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第5回:「暴力」との付き合い方ー 「学習の回路」を守る「心」

安冨歩 「知」の棚

安富歩『複雑さを生きる』『生きる技法』:暴力から命を守る

第5回:「暴力」との付き合い方ー「学習の回路」を守る「心」

暴力を排除する必要性

「暴力」の排除

ヴィットゲンシュタインに倣ってこのように考えると、「では、経済について意味のある議論とは何か」という問いを自分自身に突きつけることになる。この深刻な問いに直面して私は、ポラニーの「暗黙の次元」という概念を基礎に据えるべきだ、という考えに至った。私はこの方向の上に、経済についての意味のある議論を展開できると考える。端的に言えば、
神秘によって支えられた「生きる」ということの実現が、「価値」を生成する
と考えるのである。この場合、価値がどこから来るか、価値とは何か、について語ることは無意味である。なぜならヴィットゲンシュタインの言うように、それは世界の外にあるのだから。そいれゆえ、我々と世界とに与えられている価値を生成する神秘の力は、それをありがたく受け入れれば良い。そしてその発揮を阻害し、あるいは破壊するものについて語るべきだとかんがえる 。なえzなら、そういうものは、「語りうるもの」のなかに入っているからである。ゆえに我々が考えるべき問題は、

「創発はいかに阻害・破壊されるか」
「創発を阻害・破壊するものとは何か」
「創発を阻害・破壊するものを、如何に排除するか」

だ。ということになる。私は、ヴィットゲンシュタイン以降の学問はすべて、文系理系を問わず、この問題をテーマとすべきだと考える。では具体的に、神秘的な生きる力を阻害するものとはなんだろうか。端的に言ってそれは「暴力」である。つまり、暴力の本質を明らかにし、それを排除する方法を考えるのが、全学問のテーマだということになる。(略)私が提案した「合理的な神秘主義」は、神秘の存在を前提にして構成されている。神秘の恵みを前提とし、ただありがたく受け取る。神秘を語ろうとするような冒涜はしない。その上で、我々一人ひとりにそなわる神秘の力を阻害するもの、その力を破壊する暴力を解明し、解除する。暴力は基本的に、「語りうる」からである。この合理的な神秘主義の観点から、すでに我々が手にしている知識を再編成しよう、というのが、私の提案する新しい学問である。この学問を「魂の脱植民地化」という。このアプローチこそが、ヴィットゲンシュタインの哲学を継承するするものだと私は信じている。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.164)

問:語りえぬものか、語りうるものかはどのように判断するのか。→何を、神秘と捉えるか。何を「生きること」と捉えるか。

「学」に潜むハラスメント

同じ行為が全く異なった意味を持つ例として、次のような犬の実験がある。たとえば犬に□を描いたカードと○を描いたカードを店、□のカードを選んだら餌を与えるという学習をさせる。その上で□の角を少し丸くするという意地悪をする。同時に○を少し角ばった形に近づける。それでも犬はその変化を学習して、角の丸い資格と角ばった丸を見分け、角の丸い四角を選んで餌をもらうようになる。そこでさらに資格を丸く、丸を四角く変異系させていくという過程を続ける。そして最後には、どちらのカードにも丸と四角の中間の図解が描かれていて、全く見分けがつかないようにする。つまり、最初は正しいカードを選べば餌がもらえるというゲームであったものが、最後には二枚の同じ記号が描かれているカードのどちらを選んでも確率二分の一で餌がもらえるというゲームに変化したのである。ところが、このような手順を踏んで犬を誘導すると、犬は同じ図形が描かれた二枚のカードのうち、より資格に近いカードを見出そうと必死になる。犬にすれば四角いほうを選んでいるつもりなのに、確率二分の一でしか餌をも絶えない。このような状況に陥ると犬は錯乱しはじめる。一方、別の犬に対して、このような面倒な手順をふまず、見分けのつかない丸資格の図形の描かれたカードを見せて確立二分の一で餌をやれば、その犬は別に錯乱することなく、適当にどちらかを選んで時々餌をもらえるという事態に満足する、。この場合、同じ図形のカードを見せて確立二分の一で餌をやるという同じ行為が、全く違った反応を引き起こしている。前者はハラスメント的であり、後者はそうではない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.85)

仁=「マネジメント」=マーケティング+イノベーション

マネジメントを支えるトップマネジメントの階層は事業の目的すなわち「我々は何をなすべきか」「我々は何者であるのか」「我々はどうあるべきなのか」という問いをめぐる業務をおこなう。

ハラスメントは人間を切り刻む暴力

被害者は相手に悪意があるという前提を取らない限り、相手を理解できず、そのうえどんなに努力しても事態が改善しないことから、精神を破壊されていく。(略)このようなモラル・ハラスメントの関係では、加害者の巧妙な操作により、被害者が自分が被害を受けているということを理解できないのが普通である。常に罪悪感を刺激されるため、自分のせいで相手が不愉快になっていると思い込むのである。被害者は全人格的に受け入れられることがなく、人格の一部を切り取られ、所有されるという苦痛を味わう。しかも被害者は。この関係から逃れようとするととてつもない事態になるのではないかという強い危惧を抱き、その恐怖心ゆえにそこから抜け出せなくなる。とてつもない事態とはたとえば、夫婦の場合であれば相手が発狂したり自殺したりするのではないか、職場の場合であれば自分が会社から解雇されるのではないか、単なる友人の場合は自分の評判をおとされるのではないか、というおそれである。モラル・ハラスメントの加害者は実際には小心者であり。被害者が事態を理解して自分を守ろうとする強い態度に出れば大したことはできないのであるが、被害者にこのようなおそれを抱かせることで相手を脱出不可能な状態に追い込む。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.80)

モラル・ハラスメントを駆使する人間は、他の人間を思い通りに操作できるので、政界・財界・教育界などで高い地位に就いていることが多い。他人を破滅させるようなコミュニケーションを駆使すると、。普通の人間は精神的に苦しむが、ハラスメントの吸血鬼たちはそのような葛藤を持たない。他人に対する学習の過程を駆動させていないので、問題があればそれは自分のせいではなく、他人が悪いと思い込むことができるという鉄面皮だからだえる。そうして多くの人間を支配する地位にいて、気苦労ではなく幸福を味わうことが可能となる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.82)

 

順応が破壊的関係を助長する。

マルクスの議論は、貨幣という存在の虚構性を明らかにし、その物神崇拝を打破するためのものである。貨幣が貨幣であるのは、そこに貨幣を成り立たせる社会的関係があり、人々がその関係に順応しているがゆえであり、一方で人々のその関係への順応が、貨幣を成り立たせる社会的関係を再強化する。そういう循環関係が貨幣という虚構を実在たらしめている。それゆえマルクスは、人々がその虚構性を認識し、順応をやめるなら、貨幣構造は崩壊し、貨幣は貨幣で無くなることを示したのである。
この考え方は、単に貨幣のみに適用されるものではない。我々が必然だとか、あるいは、仕方のないことだ、と思い込んで無意識のうちに順応している社会的関係は、すべて同様の構造で成り立っており、人々がその順応をやめるなら崩壊する。それは社会全体に関することばかりではない。職場や学校の謎のルールとか、上下関係とか、いじめや差別もそうである。過程における夫婦間の支配被支配関係や子供の虐待なども同じ構造を持っている。そういったものの集積として、社会全体の人間疎外が生じる。
このような歪んだ人間関係は、単に加害者側の悪意ばかりではなく、被害者側と周囲の人々の順応の結果として生じる共依存によって維持される。その構造を打破するには、それが必然だとか、仕方のないことだと思い込まないで、その子よ構成を認識し、順応をやめる必要がある。たとえ関係者全員でなくとも、ある程度の数の人が雪を持ってそのように振る舞えば、構造は崩壊する。これがマルクスの提示した社会構造論であり、社会変革の方法論である。(『経済学の船出』安冨歩 p.4)

 

暴力から「命」を守る「心」のあり方

生きる選択

グラハムはこのストックホルム症候群を、人間が生き延びるために自分の生死を握っている人間を愛するようになる(あるいは愛していると誤解するようになる)という防禦反応として理解している。もし自分を脅かす人間が、自分よりも圧倒的に強いのであれば、相手に憎悪を抱いて対抗するよりも、相手を愛して尽くした方が生き延びる可能性が高くなるのは事実であろうから、このような機構が人間に備わっているとしても不思議ではない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.84)

ハラスメントについての対策を実施する上で、常に関係者を困惑させるのは、個々のコミュニケーションでやりとりされている行為の様相をいくら観察しても、その行為がハラスメントであるかどうか判定することはできない、という事実である。鞭を持った女性が全裸の男性を縛り上げて肌の上にローソクを垂らす、というようなおどろおどろしいコミュニケーションでも、その場が信頼の上に形成されているなら、ハラスメントにはならない。逆に綺麗に放送したすてきなプレゼントを机の上に置いておくことで、相手に決定的打撃を与え、世界を灰色にしてしまうハラスメントとなるケースもある。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.85 )

抵抗をやめない、決して服従しない

そもそも考えてみれば、首相官邸前の狭い歩道に膨大な数に人がひしめき合いながらおとなしく柵の内側を歩き、滅多なことでは車道に溢れ出さなかったのが、不思議でならない。どうせやるなら、柵を倒して首相官邸前の道路を占拠してしまうくらいのことでなければ、効き目がないだろう。しかし、人々は、逮捕者が出ることに非常に神経質になっていて、警察が目をつけそうなことは、決してやろうとしなかったし、そういう素振りを見せると、誰かが駆け寄ってきて静止していた。歩行者が車道に出たところで、逮捕することなど、できなかったはずだというのに。(略)
天安門事件も雨傘革命、それ自体としては失敗であった。しかしそれは、何かにつながる何かを生み出す力をもっていたと私は感じる。すくなくとも天安門広場の爽やかな空気は、私に絶大な影響を与え、今この文章を書かせている。それに対して首相官邸の前の空気はなにか湿っぽかったように私は感じている。
ガンディーの「サティヤーグラハ」は「真理把持」という意味だが、それではなんのことかわからないので、「非暴力的抵抗運動」と訳す。ガンディーの運動は極めて挑発的で徹底的であり、殴られても蹴られても、挙げ句の果てには殺されても、抵抗をやめない、決して服従しない、という性質のものである。積極的に逮捕されるようなことをみんなでやるのは常套戦術である。南アフリカでの戦いでは、何千人ものインド人がわざと逮捕されて、刑務所を満員にする、という作戦で、インド人に対する差別的法律を撤廃させることに成功している。また、有名な「塩の行進」も、違法な塩の製造をみんなで海岸に行っておおっぴらにやって逮捕される、というものであった。しかしどういうわけか日本人は、これをまちがって「ガンディーの無抵抗主義」とよく書いたり言ったりしている。(略)私はこれは単なる勘違いではなく、日本人の心象が反映しているのだと思う。「抵抗=暴力」「非暴力=無抵抗」というような思い込みが心理的構造のなかにあり、「非暴力かつ抵抗」という組み合わせが、論理的に矛盾しているように感じられるのであろう。だがガンディーの精神からすれば、暴力を用いないと抵抗できないと思うのは「弱虫」ということになる。(『香港バリケード』 p.220)

ガンディーは、非暴力的抵抗は挑発的でなければならない、と言っています。自分を抑圧しようとしてくる者に対して、抑圧者がいちばん嫌がることを、わざわざするのです。すると、それに対して相手は必ず攻撃してきます。そうしてその攻撃を、非暴力で受け入れるという戦い方をします。それは、普通の人にはとても怖いことで、武装闘争を上回る大変な勇気を必要とする戦い方なのです。(『生きるための親鸞』安冨歩・本多雅人 p.128)

縁を切る

縁を切る:ハラスメント=破壊的関係を終わらせる。

もし相手がこちらに対する学習能力を稼働させていないことが明らかになれば、まずはこちらも学習を停止する必要がある。その上で可能な最も効果的な方法は、そのような人物とは付き合わないことである。しかしその人物が自分の母親であったりすると、どうしても付き合わざるを得ない。その場合にはやり方は三つある。
一つは、相手に矛盾したメッセージを送り込み、不安を創り出し、その上でこちらの希望することをやらせるというダブルバインドの手法を使うことである。ただし、これを使うとこちらの精神もまたハラスメントの吸血鬼に汚染されることになる。あくまで相手が手のつけようのないハラスメント人格であり、こちらの精神や身体が危機的状況にある場合の非常手段と考えた方が良かろう。
もう一つの有力な方法は、相手に悪意がある、ということを前提に観察することである。この前提をとると、相手が(時には無意識に)狙っていることがなんであるかを見抜くことが可能となる。そして見抜くことができれば、「お前の意図は見え透いているぞ」と一方的に通告することである。この場合、話し合いは無意味かつ有害であり、一方的な通告を繰り出すという形をとらねばならない。
最後のより正しい方法は、相手の学習過程の作動をうながす方法である。まず相手に「そのようなことをやめろ」と強い姿勢を示すとともに、こちらに相手を陥れるつもりなどないことを明確にする。その上で冷静に、できればユーモアを活用して、道理の通った説明をする。これだけのことで多くの場合、こちらの希望が満たされる。もっとも、実はこれだけのことを実現するには相当の人格の陶冶が必要となるのだが、それでも決して不可能なことではない。
コミュニケーションがハラスメントという魔物を可能性として伴っているという事実は、コミュニケーションが常にハラスメントに転化することを意味するのではない。その危険を熟知することで、そのような罠を回避する知恵も生まれる。一見したところでは普通に見える人に、このような悪意がありうるということを自覚しておれば、それから逃れることも可能になる。また、自分のなかにもこのような悪意のありうることを自覚しておれば、その動きを抑制することもできる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.90)

自由=縁結びと縁切り

私は、人間が自由である、ということは、「縁結び」と「縁切り」を自分の感覚にしたがってできる、ということではないかと考えている。良縁が生じたと感じたときには躊躇なく縁を結び、縁が呪縛に転じたと感じた時には躊躇なく縁切りをすることができるなら、その人は自由である。(『経済学の船出』安冨歩 p.51)

個々人が縁を切る勇気を持ちうることが、縁の質を維持し、社会の秩序を保つための前提条件なのである。この点に関して、『論語』には次のような章がある。

怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之を恥ず、丘も亦之を恥ず。
子曰く、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。
子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同して和せず。
礼の用は和を持って貴しと為す。

人に怨みを抱いたときに、我慢して縁をつないでいるのが「同」であり、これは小人のすることである。人々が同するとき、呪縛が蔓延する。これに対して仁者は、怨みを懐けば相手を正しく悪み、友としての縁を切る勇気を持つ。この仁を人々が保持するときにはじめて、和が生まれ、礼が実現する。このような勇気を持つ上で、無縁の原理が重要な役割を果たす。なぜなら、人が縁を切るその操作を、社会的慣行が容認し支持するという機構が作動している場合、円の呪縛への転化は抑制される。この意味で無縁の原理が有縁を支えていると言える。もし社会のどこにも逃げ場がなければ、すべての縁が呪縛に転化してしまう。そのような社会は早晩崩壊するであろう。(『経済学の船出』安冨歩 p.64)

対立する

友だちを作るためには、創造的構えに引き寄せられるべきであって、破壊的構えは遠ざけねばなりません。もし破壊的構えの人を「友だち」と誤認して近づけてしまうと、「友だち地獄」に落ちてしまいます。そういう人は実際には誰のことも好きになったりはしませんから、「本当は私のことを嫌っているのではないだろうか」とこちらが思ってしまいます。ところが、その人を「友だち」として誤認している限り、自分のことを「人を疑う悪い子」だと思って罪悪感に苛まれるのです。するとその人は、こちらが抱いた罪悪感を利用して、支配してきます。(略)嫌だと感じる人と、友達のふりをしてはいけないのです。もちろん、いつも喧嘩している必要はなく、適当に距離を取れば良いのです。しかし、もしも、そういった人が、不愉快な押し付けをしてくれば、断固として抗議し、はねつける勇気は必要です。そのために、表面的な平穏さは毒であrうと心しておくべきです。表面的平穏を守るために、不愉快な押し付けを我慢すると、「友だちのフリ」をさせられることになり、それは、あなたの大切な友だちのネットワークをあっという間に汚染してしまいます。
むしろ、表面的な対立は、どう的な調和をもたらす。と考えた方がよいでしょう。なぜなら、破壊的構えを押し付けてくる人も、大抵は葛藤の構えですから、創造的構えを背後に持っています。その破壊的構えに抗議しつつ、こちらは創造的構えを開いている、という態度を示せば、相手の破壊的構えを引っ込めさせて、創造的構えを引き出すことが可能になるからです。そうなれば、その人とも、友だちになることができます。これが動的な調和の意味です。相手の破壊的構えのおつきあいをしてはならず、創造的構えに呼びかけねばならないということができます。(略)創造的構えへの呼びかけは、対立を引き起こします。この対立は、友だちを作るためには避けて通れないものです。それゆえ、対立を恐れてはいけないということができます。対立を引き起こすと、嫌われるのではないか、と思われるかもしれませんが、嫌われるのは必ずしも悪いことではありません。破壊的構えを押し付ける人に嫌われるのは良いことです。そういう人に好かれるということは、あなたの資源を奪われることだからです。それはまるで、狼が羊を好きなのと同じです。羊ににとっては狼に嫌われた方がよいのです。(『生きる技法』安冨歩 p.48)

 

「ハラスメント」=「学習の回路」を閉ざすこと=魂への暴力

「わたくし」と「あなた」が共にこの学習の回路を作動させ、互いに動きあい、学び合っている場合には良好なコミュニケーションのための場が形成される。たとえ「あなた」に踏み込まれたとしても、「わたくし」はそれを跳ね返すことも可能になる。相互の運動の中で「愛を語る」にしても、「話し合う」にしても、「交渉する」にしても、「喧嘩をする」にしても、両者が動きあっている限り、そこにいる両者は人間としての台頭性を維持している。双方が学習過程を作動させたり停止させたいする自由を確保しつつ相互作用すること、これが自然な流れを持つ関係を作り出すための条件である。ハラスメントは、この学習のダイナミクスを悪用することで成立する。自分はこの学習過程を作動させず、相手にのみ無駄な学習を続けさせることがハラスメントの根幹である。
「あなた」がハラスメントを仕掛ける人間であったとしよう。「わたくし」はそうとは知らず、「あなた」も「わたくし」と同じような世界を持っている、とまずは勝手に信じ込み、何らかの動きを示すという賭けに出る。「あなた」はそれと同じことをしているフリをする。そして「わたくし」が「あなた」についてのある理論を形成しかかったその瞬間に、「あなた」は思いもかけない行為を見せ、「わたくし」を混乱させる。それはどんなことでもよい。上機嫌で話し合っている最中に、突然、不機嫌になってみせる、批判的なことを言う、揚げ足をとる、舌打ちをする、などといった仔細なことでもかまわない。要点は、「わたくし」が「あなた」に対して形成した理論と全く矛盾する振る舞いを突然見せることである。この方法をとられると、「わたくし」が「あなた」に対して形成した理論は水泡に帰し、ふたたび学習の努力を始めなければならなくなる。しかし「わたくし」が「あなた」に対して形成しうる一貫した理論と、どうやっても矛盾するような行為を「あなたから見せられ続ける限り、この学習の努力は常に無駄となる。しかし、「あなた」が始終一貫して全面的に不機嫌を示したり批判的言動を繰り返すならばそれはハラスメントではない。その場合には「わたくし」は「あなた」を嫌な奴だとみなして「あなた」に対して安定した理論を形成し、この関係を不愉快なものとして処理することができる。両者は敵対関係に入り、それはそれで安定したコミュニケーションを形成する。
それに対して「あなた」が「わたくし」に敵対的言動を見せた直後に、何事もなかったかのような平気な顔をしてみせるなら、それはハラスメントの始まりである。さらには、「あなた」は「わたくし」に対して、「愛している」「大好きだ」「大切に思っている」「信頼している」「友達じゃないか」「いつも心配している」「君のことは評価している」などなどといったコミュニケーション叔母を確認するかのような言説を繰り出してくる。(略)こうして「わたくし」の「あなた」についての学習の努力を続けさせつつ、その理論形成を阻害することがハラスメントの戦略である。常にこの努力を払わされ続けると、「わたくし」の精神は疲弊する。そして「あなた」をうまく解釈できないのは、自分の学習能力に血管があるせいなのだと考え始める。「わたくし」は不安に陥り、その自信と判断力を奪われる。このとき、「あなた」は学習の努力を一切払わず、「わたくし」だけが矛盾した命題の間をコマネズミのように行ったり来たりさせられ、無限の学習の努力を払い続けている。
このように、「わたくし」を衰弱させておいて、「あなた」は「わたくし」のなかにトロイの木馬を送り込む。それは「あなた」にとって好都合な「わたくし」の行動基準である。この行動基準とは「お前は何もわかっていないのだから、私の言うことをきけばいい」「お前は私の幸福のために働けばいい」というような「あなた」にとってのみ好都合なものである。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.75)

親子の間に、ありがち。会社でも、学校でも、ありがち。というかそういう狂った社会、あまりにも暴力が自然な社会に、私たちは暮らしている。

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