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【間】1歳半と16歳の挑戦!!新しい自分を受け入れる思春期の攻撃性と快楽追求

攻撃的な思春期?

思春期がテーマのおとのねさんが食いついた言葉。

心理学のたいせつなテーマである人間の攻撃性を、一 つは発達の道すじのなかで強くなりやすい段階があるという視点で、もう一つには、それを過剰に強めるかもしれない社会や教育のあり方や具体的な人間関係な どをとらえる視点で、分析していくことが求められます。

発達段階でいうなら、この 二歳に加えて一四歳ころを 中心とする思春期は、攻撃 性のあらわれやすいときと して、今、注目されるとこ ろとなっています。 攻撃性といわれることの 側にも、子どもの願いや訴えがあるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)

 

自分の「命」の使い方がわからない、「心」が擦り切れている、そんな状況で「ひと」は攻撃的になるようです。

 

とても当たり前ですね。

「問題行動」といわれているものもこうした「心」が擦り切れている状態であって、大人がそれを禁止したり無理解にやめさせたりすれば、ただの暴力になります。

2歳の思春期

保母さんがご存じのように、よく噛む子どももいれば、まったく噛まない子どももいます。噛むことが癖になってしまうような子どもも、なかにはいることでしょう。あまりにもよく噛むのは、何が原因なのでしょうか。一人ひとりを観察してみると、いくつかの特徴が見えてきます。まず、いつも心がイライラしているということです。そのために、ちょっとしたことで友だちに噛みついてしまうのでしょう。さらに、いっけん落ち着きのない姿のうらに、強い心の過敏性を感じることがあります。周囲の状況に敏感なのです。友だちをよく噛むので、保母さんは未然に防ぐために、担当を決めて近くに寄り添うことがあります。ところが、そんな他者の心を感じると、いっそう噛んでしまうことがあるのです。噛む子どもたちの多くは、他の子どもたちに比べて、過敏で緊張しやすい心 をもっているのです。

たとえば、梅雨空が続いて、戸外での活動ができないと、ついつい何かを作ったり、書いたりするような活動ばかりになってしまいます。一生懸命積んでいた積木が崩れてしまったときの、子どものイライラした姿を思い起こしてみましょう。手の活動は、子どもに とって、達成感がもちやすいことと裏腹に、うまくできないでイライラしてしまうような、 心の緊張をひきおこす要因にもなります。それはけっして手の活動が悪いということではありません。どんな活動でも、「できた―できない」を感じたり、おとなの関わり方に過剰な緊張を感じたら、同じことになるでしょう。そんなとき、心のなかのストレスを発散する手段として、友だちを噛むことが無意識に出てしまいやすいのです。子どもの攻撃性 は、このようなストレスが背景になりやすいといわれています。だからこそ、子どもの二 四時間を視野に入れて、もう少し緊張が和らぎ、ストレスから解放されるような生活づくりを、たいせつにしたいものです。

さらに、よく噛む子どもたちは、生活のなかで自分でできることの幅が狭かったり、得 意な遊びの幅が狭かったりします。そんな自分の「貧しさ」が、上記のようなイライラや過敏性と関連があるのかもしれません。自分でできる喜びや自分の存在感を実感できる「しごと」などを広げてあげたいものです。自分の価値を先生も友だちも感じてくれているという受容感のなかで、噛むことは自然に減っていくことが多いようです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)

 

第二次思春期

ふともうと、2歳の思春期を迎えられずに第二次思春期に突入している子もいるんじゃないだろうか。。。

さらに身体的な成熟が早まっているこのご時世、子どもは大変な状況にある。

 

快楽追求思考の「外向性」が高ければ、なおさらのこと。

【ビッグファイブ】『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ

 

9歳を超えて、第二次思春期となれば、「性格」が強く固定されている。

「そのようにして生きてきた私」が強く出てくる。

「心」ができてしまっている。

つまるところ、攻撃的な、暴力的な振る舞いに対して「答え」を自分でだしてしまっている。

 

そこで「ギャング」になる子もいる。

そんな「問題行動」だけを見ていたら、せっかくの思春期を無駄に過ごしてしまうだろう。

大人が伝えられることはないのか?

 

子どもの願いとはなんなのか?

大人は、何を願う?

 

「攻撃性」は「刺激の追求」という姿でも現れてくるとおもう

「イライラ」に対する「心」の対処方法。

 

訳も分からぬエネルギーの塊が押し寄せてくる思春期。

そこで「能動的な身体の使用」ができないとしたらなおさら。

 

どうしろっていうの!!!???

と子どもは叫んでいるかもしれない。

いろいろな「あそび」を考えるかもしれない。

「ゲーム」や「ひきこもり」もその葛藤の姿を現していいるかもしれない。

(悪いものではない)

 

そうして自分が葛藤している姿を「言葉」にして現して客観視するような感情知性を小さい頃から育てていくことが、(つまり「心」を大切にすることが)思春期を乗り越えて「命」を強くする、「心」を鍛えていくためには大切なのだろう。

自分らしさを求めて

自分の心をマネージする1歳半

自我の生まれるとき、それが一歳半です。

一歳半ころは、自分で選び自分で決めるという主体、すなわち本当の「自分」がつくられていくときです。しかし、この「自分」は自己主張するだけの自分ではあ りません。一歳半ころは、相手の意図と自分の意図を頭のなかで並べて葛藤しつつ、相手を受け入れていくことが少しずつできるようになるときなのです。しかも、自分の失敗を受けとめて、自分で自分を修正しようとするような力が生まれていくのです。自分で自分を直そうとすることは、一歳児にとっては大きな葛藤であり、心のエネルギーを使うこと なのです。この葛藤がイライラの背景になっているのかもしれません。

このような自分で考え、自分で決め、自分を立ち直らせ、自分を修正しようとする考える主体を自我といいます。自我は、自分ではないもの、つまり他者との葛藤のなかで、たくましくつくられていくものです。この土台のうえに幼児期の発達が展開していくことでしょう。いわば一歳半は、自己決定のためのたいせつな土台づくりのときなのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.107)

 

とある保育園で、一歳のクラスが、本当にひどい状態だったことを思い出した。

子どもたちはポロポロないていた。

大人たちは、歌をうたっていた。

 

第二次思春期の子どもは、どうしているんだろう。

そんな「ひと」のための放課後の保健室☆オトノネです。

積極的自己責任の基礎

思春期でよくある、自己内省。

「なんだ、この命は?」というような問いかけがある。

今でも思い出すのだが、富山東高校の生徒が「好きなことがわからない」「やりたいことが」といっていたこと。

勉強、勉強でその先がないこと、自分の「命」を感じられないことへの不安を表しているように僕はおもう。

喜びの感情、葛藤を乗り越えて成長してきた自分、「よい自分」を見てくれる仲間(オトナを含む)。新しい自分を受け入れられる「間」を、大事にしたい

子どもたちをみていると、このおとなにとって都合のいい存在として期待されている姿に、ずいぶん出会います。おとなにとって都合のいい存在が、子ども本人にとってうれしい存在であるとは限らないでしょう。やがて自分なりの価値観で、自分や世界を見つめようとする年齢になって、「本当の自分らしさ」がわからなくて苦しむことになってしまいます。「自分らしさを探す」ことに成功できればよいのですが、そのむずかしさが思春期の子どもたちを少なからず苦しめています。障害をもっている子どもたちの思春期には、いっそうこの「自分探し」が求められるのです。

新しい自分に出会えたことを、素直に喜べる自分ができているでしょうか。雨上がりの青空の色に、ほっと安心させられている自分がいる。そんな、自分の感じ方に、ふと心がとまって、「わりかしいいじゃん」と自分につぶやける。自分の感じ方や考え方のなかに、「自分らしさ」を発見できるのは、幸せな気持ちになれるときです。そんな「自分らしさ」を感じ、「自分らしく」生きればよいという気持ちになれれば、子どもは、おとなの期待などにもたじろがず、自分の可能性を花開かせることができるでしょう

保育や教育は、子どもの内なる自然、つまり自らの可能性に気づかせ、それを学ばせるしごとでもあります。子どもが自らの可能性に心をときめかせながら、自らをつくり上げていくことへのささやかだが、価値のある指導であり援助なのではないでしょうか。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.219)

 

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