【2歳3歳のイヤイヤ期】と魔の二歳児と見通す能力・だだこね・あこがれ
2歳から4歳頃に起こる変化。
「イヤ」という言葉、「イヤ」という振る舞いの背景はなんだろう。
「イヤ」という言葉を喋ると、大人の反応が変わって面白い。
ということもあるだろう。
ただ、子どもが獲得しようとしている新しい能力に、子ども自身が困っているのだと僕は思う。
挑戦したい心が大きくなった。
今までやってもらっていたけど、自分でやりたいから「イヤ」ということもある。
「もう子どもじゃないんだから!」という気持ちで、大人たちに接し方を変えて欲しいという抗議かもしれない。
むずかしいけど、ゆっくりやりたいんだ。
今までとは違ったことをしてみたいんだ。
今色々頭の中が忙しいんだ。
「イヤ」という言葉、振る舞いに隠れている何かを大事にしたい。
「他の言葉を知らないから、とりあえずイヤと言ってみよう。その言葉しか知らないから・・・」
子どもは何がイヤなのか、どうしたいのか、自分でもわからないかもしれない。
時間をかけて、子どもが自分で気持ちを整理するのを助けてあげよう。
「そうかぁ、イヤなんだなぁ」
まず目線を合わせてみる。
「自分でする?」
「ここで待っていようか?」
「こっちにする?それともこっちにする?」
選択肢を提案するのもいいだろう。
「どうしたい?」と聞いたら、もっと困らせてしまうだろうか。
今自分がどんな状態かもわかっていないのだろうか。
自分は今泣いているのか、怒っているのか、途方に暮れているのか。。。
例えばスーパーでイヤイヤになったら。。
もしかしたら、買い物で疲れているのかもしれない。
「もうおうちに帰りたいよ!」かもしれない。
もし道端で急に「イヤ」になったとしたら?
この後、歯医者に行くことがわかっているのかもしれない!
大人は、さぁ、どうする?
イヤイヤ期が問題だとすれば、子どもの問題ではなく、大人の問題。
イライラしてしまっていないか。
イライラしても誰も助からない!
そんな時はこう言って泣いてしまうのも。
「◯◯ちゃんが困っていて、私も困ったわぁ」
今までできなかったことができるようになったワクワク。
けどそれをやっていいのか怒られるのかわからないドキドキ。
「ちょっと待って!今、クールダウンしたいんだ!」と言いたいのかもしれない。
大人だって、自分に「イヤイヤ」をするぢゃないか!
自分の心の「イヤイヤ」にも、耳を澄ませてみよう。
新しい認知能力としての見通す力
比べる能力と不安(引っ込み思案)
「どちらが大きい丸ですか」と聞くと大きい丸を指さすのは2歳の中頃から
「1つ」と「もう1つ」の認識が「1つ」「2つ」にもなる。「一つは大きい」「もう1つは小さい」にもなる。
我慢する?
比べることばが理解できるようになると、友だちの力を感じはじめ、ついつい自分の力が出せなくなってしまったりします。また、保母さんが用意してくれた遊びが自分にとって、得意か苦手かをあらかじめ感じはじめ、じょうずにできないと、それが苦手意識として子どものなかに固まってくるのです。
実は、この時期から四歳にかけての心の葛藤が、指すい、儀式的なこだわり、吃音、自家中毒症、チックなどの、おとなが気になる「くせ」の背景にあるといわれています。指すいが、あたかも親の愛情不足の結果のようにいわれることがあります。これは根拠に乏しい見方であり、おとなが本当に理解しなければならないことから遠ざかる結果になってしまいます。このような「わかっちゃいるけど、やめられない」くせの多くは、子どもの前向きな発達の願いと、でもそうなれない葛藤、悩みを映し出しているのです。それは、「大きい自分になりたい」葛藤と呼んでもよいでしょう。
そんなとき、指すいを叱ったり、指すいしている自分を自覚させるような直接的な指導やことばかけでは、指すいを本当にやめさせることはできません。背景に横たわる葛藤を子どもが自分でのりこえていったときに、いつのまにか消えていくのが、この時期の「くせ」なのです。ここでも、遠い見通しでの指導が必要になります。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.136)
行動のつながり(「〇〇してから〇〇する」)と見通す能力
しかし、 既に述べたような思考の内面化が遅れる発達のずれを残したままだと、言語の獲得だけではなく、自分で考えて生活の見通しを持ったり、自分で考えて書いたり作ったりすることに、弱さを残すことがあります。特に、この発達段階は、例えば積み木で縦と横の軸を組み合わせて「トラック」をつくったり、縦線と横線の組み合わせで「十字」を描くことができるときですが、そのような表現の基本単位がなかなか獲得されません。つまり、「〇〇してから〇〇する」という思考が難しいのです。(『発達相談室の窓から』p.54)
子どもにとっての身辺自立は、自分でできる喜びを味わいたいという 願いとともに、次の楽しいことのためにがんばろうとする見通しの力を ともなっています。楽しい散歩があるから、自分で靴を出そうとするし、 やがて自分で履こうとするようになるでしょう。楽しい給食があるから、 自分で椅子を出そうとしたり、エプロンを首からかぶろうとするでしょ う。楽しいことと結びついて、ひとつひとつの生活の力は子どもによっ て獲得されていくのです。言い方をかえるなら、靴の向こうに散歩が見 え、エプロンの向こうに給食が見えるようになるのです。身辺自立が良 き見通しの力と結びつきはじめているのです。この力は、やがて幼児期 の発達の世界において、とてもたいせつな役割を演じるようになります。 それは、「○○してから○○する」という見通しの力に発展し、そして 目前にないことをイメージする力にも結びついていくのです。(白石正久『発達の扉(上)』p.109)
意図的な模倣
トラックと家の課題:他者の意図を受け入れ、自分で「つなげて」再構成する。
逆丸の課題:子どもが書いた方向とは逆の方向に丸を描くように伝える。試験者が見せて、真似をしてもらう。
2歳のイヤイヤ!?ウハウハ!?「イヤ」の裏側にある「心」
二、三歳の子どもたちは、おなかが空いているはずなのに、「ごはんだよ」といえば、 「イヤ! いらない」といいます。大好きな散歩のはずなのに、「イヤ! 行かない」とい います。なんで「イヤ」ばかりいいたいのでしょうか。そして、どうしたらいいのでしょ うか。
実は、「イヤ」の裏には、二、三歳の子どもたちの新しい発達への願いが隠されている のです。第7章で述べたように、二、三歳は、「大きい―小さい」などの比べることばの 認識が、獲得されていくときでした。比べるのは、ことばの認識にとどまってはいません。 それは、小さい自分ではない、大きい自分を求める願いにも発展することでしょう。だか ら、一歳児クラスの子どもたちをみていると、同じクラスの少し小さい友だちの着替えを 手伝ってあげようとしたり、手を引いてリズムの輪のなかに誘うこともみられるのではな いでしょうか。さらに、「あかちゃんクラス」の子どもたちのことが気になったり、自分のことを「ひよこぐみじゃない!」などと、強調したくなるのです。そこには、大きい自 分になりたい願いと、大きい自分を認めてほしい願いが溢れています。それは「おにいちゃんになりたい」「おねえちゃんになりたい」願いといってもよいでしょう。
「大きい自分になりたい」願いをもっている子どもは、自分より大きい存在として、「ご はん食べなさい」などと指示してくるおとなの姿勢が受け入れられないのでしょう。そし て、願い通り大きい自分になれたらいいのですが、まだ自分ではできないことがいっぱい あり、おにいちゃん、おねえちゃんとしては、まだまだ認めてもらえない存在なのです。 「イヤ」は、子どもが小さい自分から大きい自分に生まれかわろうと願っているのに、現実にはそうなれないで葛藤している心のあらわれれといってもよいのではないでしょうか。
この葛藤は、「大きい自分」を実感し、そして他者からもそれが認めてもらえることを 積み重ねながら、しだいにのりこえていくものです。だからこそ、集団のなかで「おにいちゃん」「おねえちゃん」としての自分を実感できる場面がたいせつです。そう考えると 保育園は、いながらにして「大きい自分」を実感し、発揮できるすばらしい舞台にみえてくるでしょう。 「大きい自分」になれる集団や活動の保障は、葛藤をのりこえるための支えを子どもの 心のなかにつくるための、長い見通しでの指導といってよいでしょう。指導には、その場面でその子どもをどう指導するかという、短い時間の単位のなかでのものと、このように 長い見通しでの指導のたい せつさ。子どもの未来に長 い見通しをもてるために、 私たちは発達を学びます。
長い見通しのなかで、一歩一歩目標に近づいていく、長い時間の単位のなかでのものがあ るのです。往々にして、この長い時間の単位での指導のたいせつさを私たちは見失うこと があります。 そうはいっても、「イヤ」にどう対応するかは、そのときそのときで考えなくてはなりません。「イヤ」に正面から立ち向かっても、子どもはおとなの願いを受け入れてはくれないでしょう。子どもは自分のことを「大きい」存在として認めてもらえるかどうか、おとなの心に疑心暗鬼なのです。いわば「イヤ」という電波を発して、おとながどう反応するかをみているのです。だから子どもの「イヤ」を頭から否定してはならないでしょう。
しかし、「イヤ」を受け入れるだけでは、子どもの本当の願いを理解することにはなりま せん。子どもが自分で納得して、その「イヤ」をふところにしまいこめるだけの時間的な 余裕や、子どもにとっての「きっかけ」が必要なのではないでしょうか。たとえば、「じゃあ、ごはん食べる前におかあさんに、じょうずな○○みせてくれるかな」と、「大きい 自分」が発揮できる舞台を用意してみましょう。このことばは、けっして子どもをだまそ うとするものではありません。子どもの大きくなりたい願いがわかり、それを尊重できる おとなの心を伝えるのです。「大きい自分」が表現できるときに、子どもは他者を受け入れる心の窓を、少し大きく開いてくれるはずです。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.127)
【1歳半・2歳・3歳の思春期】だだこねの心、あこがれ『子どものねがい・子どものなやみ』
『発達の扉 子どもの発達の道すじ』
『障害の重い子どもの発達診断』
『子どものねがい・子どものなやみ―乳幼児の発達と子育て』
『発達相談室の窓から―障害児医療と発達相談』
「自分でしたい!」という気持ちは、大きくなっていく、成長する、強くなる自分の「命」への願いです。
一歳半の「思春期」
「二分的世界」の不安という与えられた試練をのりこえることによって、子どもは新しい主人公に生まれかわっていきます。それが、この「指さしの主人公」によって代表される姿です。主人公への生まれかわりの姿は、指さしだけではありません。それまで、口ま で運んでもらい、食べさせてもらっていたごはんも、わざわざ自分の手で口から出し、目で確かめてから、食べ直そうとするでしょう。そして、オムツを換えてもらうことも、オマルにかけさせられることも、抵抗しようとするでしょう。さらに、食べこぼしたごはんをお皿の中へ戻してあげただけで、子どもは怒りだします。なぜでしょう。
それは、受け身がいやなのです。「される」ことを嫌い、自分でしたくなるのです。ま さに「自分でしたい」という「自分」が生まれてきているのです。「生活の主人公」への 生まれかわりというべき姿でしょう。
この主人公への生まれかわりは、生後一○か月ごろからはじまります。ちょうどこのこ ろは、入れ物や引き出しから、物を出す一方だった手の活動が、手に持った物を器に入れ たり、相手に渡したりできるようになっていきます。この入れる・渡す力によって、子ど もは大好きなおとなの口に食べものを入れてくれたり、手に持ったラッパをおとなにさし 出してくれたりするでしょう。まさに、人間関係においても、自分が主人公として振る舞 うようになるのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.71)
一歳半の発達の質的転換期は、何でも自分で挑戦してみたい子どもの発達の願いの高まりにまかせて、その挑戦を応援していくことがたいせつな発達段階なのです。挑戦には失敗がつきものですが、失敗しなければ失敗から学んで自分の活動を修正していくこともで きないし、失敗を恐れず挑戦する勇気も、子どものなかに育たないのではないでしょうか。 ときどき、子どもよりもおとなの方が、子どもの失敗を恐れていることがあります。子どもの失敗を恐れない親や指導者の姿勢が、実は子どもの勇気を支え、子どもをたくましく育てるために、肝心要なものだと思います。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.101)
子どもに無用な挫折感を与 えないということを前提と して、失敗から学ぶことの たいせつさを認識したいものです。
憧れの心を能動的身体の使用で強くする「センス・オブ・ワンダー」
この「センス・オブ・ワンダー」ということばを、私は「なにごとも不思議と思う心」と訳したいと思っています。この心が、人さし指の先から世界を知り始めた子どもに宿っているのです。願わくは、子どもたちの「いいもの探しのまなざし」をいつでも輝かせて くれる世界を残したいと思います。都会の子どもたちは、いいもの探しをしようと思って も、その心にかなうのは、清涼飲料水などの自動販売機ばかりでしょう。それでも春になると、家さきのプランターにかわいらしい花がたくさん咲いています。しかし、その花はあまりにも存在感がありすぎます。子どもたちは、アスファルトの間からやっとの思いで芽を出したタンポポの方に、そのまなざしを向けるのではありませんか。小さな子どもたちは、本当の自然やその生命力を感じ取る力をもっているようです。そんな子どもの本性に出会ったなら、私たちは、わずかに残された自然を子どもたちのために残すことのたいせつさを、自覚することができるでしょう。
子どもが、人さし指で、その発見の喜びを伝えてくれるとき、おとなは無言では通りすぎません。「わあ、赤い赤いお花ね」「ワンワン、うふぁうふぁ怒っているね」などなど、子どもの目の高さで、子どもと同じことを感じ取り、そして子どもの心のことばを聞き取る自然な心を、おとなももっているはずです。この「ともに感じる」共感の世界のなかで、子どもは確実に人間としての感情を育てていくのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.76)
「いいもの探しの行進」は、一人ぼっちの散歩ではありません。一人の子どもが感動した事物は、他の友だちにとっても光輝いて見えるのです。友だちの見つけたものだから、いっそうすばらしく見えるのでしょう。それは、憧れと呼ぶべきたいせつな心のはたらき、あなた、なにを見つけたのです。憧れの心は、「あなたと同じものがほしいわ」からはじまって、「あなたと同じことしたいわ」になり、やがては「あなたと同じような人になりたいわ」という願いに発展していくことでしょう。
もちろん、子どもの人格は、自分の外にあるものを憧れによって吸収するだけで、つくられていくのではありません。それでも憧れの心こそ、外の世界にあるものを、自分のなかに吸収していくための、一番大きなエネルギーではないでしょうか。憧れの心は、「いいもの探し」で互いの発見の感動を共有し合うなかで、いっそう確かになっていくのです。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.78)
喜びを分かち合いたい1歳半
生活の主人公になって、どんどん新しいことに挑戦しできるようになるこの時期。
「イヤイヤ期」といった悪い印象があるかもしれませんが・・・・
自分でできる喜びを味わいたい、一緒に喜びたい心を大切にすることが、もっともっと大切なことです。
子どもは、おもちゃを籠に一つ片づけたら、必ずおとなと目を合わせて、その「しごと」の喜びを分かち合おうとするでしょう。このような相手と交わす共感のまなざしの回数は、 一歳三か月から六か月ごろが一番多いのです。そのまなざしの多さに、たいせつな子ども にとっての意味、つまり子どもの願いが隠されています。なにより自分でできる喜びを味わいたいし、そして、相手もいっしょに喜んでほしいのです。そのまなざしには、いっしょに喜んでくれるであろう相手の心への期待が、満ち溢れています。だから、「じょうず にお片づけしてくれてありがとう、じゃあ、ぜんぶ片づけようね」「じょうずに一つお靴履けたね、もう一つも履こうね」と、願いがかなった喜びを受けとめることからはじめましょう。「子どもの心に寄り添う」とは、まず子どもの願いの世界に入り、その願いを理解することからはじまります。そして、その願いのたいせつさをおとなも理解できるなら、 それがかなうようにいっしょにがんばることであり、そして、願いがかなったことを、わ がこととしていっしょに喜び合えるような自然な関係のことではないでしょうか。
このような寄り添う共感があることによって、子どものなかには「もっとがんばってみ よう」とする「心のバネ」がつくられていきます。なにごとにおいても、「できたーできない」という結果だけがたいせつなのではなく、「できた」ことが子どもの心のなかに、 新しい変化を生んでいることがたいせつなのです。その「心のバネ」によって、子どもは 自分の力で新しいことに挑戦し、自分を豊かにしていくことができるのですから。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.83)
行動の切り替え(「○○ではない○○だ」)と「2つ」の物に関わる能力
二つの器を用意して、「どちらにも同じに入れてね」と促すと、一歳前半では最初に入れた器に全部入れてしまわないと気が済まない反応ばかりなのに、一歳中頃になると、他方にも入れようとするような「入れわけ」をするようになります。しかし、このような入れ分けをするまでのプロセスが大切で、一方に全部を入れようと頑張りつつ、その器に入りきらないと他方の器に視線を移したり、他方の器に全部入れ替えようとするような、子供なりの試行錯誤を見せます。つまり、うまくいかないという失敗の中から、自分なりに考えて行動を切り換えようとするのです。このような試行錯誤を繰り返しつつ、失敗する前に考えて「○○ではない○○だ」と活動切り換えられるようになるのが、対象を操作しつつ思考が内面化していく一歳半の発達の質的転換期の大切な特徴といってよいでしょう。(『発達相談室の窓から』p.51)
砂を一つの器からもう一つの器に入れ替える。一歳半には試行錯誤しながら「入れ分ける」ことができる。袖を片方に通したら、「もう片方」も入れようとする。←もう一つに意識を向ける「間」を大切に!
ある方法がだめなら、次、どうするか?
自分の思惑と、相手の要求があるとき、どうするか?
積み木を高く積む課題:「積みきる」ことへの欲求。失敗してからの「立ち直り」(心のバネ)。「○○ではない○○だ」という思考の内面化。積みきったあとの「次はどうしいよう」という次なる活動の意図を産む。(失敗してももう一度挑戦しようとするかをみる)靴を履く、服を着る・・・生活は挑戦の連続!!!
「見る側」から「見られる側」へ
自分のやっていることをみてもらう
「絵指示」課題で「反対の目は?」に答えられる。(他者の質問の意図に答えられる)
8個の積木を机上の標準点に提示し、「高い高いしてね」などと言いながら、 積木を積むことを促す。1歳3か月頃までは、積むことに達成感があり、一つ積 んでは、また他の積木にも同じように積むような2個の積木の塔を並列させて いくことが多い。これは、積むという「定位的活動」に達成感を覚えている姿 だろう。そのときに子どもは、積木を提示した他者に積んだ事実を伝えようとまなざしを送る。検査者は、それに応えて「上手だね」などと賞賛するだろう。 そのような関係によって生じた達成感を基盤として、子どもは一つだけではない「もっとたくさん」の積木を積み上げようとする。
しかし、検査用の積木は一辺が 2.5cmであり、容易には積み上げることがで きない。途中で崩れてしまうことも経験する。子どもは積むことを躊躇したりす るが、言葉かけや積木を手渡されることによって励まされて、挑戦を再開する だろう。自らの能力を見極めるように、ある程度の個数で中断して、別の場所 に積み上げようとすることもある。子どもなりに自らの能力を感じ取っているよ うだ。しかし、すべての積木を「積み切る」ことへの要求は確かであり、検査 者や近くにいる家族などと視線を交わし、激励や承認を求め、それを契機にして、 さらなる挑戦を続ける。
1歳半頃は、この「積み切る」要求が確かになるときであり、それゆえに積 み切れた喜びは大きいものがある。失敗やそこで生じた躊躇の感情に負けない で、自分の感情と操作を対象化して調整を試みようとするのだ。この「立ち直り」 をつかさどる主体こそ、1歳半の発達の質的転換期に芽生え、強くなっていく自 我の働きの一つの側面である。このとき、「どこから積み始めようか」というよ うに、最初の1個の積木を自分で選択するようになる。この始点の自己決定を「自 己領域の決定」と称することにする。
1歳後半になると、積み上げる過程での他者との視線の交流は少なくなり、積 み切ったときにはじめて「ほら、積めたでしょ」と伝えようとするまなざしを向 けてくる。子どもが、他者の激励や承認に依存せず、自らの意図で積み切ろう とするようになったからだろう。その意図に導かれるように、積んでいるとき には崩れないように積木の向きを調整したり、他方の手を添えたりする。また、 右にある積木は右手で、左にある積木は左手で取って積もうとするだろう。そ れは、状況に応じて手を使い分けようとする姿であり、「○○ではない口口だ」 という「1次元可逆操作」が思考として内面化している。換言すれば、表象のレベルでの選択性の始まりでもある。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.65)
1歳前半の発達段階におい て子どもは、「定位的活動」で最初に行った経験的な事実を守ろうとする要求が ある。その一方で、それをやりきったとき、あるいはうまくいかなかったときに、 他方に「転じる」こともできるようになる。日常生活においても、母親がショッ ピングバッグを手にすれば、外に連れて行ってもらえるというような一対一対 応の認知をするが、いつでも連れて行ってもらえるわけではないという現実に 出会って、「外に行くのではない○○なのだ」という転換を学んでいく。このよ うに「転じる」ことへの抵抗は、必然的に「転じる」ことを招来し、そこから「○○ではない□□だ」というような内面化した思考が可能になっていく。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.72)
自分で片付けをする子どもの心は?
このような積み切ったという子どもの意図の達成は、「次はどうしよう」とい うような、次なる活動の意図を生むことになる。そうやって活動は単位を形成し、 新しい単位へとつながっていく。
子どもが自らの意図で「積み切る」ことに挑戦するのは、「第三者」たる検査 者との共感、激励、承認などの関係があればこそだ。そこには、子どもの主体 的な「定位的活動」を喜びをもって受けとめ、意味づけ、価値づけていく働き かけがある。自閉的な傾向のある子どもの場合、このような共感的な関係が創 りにくいことに障害の一つの特徴が表れているが、大人の側も子どもの意図の 達成としての定位的活動を「受けとめる」関わりが乏しくなることもある。
生後 10 か月頃の「示性数3形成期」から、「入れる」「渡す」「載せる」「指さす」 などの「定位的活動」が拡大していくが、それによって他者の受容的、共感的 な関わりも自然に拡大していく。まさに「主客の転倒」によって子どもは、自 らの世界の共有者として大人を引き込もうとする。子どもは、他者の共感や意 味づけに対する期待があってこそ、「定位的活動」を試みるのだが、自閉的な傾 向のある子どもには、そのような感情は確認されにくく、他者とりわけ「第三者」 に対して、あるいは「第三者」を意識して、自発的な「定位的活動」を行うこ とはまれである。
そのような発達状況にあっても、自ら運んで行って他者に手渡したり、籠から出して遊んでいた遊具を自発的に片づけたりすることがある。それらの「定位的活動」に心からの共感や意味づけを行えるかという大人のあり方が問われている。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.68)
「だだこね」自分で決めたい心
心のなかに意図、あるいは目的が生まれるのは、生後10か月ころの 「主人公になりたい心」が生まれるときです。このときは、一定のこと ばの理解ができるようになるので、相手の意図をことばで理解すること ができるようになるときでもあります。しかし、相手の意図に従うので はなくて、主人公になるために、あくまで自分の意図を通そうとするこ とでしょう。1歳半ころの発達の質的転換期において、心のなかに対ができると、対の一方に自分の意図を置き、他方に相手の意図を置くよう になります。つまり、心のなかで自分の意図と相手の意図を並べてとら えることができるようになったのです。そして、相手の意図にたいして、 いっそう自分の意図を強く主張するようになります。自分の意図が相手 に受け入れられないときには、「だだこね」というからだで表現する 「ことばの前のことば」を使って、自己主張することでしょう。しかし、 たいせつなことは、自分の意図を通そうとするだけではないということ です。相手の意図を受け入れていかなければならないという思いはある のです。だから、「ダメって言ったら、ダメなの!」と、おとなが自分 の意図を通そうとすれば、子どもはいっそう強く自己主張するでしょう が、子どもには必ず立ち直りのきっかけを探す姿がみられるようになる はずです。その自分からの立ち直りを見守り、「それじゃあ、いっしょ にお散歩行こうか」などと立ち直りのきっかけを与えてあげる役割をお となが果たせるなら、子どももいつまでも「だだこね」にこだわること はないはずです。(白石正久『発達の扉(上)』p.126)
コメント