、習慣化すること。「自然」になるまで、続けること。
イチローがバットと振り続けるように。
忍耐・自制は習慣化するまでのプロセスで必要な「戦略」を取り込むまでの、根気強さのことだ。
戦略なしに、いやだいやだとおもうことをやらせ続けることは、心を疲弊させる以外の何者でもない。
そしてそれが学校や会社などの圧力、しくみ、システムによるものである場合、ある程度容易になる。
環境を設定することで、人は変わるからだ。しかしそれが組織を超えて個人で取り組まなければならない場合・・・・本人が
「絶対に変わりたいと思わなければ話にならないのだ」(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.288)
難しいのはこの新たな振る舞い方をチョキに渡って維持し続けることであり、それはダイエットから禁煙に至るまで、自制心を強化する試みのほとんどに当てはまる。だが、ねばりずよくとりくめば、新しい行動によって満足が生まれ、それが努力を維持するのを助けてくれる。新たな行動自体が価値を持ち、もはや重荷ではなくマンン族と自身の源になるからだ。ピアノの練習にしろ、愛する人を傷つけないために自制心を発揮することにしろ、長年のパターンを変化させたり、新しいパターンを学習したりするために努力するときにはいつもそうなのだが、やるばきことは、パターンが自動的になり、自ずと満足が得られるようになるまで「練習、練習、また練習」しかない。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.286)
毒を飲み続け、薬を飲み続ける。【認知的再評価】
グルテンフリー食事療法を実施すれば治るのに、薬を飲まされてしまった患者がいる。グルテンフリー食事療法を実施することを進めずに簡単に薬を出した医者がいる。薬は飲み続けなくてはならない。副作用はもちろん、ある。で、後で調べてみると、この病気は世の中の食物のなかに含まれているグルテンを摂取しなければでてこない。医者に「どうして食事療法を教えてくれなかったのか」尋ねたところ「グルテンがあふれている世の中でグルテンフリー食事療法を続けるのに必要な自制心を持つ人などいないから」という答えだった。本当に変えたいとおもうなら、違和感を感じた時に、自分で調べる。そして、真実を、事実を知ること。そのまま暮らしていたら毒を食べて、薬を飲み続けるという意味不明な人生になっただろう。今まで喜びを得ていたそれは、実は、毒だ。という認識ができるまで、苦しまなくてはいけない。親しみのあった生き方が、親しみのある価値観が、実は毒だったということがわかるまで、毒を飲み続ける。その先に「本気で変えよう」とおもえるきっかけが生まれる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.290)
毒を飲み続けて、薬も飲み続ける。
そういう生き方もある。
ただ生き方が、違うだけだ。
よりよく生きるということがどういうことか、人によって違う。
「子どものために何をしてやればいいのでしょうか」という質問が親から出る。十分に時間があればまず、子供がお腹にいる間と生まれてからの数年間は、ストレスレベルを低くしておくことがとくに重要だと説明する幼いうちに子どもを長期にわたって極端なストレスにさらすと、恐ろしい害をその子に与えかねないことはよく知られている。それに比べるとあまり知られていないが、一シアになるまで、一見すると軽度のストレス要因い慢性的にさらされて暮らしている(たとえば、暴力を振るわないとはいえ両親が絶えず争っている)子どもたちは、眠っているあいだに怒鳴り声が聞こえただけで、脳内でのストレス反応が拡大する場合がある。赤ん坊のストレスレベルを低く保つための第一歩は、子ども生まれると親のストレスが高まる場合が多いことを自覚して、親が自分自身のストレスを減らすことだ。衝動や誘惑、拒絶される経験に対するホットシステムの反応を「冷却」してコントロールするときと同じ戦略が、真夜中に数時間おきに泣いてむずがる赤ん坊の面倒を見るときにも使える。あなたが疲れ果てているときにはなおさらだ。保護者は子どもが生後一年未満のころから、気をそらす戦略を使って子どもの心を苦悩の感情から遠ざけ、気晴らしになる刺激や活動の方に向けてやることができる。そのうちに、子供は自分で注意をコントロールし、自分の気をそらして苦悩を和らげることを学ぶ、これは、実行機能を発達させる基本的bな1ステップだ。親はこの変化の導き手として力を貸すことができる。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.294)
具体例がある。
算数の問題が解けることよりも大切なこと。学校の先生が教えてくれない、とても大切なこと。オトノネではこういうことをお母さんたちに伝えられたらいいのかなとおもう。短期的なお勉強のことしか喋れないなら、学校が出してくる成績のことを気にして、目の前のお遊戯会でうまくやることのために、ただすぐに迫っているなにかの成果のために定期テスト対策をするよりも。本当に大切なこと、教えるべきことをはっきりさせて教えるということが、親の務めだと僕は思う。社会が定期テスト対策を強要してくるのだから。家庭で同じことをしてもしょうがない。定期テスト対策人間になってしまう。
あるとき、息子はお気に入りのテレビバッb組を待っていたが、見たいと思ったときに始まらないので、癇癪を起こした。ブルースはマシュマロ・テストの研究について耳にしたことがあり、子供は自分の気をそらせば、ごちそうを待てるとも聞いていたので、我が子で試してみることにした。そこで、息子をなだめ、もっと気楽に待てる方法がいろいろとあることを教えた。自分で気をそらして、ほかに面白いことを頭の中でやって理、実際にやったりするだけでいい、そのうち番組が始まるからと諭したのだ。すると息子はお気に入りのおもちゃを手にしてテレビのそばから離れ、番組が始まるまで楽しそうに遊んだ。ブルースは、息子がこの経験で基礎をそらす戦略を学習したらしいのを見て、あまりのたやすさに驚き、また喜んだ。息子はその後も自分で気をそらして、ほかの状況でも先延ばしに前より楽に対処し続けたのだった。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.294)
子供の頃にこうしたことを学ばなかったら、大人になってから学ぶことになる。結構時間がかかる。というか、経済的に不安定な場合、「それどころじゃなくなる」。ここで選択肢が生まれる。とにかく経済的に豊かになるようにして(今の日本の仕組みでいえばよりお金儲けをしている会社・組織の上層部に入り)、大人になってから取り組むか。どうか。いやいや、十分に両立できる。子どものチカラは本当にすごい。大人がしっかりしさせすれば。と、僕はおもっているのだが。いかがだろうか。
大丈夫、前頭前皮質は30歳くらいまでは柔らかいです。
ただ学ぶことを助けてくれる人と出会っていなかったら、、、
学ぶべき段階で学ぶべきことを学べない子が多い。
心の準備ができているのに、環境が与えられない場合。教育をされない場合、もちろん心のその部分は育たない。
育つための言葉や振る舞い、人間になるための絶対必要不可欠な他者からんぼフィードバックがなかったら、心は育たない。
教えるべきことはたしかにある。それを僕ははっきりさせたかった。
エリザベスの例からは、子どもが幼いうちに、”自分には選択肢があってそれぞれの選択肢には結果が伴うのだ”と学ぶのを手助けすることがいかに大事であるかがよくわかる。また、ご褒美をうまく利用すれば適切な選択を促せることも一目瞭然だ。何を誤報ウビにすべきかは、親の価値観と何がその子に効くかによる。(略)子どもたちが発達させる自制戦略は、その子が生まれたそのときから、保育者への愛着を経験するなかで方向づけられる。(略)幼い我が子の欲求を敏感に捉え、求め荒れているときに手を差し伸べて力になってやるのと同時に、子供の自立を促せば、みだりに子どもを支配したり、子供の欲求よりも自分の欲求を重視したりする親に比べて、うまくいく可能性が高いだろう。子どもの自立心と責任感をともに高めるために、自ら決められている選択肢があること、それぞれの選択肢には結果が伴うこと(良い選択→良い結果、悪い選択→悪い結果)を幼いうちに子供が認識するのを、私たちは手伝ってやれる。ジョージ・ラミレスを思い出して欲しい。彼はサウス・ブロンクスで過ごした子供時代に荒れた環境で暮らし、自分を見失って途方に暮れていたが、その後、イエール大学に入学して優秀な成績を収めている。本人によれば、「人生を救われ」て新たな道を歩み始めたのは9歳の時だそうだ。そのときに、じぶんの選択とそれにより導かれる結果には因果関係があることを初めて学んだという。KIPPでの初日に、現実に自分には選択肢があること、決めるのは自分であること、その結果に対処するのは自分の責任であることを理解し始めた。ジョージの選択がしかるべき結果を招くように手段を講じるのは教師の責務だった。ジョージが教え込まれたこと、それは友達に噛み付くことに関してエリザベスが幼い息子に教えた、「噛み付くような子はデザートはもらえない」というのと同じ「イフ・ゼン」の教訓に他ならない。ジョージは、耳を傾けようとしない3年生は学習できないこと、「人に礼儀正しく接すれば、相手も礼儀正しく接してくれる」ことを教訓として学んだのだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.296)
親や教師は、子どもの成長のパートナーである。管理者・支配者ではない。代行者では、決してない。
親は、幼い我が子がうまくやっていかれる条件を整えるためにさまざまな力添えができる。たとえばこんな有力な戦略がある。楽しいけれど難しく、しだいに難易度が上がる課題に一緒に取り組むのだ。ピアノを弾く練習をするのでも、積み木やレゴなどで何かを作るのでも、ジャングルジムに登るのでもいい。親にとって難しいのは、子供が必要と感じ、望んでいる手助けをしてやりながらも、子供に自力で取り組ませ、決して課題を引き受けたり代わりにやったりしてはならないという点だ。幼いうちに成功経験を積めば、子供は成功や力量に関して、楽観的で現実に基づいた見通しを持つようになり、自分にとって最後には自ずと満足できるようになる活動を自力で探す心構えを持ったりしやすくなる。(略)私たちは、子どもが不安になったり気落ちしたり逃げ出したりせずに挑戦し続けられるように、ときおり経験する失敗は人生や学びの一部であることを理解して受け入れるように導いてやり、そうした挫折を乗り越える建設的な方法を考えるように励ましてやれる。そして子供に、あとからご褒美をあげると約束した時に、欲求充実の先延ばしを厭わないようになってほしいとおもうなら、子どもとの約束を守るように心がけることだ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.297)
実行機能を鍛えるための、熱烈な目標。これしかない。
この熱烈な目標がウワベ、タテマエの時がある。本気ではない。本音ではない。
目標を首尾よく追求するのには自生のスキルが欠かせないが、私たちに方向性や動機付けを与えてくれるのは、目標そのものだ。目標は、人生に対する満足感の重要な決定要素で、人生の初期に選んだ目標は、私たちが達成するのちの目標と、自分の人生について覚える満足感の両方に、驚くほどの影響を与える。人生の物語を推し進める目標は、どのように形作られたかには関係なく、その目標を達成しようとするときに必要とする実行機能に劣らず重要だ。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.304)
ご褒美をあげるから、こうしましょう。目標を達成したら、ご褒美がある。
こうしましょう。これを続けたら、目標に向かって進み続けたら、毎日ご褒美がある。
どちらがいいだろうか?
日常的に日々、満たされてしまっている子どもは、何か大きなご褒美にしか飛びつけなくなるだろう。
これをしたら、コーラをあげよう。これをしたら、ゲームをしてよい。「ご褒美」が外的である自覚をもって、明確な目標をもって取り組むのがよい。それも子どもとの関わり合いの中で変わってくる。実験。物質的に、満たされ続けているなら、何の意欲も持たなくなるかもしれない。ということは、いつでも注意していいようにおもう。簡単になんでも買い与えていませんか。本当に必要なものは、なんですか。
学校や家庭で教えるべきことと、教えてはならないことがあるように、
特に家庭で。買い与えるべきものと、買い与えてはいけないものの取捨選択をしたほうがいい。
そうした選択の一つ一つが、人間を作り上げる環境であり、自然であり、歴史だ。
磁性に関する研究が発する根本的なメッセージを要約するように言われた時には、私は「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの有名な金言を思い出す。心と脳の時勢についてこれまでにわかったことに基づけば、私たちは彼の主張から、「我思う、ゆえに我自らを変えうる」へと進むことができる。なぜなら、考え方を変えれば、何を感じ、何をし、何になるかを変えられるからだ。もしそれが、「とはいえ、私は本当に変われるのだろうか?」という疑問につながるのであれば、ジョージ・ケリーがセラピーを受けに来た人たちに言った言葉で答えよう。彼らは、自分の人生をコントロールできるようになるだろうかと、彼に執拗に尋ねることがよくあった。すると彼は相手の目をまっすぐ覗き込んで言ったーー「その気がありますか?」と。(『マシュマロテスト』ウォルター・ミシェル p.307)
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