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【5〜7歳】豊かな「まんなか」の世界と学び合いの心

幼児と学童の境目

【5〜7歳】豊かな「まんなか」の世界と学び合いの心

系列化(大中小、「3つ目」の獲得)

「小さい丸からだんだん大きくなるまでを順番にたくさん書いてごらん」という「円の系列化」課題を、与えてみましょう。普通5歳の後半になると、この円の系列化だけではなく、積み木で「だんだん高くなる」階段を作るような「階段再生」課題も、できるようになります。この系列化とともに、「きのう・きょう・あした」のような時間の系列、「近いところ・少し近いところ・もっと遠いところ」などという空間の系列も生まれます。そして、自分自身をそんな系列の中で捉えようとして、次第に成長してきた手応えを、喜びを持って表現するようになるでしょう。たとえば、「おねしょをしなくなった自分」というように。(『発達相談室の窓から』p.59)

 

ところが難治性てんかんを持っている子供たちの中に、この系列化に困難を示す事例が少なからずあります。小さい丸に続けて大きい丸を書いても、三つ目の丸がまた小さい丸になってしまいます。「だんだん大きく」という基準枠を持ち続けて、丸を書くことが難しいのです。このような傾向が続く子どもたちの場合、「二次元可逆操作」の獲得に、先述のような弱さを持っている場合が少なくありません。 (『発達相談室の窓から』p.60)

 

系列化操作のむずかしさ

しげちゃんは、地域の小学校に就学し、高学年で障害児学級が開設さ れると、そこに通うことになりました。低学年の間に、苦手だった人物 画にも胴体から手足が出るようになりました。

しかし、しだいにはっきりしてきた問題として、系列化操作が確実に ならないのです。しげちゃんには、「小さいマルからだんだん大きくな るマルを順番にたくさん書いてごらん」という課題に、たびたびとりく んでもらいました。「だんだん大きくする」という活動が依拠する基準 枠を最後まで忘れず、一つひとつマルをつなげていくことを求める課題 です。これを書けるようになると、「大きい一小さい」だけではなく、 「中くらい」を問うても答えられるようになります。対比的認識を確実 にしたうえに、大でもない小でもない、「もう一つ」の中間の世界を認 識して、「大中小」の関係をとらえる系列的認識が、5歳後半からの特徴 の一つなのです。同じ力として、「きのう・きょう・あした」を認識して、時間の系列が生まれたり、単に「好き・嫌い」ではない、「好きで も嫌いでもない」という多面性をもった認識が可能になっていくのです。 このような力を獲得すると、すじ道を立てて考え一つの全体をつくりあ げるようになるので、伝えたいテーマを意識して文を書く、いわば書き ことばの基礎がつくられてきます。

しげちゃんの「だんだん大きくなる」マルは、いつも次のような表現 になっていました(図1)。つまり、「だんだん大きく」が、とぎれやすく、 まだ「小・大」という「対の世界」に発達が引きずられていたのでした。 (『発達相談室の窓から』p.162)

大中小がある世界

 

大小しかない世界(それでも中を書こうとしいている!)

 

発達が進み、「これは違う」と自分でバツ(✖️)をつけられるようになった。

「中」のある豊かな世界に向けて

さて、その四歳児がやがて迎えることになる五歳とはどんな発達段階なのでしょう。まず、その発達の特徴を、のぞいてみましょう。たとえば、こんなことを子どもにしてもらいました。B4判くらいの紙を与え、「一番小さい丸から、一番大きい丸まで、だんだん 大きくなるように、順番にたくさん書いてね」と言うのです。 四歳では、一つ目は小さく、一つ目は大きく書けたとしても、きっと、三つ目は、また小さくなってしまうでしょう。そこで気がついたように、また大きい丸を書きますが、しかし、もっと大きい丸を書くことはできません。基本的には、「小さい―大きい」という、対の世界で生きており、二つを一つの単位として、考えることはできます。しかし、その「小さい大きい」という二つの関係を頭に入れて、もっと大きいという「もう一つ」をつなげて、三つで一つの単位をつくることがむずかしいのでしょう。

さて、五歳になったらどうでしょう。五歳前半では、おそらく、はじめの最初の数個の 丸はだんだん大きくすることができるでしょう。しかし、やがて小さくなってしまうという「崩れ」をみせます。その崩れから立ち直るように、再び大きくかけますが、また小さく崩れてしまうでしょう。つまり、三つ目を視野に入れて、だんだん大きくすることはできるのですが、その力は生まれたばかりで、最後まで続けて発揮することができないのです。このとき、「一番小さい丸」、「中くらいの丸」、「一番大きい丸」はどれですかと問うと、「一番大きい丸」が「一番小さい丸」の隣になってしまい、「中くらいの丸」は動揺して答えられないことがあります。まだ、全体を見渡し、そのなかでのそれぞれの関係をわかる力にはなっていないのです。しかし、「どこか失敗したところはないかな? よく見て考えてね」と言えば、表現の崩れがわかって、もう一度やり直してくれるたいせつな変化が見られます。つまり、自らの表現を見つめるきっかけを与えれば、自分を修正する力こんなところに、「発達の最近接領域」のあらわれが あります。が育ってきているということです。

それが、五歳後半になると、「だんだん大きく」が紙の余白がなくなるまで表現でき、最初から最後まで、だんだん大きくすることができるようになります。そして、「一番小さい丸」、「一番大きい丸」の問いにも正しく両端の丸を示し、そして「中くらいの丸」の問いにも、端から端まで見渡した後で、ちょうど適当な大きさの丸を、さしてくれること でしょう。

「四歳までの「小さい!大きい」という二つの関係しかない一分的な思考から卒業し、「小」にも、「一番小さい小」、「少し小さい小」、「大」にも、「一番大きい大」、「少し大き い大」など、さまざまな「小」や「大」があることをわかります。そして、そのなかには、 「小」とも「大」ともいえない、「中くらい」の世界があることをわかるようになっている のです。このように、それまでの二分的ともいえる思考のなかに、あいだをとらえる思考ができるようになり、「だんだん大きく」や「上・中・大」などの三つ以上の単位をもった認識と思考ができることを、系列化といいます。後で述べますが、系列化は、「だんだ ん」や「中くらい」がわかるような力であるとともに、自分の活動を見つめながら、「だ んだん」調整・修正する力にもなっていきます。

このような「小」でも「大」でもない「中くらい」の世界がわかるようになると、「おかあさん好きか?」と問えば四歳児らしい元気さで、「嫌い嫌い大嫌い!」などといっていた子どもたちが、「好きなときもあるけどなあ、ときどき嫌いになる、どんなときだと思う?」などと応えたり、「おとうさん好きか、それともおかあさん好きか?」と問えば、正直に応えていたのが、「まあ、それはむずかしい質問やな」などと、口を濁すようにな るのです。また、赤と白の水彩絵具を混ぜると、きれいなピンクができること、青と白を混ぜると、さまざまな空色ができることに感動し、パステルカラーや色彩のニュアンスに、感性が広がる発達段階でもあります。

人間の記憶は、およそ四歳ころから、おとなまで残るものがつくられていくといいます が、その時期は、「○○へ行った」「○○に乗った」などという具体的な経験の断片的な記 憶にとどまっていることでしょう。しかし、この「中くらい」がわかり、「中くらい」のニュアンスに開かれた感性をもつと、「はじめて見た海に沈む夕陽」の色などに心奪われ、しばし見入るような、新しい自然への感動が、記憶としてとどまるようになるのです

「中くらい」がわかるようになると、さまざまな点で子どもの世界は豊かになっていきます。

まず、時間の世界でも、四歳では「きのう」や「あした」ということばをつかっても、 それが先週のことであったり、数日先のことであったりしたのですが、この時期から「きのう」・「きょう」・「あした」が、ほぼ正確に使え、さらに、「朝」・「昼」・「夜」、「去年」・ 「今年」・「来年」なども、大まかにわかりはじめます。このような時間の流れをとらえる ことができると、自分の「去年」(年中組時代)、「来年」(小学校一年生)などという自分 の過去と未来を考える力にもなり、「去年はオネショしてたのに、今年はしなくなったな」、「去年は遅刻すると泣いてたのに、今年はぜんぜん泣かない」などと、自分の成長を喜び、おとなにも誇るようになるのです

また、空間の世界においても、四歳までなら、「一番遠いところ」は、「おばあちゃんが 旅行に行ったハワイ」などというように、自分の経験のなかでの認識であったのに、この時期になると、「もっと遠いアメリカがある」などと、客観的な認識をもっていることを 相手に誇るようになるでしょう。このような空間の認識ができるようになるので、太陽が 沈む山の向こう、空の上の宇宙、地面のなかの基地など、地上のものではないものへ、強い興味をもつようになります。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.176)

 

他者を自己に「上手に」取り入れる、ギャングエイジ!

思春期の子どもといえば、仲間でつるむ、ギャング!

小学校低学年以降は「お母さん」よりも「友達」の影響が強くなる。

5歳、6歳から「友達」とうまく関係をつくる「心」ができているなら、学校でサバイバルすることもできるかもしれない!

 

さて、このような親とでもない、家族とでもない、家庭でもない、園でもない、友だちだけの世界を、「第三の世界」ということがあります。

「第三の世界」をつくりはじめた子どもたちも、相変わらずケンカがたえません。給食の片づけ当番が終わったら、保育園のホールにいるアカチャン(乳児)たちと遊んでいいといわれたのに、その約束を守らないで、先に遊びにいってしまった同じ班のあけみちゃんに、ゆきちゃんが泣いて抗議しています。自分の遊びたいアカチャンが、先にとられてしまったのです。そのいざこざを見ていた他の班の友だちが、ゆきちゃんのところにやっ てきて、「どうして泣いているの」とやさしく問いかけます。「だって、給食の後片づけし ないで、あけみちゃんがアカチャンところにいったから、ずるいっていってるの」と涙の訴えです。今度は友だちは、あけみちゃんのところにいって、それをそのまま代弁してく れます。あけみちゃんは、「だって、ゆきちゃんだって、この前、全部片づけないでアカ チャンと遊んだし、私だって、早く遊びたかったんだもん」と、応えました。友だちは、ゆきちゃんのところにもどって、あけみちゃんの主張を伝えつつ、「一回ずつずるかったんだから、引き分け。だから、今度は、いっしょに当番を終わって、いっしょにアカチャンのところに行くって約束しようよ」と、仲裁の弁を考えだすのです。ゆきちゃんが、「あけみちゃんが、約束を守るっていわなかったら、わたしいや」と応えれば、あけみちゃんのところにいって、「あけみちゃんが、今度はいっしょに行くって約束したら、仲直りしてもいいっていってるよ」と、あけみちゃんの前向きなことばを引き出せるように、語りかけるのです。

友だちと友だちのあいだに立ち、それぞれの考えを聞きながら仲裁しようとしてくれる、そんな力をもちはじめるのも、五、六歳の子どもたちです。大でもない、小でもない、中くらいをとらえることができるようになるのとときを同じくして、このように一つの考え力のあいだをとり、それぞれを調整しようとするような考え方ができるようになるのです。順番の約束を守らないで、おもちゃを先取りしてしまったことを先生から叱られたときにも、「だって…」といいつつ、じっと押し黙って、自分の言い分を探そうとするのです。

しかし、自分に非があることは、どうやっても否定できません。その「だって…」ということばを、今度は飲み込むようにして、友だちから奪ってしまったおもちゃを、しぶしぶでも返しにいくことでしょう。相手の言い分と自分の言い分、あるいは、約束ごとと自分の行動を頭のなかで並べてみて、どちらが正しいかを考え、自らの非を直すことができはじめるようになっていくのです

このように、客観的に考えることができはじめるとき、「だって…」といいつつ、押し 黙ってしまうような、時間的な間が必要なのです。それは、相手の言い分を理解し、受け入れていくために、そして、自分の非を認め、自分の言い分をふところにしまうために、なくてはならない時間なのでしょう。おとなは、この時間的な間のたいせつさがなかなか わかりません。だから、それまでと同様に、「あんたはいつまでたっても、そんなわがままばかり言って」とお決まりの叱りことばを、かけてしまうのです。そういわれると、せっかくの前向きな子どもの心が、急になえてしまうでしょう。

私の大好きだった先生は、口癖のように「よーく考えてごらん」と言いつつ、けっして、頭から「良い悪い」を言いませんでした。この何度も聞かされた「よーく考えてごらん」 ということばこそ、五、六歳の子どもたちの前向きな心の葛藤を、信頼してくれていた先生の姿勢のあらわれだったのだと、最近になって思えるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.197)

 

思い出したことがある。

東京で「美術の時間」をとりいれている素敵な保育園がある。

そこで「友達の心配」を僕に話してくれた子がいた。

富山の保育園では、そんな子にまだ、出会っていない。

(高校で一人だけ出会った!)

「仲間」との学び合い

今年(一九九八年)の冬、わが家のある山梨県もかつてない大雪で、私は、近所の友人たちと子どもの心にかえって、はじめて「かまくら」づくりに挑戦したのです。穴掘りのむずかしかったこと。 札幌の小さな子どもたちの姿が、うらやましく思い出されたのです。「シャベルをそっと、ゆっくり、横に動かしてね。そうしないと、天井が落ちてくるかもしれないからね。雪がたまったら、外に出さないと、だんだん穴のなかが、雪でいっぱいになっちゃうよ。みんなで少しずつがんばればいいんだから。そうしたら少しずつでも、毎日たくさん掘れるからね」などと友だちに語りかけ、自分の会得したコツを、次の穴掘り役の友だちに、本当に懇切ていねいに、伝えようとしていたのです。すじ道立てて考え、表現することができるようになったからこそ、はじめはへただったけれど、しだいにじょうずになってきた自分がわかるのです。そのなかで、「こうすれば もっとじょうずにできる」という自分なりのコツを、会得することができるのでしょう。 そして、一つの目標を共有しあって、がんばることの喜びを知りはじめているからこそ、 自分ががんばるだけではなく、同じように友だちにも、じょうずにがんばってほしいので す。そうすれば、きっと立派な「かまくら」ができあがっていくだろうと、友だちに思いを託す真剣な姿がそこにはあります。友だちに教えることをしながら、友だちには友だちの感じ方や得手不得手があることにも気づき、相手にわかりやすく教えることのむずかしさも、感じはじめることでしょう。そんななかで、相手の立場にたって考えることのたいせつさを、しだいに身につけていくのです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.208)

小学校にいったら、孤立化させられる子どもたち。

面食らうにちがいない。

 

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