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第6回:「命」を守る。 「心」をつくる。

安冨歩 「知」の棚

安富歩『経済学の船出』『生きる技法』『複雑さを生きる』『ドラッカーと論語』

第6回:「命」を守る「心」をつくる。

 

「命」を強める「心」

「仁」と「礼」学習の回路が閉じているか、開いているか

論語の思想の核心は、以下の八つの概念で表現される。
仁・礼・和・忠・恕・道・義・知
これらを「論語の基礎概念系列」と呼ぶ。このなかで最重要のものは、いうまでもなく「仁」である。あとは全てそこから派生する。「仁」という概念は、学習の回路が開いている状態をいう。学習回路が開いている、というのは、自分の言動が引き起こした影響を、しっかりと受け止めてその意味を把握し、そこから自分のあり方を改めることができる、ということである。そうして自らの実践から学び、どこまでも成長していくことのできる人間が「君子」である。学習に喜びを感ずることは、人間の本性である。ところが、一旦、何かを身につけた、あるいは手に入れた、と思い込むと人は、それに固執してしまう。そうなると、それにしがみついてしまい、自分を改めることが難しくなる。そうやって固陋(ころう)になった人を「小人(しょうじん)」と呼ぶ。小人は自分の非を認めることができず、強いものに怯えて追従し、弱いものには傲慢になる。そういう人は、学習回路が閉じているのである。

学習回路が開かれた「仁」なる人同士が出遇い、お互いにやりとりすると、双方おが互いの人格を尊重しつつ、相手の言葉を、自分の振る舞いに対する「応答」として受け取り、常に自分自身の思い込みを改める形で自らの言葉を紡ぎだす、という姿勢が見られる。このとき、両者の対話のあり方を、「礼」という。(『合理的な神秘主義』安冨歩p.24)

問:学習の回路とは?学びが始まらない人は、どうするの?

人間の「リズム」

このメールに対する返事の中で駒込は、フランツ・ファノンの次の文章を引用した。
ヨーロッパのまねはしまいと心に決めようではないか、わらわれの筋肉と頭脳を、新たな方向に向かって緊張させようではないか。全的人間を作り出すべくつとめようではないか。…〈第三世界〉は今日、巨大なかたまりのごとこうにトーロッパの面前にあり、その計画は、あのヨーロッパが解決をもたらしえなかった問題を解決しようと試みることであるはずだ。だがこの場合に、能率を語らぬこと、[仕事の]強化を語らぬことが重要だ。否、〈自然〉への復帰が問題ではない。問題は非常に具体的に、人間を片輪にする方向へ引きずってゆかぬこと、頭脳を摩滅し混乱させるリズムを押し付けぬことだ。追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない。人間を自分自身から、自分の内心から引き離し、人間を破壊し、これを殺してはならない。否、われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩き続けたい、夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.273)

有効性と効率性

ドラッカー思想のまともさの一つは、効率性(efficiency)の課題しを批判している点に現れている。経済学も経営学も「最適化(optimisation)」が好きだが、これは最大のefficiencyのことである。(略)ドラッカーが重視するのは、有効性(effectiveness)である。ドラッカーはそれを次のように説明する。
(略)有効性が成功の基礎であり、効率性は成功が達成された後の生き残りのための最低条件である。効率性はものごとを正しく行うことを意味する。有効性とは、正しいことを行うことである。
通常の経済学や経営額は、ものごとの効率性を最大化すれば、それが正しいことだと考えている。しかし複雑で流動する世界において、そのような考え方は役に立たない。というのも、状況を把握することすら困難であり、そのうえ、状況は常に変化するからである。やり方が効率的かと問う以前に、やっていることが正しいかどうかを問わなければ、どうしようもない。では正しい、とはどういうことなのだろうか。この問いにドラッカーは答えを与えない。というのも、状況を抜きにして、何が正しいかを語ることができないからである。何が正しいかは、現場で人間が考えるしかない。(『経済学の船出』安冨歩 p.86)

ミルグラムの「小さな世界」実験

ミルグラムの「小さな世界」実験の結果は驚くべきものであった。途中で多数の封筒が転送されなくなってしまったが、それでも、数百通の封筒のうち、六四通がターゲットに到達した。その連鎖の長さは、たった二人〜十人であった。中央値は六人であったので、「六人いれば、アメリカに住む任意の二人は接続されうる」という結論に到達した。(略)
この研究は、「小さな世界」問題から立ち上がる特定の問題群から始まったが、その実行過程ははるかに広い話題を描き出している。それは潜在的なコミュニケーションの構造を明らかにし、その構造の社会的性質の解明が求められている。我々がこの潜在的なコミュニケーション・ネットの構造を理解した時、社会の統合一般についてはるかによく理解することになろう。多くの研究が社会科がkにおいて、個人がどのように、社会の他の部分から排除され切断されるかを示してきたが、この研究は、なんらかの意味で、我々はすべて緊密に編み上げられた社会的織物に共につなぎとめられていることを、証明したのである。
この最後の一文から、ミルグラムがこのすばらしい着想に到達した理由が明らかとなる。それは、アイヒマン実験と、密接に関係している。というのも、人と人との繋がりが、緊密に社会を覆い尽くしており、このつながりこそが「恕」に基づいた、学習に基づく秩序形成の契機でもあり、結果でもあることを、示唆しているからである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.262)

問:前向きになれる「作戦」をたててみよう。

 

「眠れる森の美女」仮説

突然変異種が生成された時点ではその種は観測不能であるが、それは個体数密度が低いばかりでなく、他の種との相互作用が親種とどうとだからでもある。生態系における地位が全く同じであれば、両者は識別しえない。しかしその種が他の観測不可能首都強い共生関係をとりむすぶことに成功すると、両者の個体数密度は劇的に上昇する。この結果、生態系の構造自体が変化し、親種と変異種の生態系における地位は異なったものになる。こうして変異種は十分な個体数密度と独自の生態系における地位を有する観測可能な新種となる。
もちろん、このモデルの中立ルールと全く同じものを自然界で観測するのは難しいし、おそらくそのようなものは存在しないであろう。しかし重要なことは、変異種がただちに淘汰にかかわらずに、静かにパートナーを待つことができるかどうかである。すなわち、淘汰に中立な変異が可能かどうかが問題となる。表現型レベルで同じ生態学的性質を持ちつつ種として親種から分離されうる特徴をもつ変異種が可能であれば、それは生態系の成長に決定的な役割を果たすであろう。(略)
中立突然変異遺伝子を持つ個体群を中立ルールによって生成される親種と同等の変異種とみなすことも不可能ではない。その個体群がパートナーと出会って他の個体群と異なった適応度を持つようになり、それがなんらかの生殖隔離機構の引き金を引くならば、新しい種として成立することになる。(略)
生態系の周縁で静かに眠ってパートナーの出現を待ち、現れたパートナーと共生的な関係を取り結ぶことで目覚め、急速に生態系に侵入するダイナミクスが、生態系の長期的な発展に決定的な役割を果たす。この中立的な変異種を森の奥で眠りながら王子の到来を待つ美女になぞらえ、第3節で展開した議論を眠れる森の美女Sleeping beauty仮説と呼ぶこととする。
(略)
この中立性は経済発展んと知識の問題にも重要な関係がある。人g年の記憶力は有限であり、我々がある知識を獲得したとしても、すべてを記憶し続けることはできない。ゆえに我々の脳の中では記憶スペースをめぐる知識の闘争があると解釈できる。あまり利用されない知識はやがて記憶から排除されて新しい知識にとってかわられる。しかし文字を用いれば知識の形式化可能な部分をこの闘争から中立な形で保存することができる。もちろん、利用可能な記録媒体の量の制約という問題があり、情報蓄積スペースをめぐる闘争が生じるが、それでも残存可能な情報の量右派はるかに大きくなる。
こうすることで我々はひとつひとつでは意味のない知識を情報として外部に蓄積し、その情報を有効にする新しい情報の到来を待つことができる。鍵になる情報が出現すると、以前には重要でなかった情報がネットワークを構成して意味を帯び、我々に強力な知識をもたらす。
(『貨幣の複雑性-生成と崩壊の理論-』p.210)

 

 

「頼りになるネットワーク」

我々の世界は非線形性に満ちており、そのような世界に直面しながら生きている、という事実の前では、なんらかの「確実なもの」にしがみつき姿勢は、隷属への道以外の何者でもない。我々は、複雑さの中で動的に対応していく能力を、生まれながらに持っているのであって、我々の身体に込められている驚くべき創発的計算能力を信頼し、その感覚に従って、信頼しうる人を信頼し、信頼し得ぬ人を信頼しないで、頼りになるネットワークを構築して生きていけば、それで十分なのである。問題は、我々が、子ども時代に無意識に埋め込まれた恐れによって、感覚が作動しなくなることである。(『合理的な神秘主義』安冨歩 p.302)

「聲」で「はたらきかける」

安冨|私がかつて考えていたのは、きちんと正確に語れば語るほど伝わらなくなっていく。それじゃあ、適当なことを言って入ればいいのかといえば、適当なことを言ったところで無意味なんです。
だから、まず他人の守備範囲内に入っていくことが不可欠で、そのうえで、人がそれを受け止めると、内部で作動を起こして、伝えられるべきことを自ら生み出すというような構造になっていないと、言葉って力をもたない。なので、言葉というのは、カプセルに入った薬みたいになっていないとダメで、それが人の中に入り込んではじけることで、はじめて「方便」のはたらきをなすと考えるべきかと。
親鸞は、意図的・意識的に、「じゃあ、こいつはこれがわかっとらんようだから、こういう言い方をしたら通じるかな。ひとつ言ってみよう」というような工夫をしたのではなく、世界そのものが、もう方便でできているんだという、驚くべき発見をしたのです。世界そのものが、凡夫である私一人が出会うための方便によって構成されていたという、衝撃的な発見をしたんだと。すると、言葉は、その内容に意味があるのではなく、そのはたらきこそが意味だ、ということになります。
佐野|言葉の本質は聲だということですね。聲の本質は、聞かれるということにある。「声」の旧字は「聲」と書きますが、下にちゃんと「耳」という字が付いている。声は聞かれる。聞かれることによって成り立つ。それに対して聞かれないのは音です。
安冨|これは、バークリーというアイルランドの宗教家の哲学者がずっと考えていた問題で、森の中で倒れた木は音がしたのかという。その答えは、「していない」です。要するに、聞かれなければ、音でもなんでもないのであって、それは単位音波というか、空気の振動にしか過ぎないので、聴く人がいなかったら、もうそれは音ではない。まさに、そのことですよね。そうすると、聞かれないような教えはなんの意味がないということになる。それは意味ではないし、音ですらない、まして声ではないわけです。(『親鸞ルネッサンス』p.121)

 

親からの自立=親以外の人への依存

「自立する」という時、誰から自立するのかというと、まずは親から、ということになります。人間は生まれてすぐに、大抵は親に依存することになるからです。自立とは、少なくとも若者にとって、親から自立を獲得することだ、と言うことができるでしょう。とはいえ、若者以外の大人は親から自立しているかというと、そうはいかないのです。非常に多くの大人が、親から自立しえずに人生を終えてしまうのです。人間にとってそれほどに、親からの自立は簡単ではありません
親からの自立を果たすためには、なによりも親以外の人への依存を獲得せねばなりません。それも、自分より上に立つ人に依存するのではなく、自分と対等に付き合ってくれる人、つまり「友だち」を作ることが、何よりも大切です。そこが難しいので、なかなか自立できないのです。では友だちとはなんでしょうか。
ともだちとは、互いに人間として尊重し合う関係にある人のことである。
どんなに立場に違いがあろうとも、お互いの真の姿、真の考え、真の感覚を探求し合う、ということが、相互に尊重し合う、ということなのです。これが人間として対等ということの意味です。(『生きる技法』安冨歩 p.39)

他者への関心

「個」であり、「私的」であることは全体主義を防ぐ強みではあるが、その「個」は不可避的に相互に関係を取結び、影響を与え合う関係である。それ以外には存在しようがないのだ。それはまさしく、
わたしは、この人間の仲間と共にいるのでなくして、誰と共にいようか。
という言葉に現れている孔子の考えと同じである。これは隠者が世間を捨てるように孔子に勧めた言葉に対する答えであるが、人間は人間の仲間の只中に生きる以外に生きる意味を見いだすことはできない、そういう生き物なのである。そしてその過程で出会うすべての喜怒哀楽を引き起こす出来事から、学び、成長する、という以外に、よく生きる道はない、と教える。(略)
ナチスが力を誇示し始め、ユダヤ人の弾圧を始めた際、多くのドイツ人が、我が身が安全であればと沈黙したことを、ドラッカーは「罪」と表現した。(略)無関心が罪だということは同じく「学習」による社会秩序を唱えた孔子もこのように述べている。
子曰く。人が遠くのことに配慮しないのであれば、必ず近くに憂いが生じる。
これは、人が「遠く」、つまり自分と関係なさそうなことには配慮をしないで無関心でいると、かならず「近く」、つまりその身とその周辺とに、ロクでもないことが降り掛かる、という意味である。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.148)

社会と個人の関係

社会は様々のコミュニケーションを要素として構成される、ひとつの形であり、その形が自分の要素として必要なコミュニケーションを生成するということで教会を維持しており、その形の内部で生じる変換によってコミュニケーションの方が変化しつづけている限り、自己同一性を維持している。ここでちゅうmのくすべきは、人間そのものは社会の外に位置しているという点である。人間と人間のかわすコミュニケーションが社会の要素である以上、そのコミュニケーションを算出する人間は社会の要素ではありえない。そのようなコミュニケーションを算出する環境の方に人間ははいっている。社会が自律的に自分の要素たるコミュニケーションを再生産する、ということは、その背後で作動する人間の内面たる心システムの運動を社会が認識しないことを示す。これが社会にとって人間が環境であるということの意味である。
このとき、社会というシステムにとって個々の心のシステムの複雑さは大幅に縮滅される。人間が算出する外部からの観測可能な契機のみが問題となり、それ以外の複雑さは社会にとって認識されない。言い換えれば、あるコミュニケーションが生成されているとき、その背後の心のシステムが学習過程を作動させているかどうか、日常的な言葉に言い換えれば、心がこもっているかどうかは、少なくともその場限りでは問題にならない。
逆に心システムの側から見れば、社会の全体が持つ複雑さを考えることはできない。他社の発するコミュニケーションを受け取り、それに呼応する形でコミュニケーションを産出するという限りで関わればよいのであり、こちらの方でも複雑さが大幅に縮滅されている。(略)個人と個人が向かい合った時に双方が両すくみから抜け出すとともに、社会が必要とするコミュニケーションの産出を保証するものが規範である。そして規範に沿ったコミュニケーションの産出が規範を創出する。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.102)

その規範がなんのためにつくられたのか自覚する。
心を殺して技だけをつかう。孫子。
村が機能するために必要な関係を保つための家
親の責任1闇教育をしない2暴力から守る
綱渡りをしている。片方に落ちれば、自己の裏切り、もう片方に落ちれば、自己の裏切り。
ハラスメント=甘え=責任のなさ?
社会の構成要素は、関係性である。社会の要素に、心はない。ただ、社会が大きくなるほど社会は規範を個人に要求する。ここで心はどう答えるか。心を要素とする社会はあるのか。
教わることと知ることは違う。

社会の多様化

本章第3節の種分化ダイナミスクスは、競争的な市場に新商品や新企業が参入するには、他分野の商品・企業と相互に強制的な関係を取り結ぶことが重要であることを示唆する。ある起業家の出現が他の分野の起業家の出現を刺激し、それが最終的に起点となった起業家に促進的影響として戻ってくるようなポジティブ・フィードバックがあった場合、複数の起業家が同時に猛烈な勢いで出現するのが観察されるであろう。その結果としての経済の多様性と平均利潤率の向上過程をこの運動のなかに見ることができる。かくのごとき過程を繰り返すことで経済は発展する。この発展は麺がーの言うように多様性の上昇と同義である。発展した経済は熱帯雨林と同様に、複雑で相互依存的で強靭で、しかも変化を続ける動的システムなのである。(『貨幣の複雑性-生成と崩壊の理論-』p.217)

日本は好立地笑

別に悲観することはない。われわれはすでに十分に安定した裕福な社会を形成しているからであるもはや金儲けなどというものに熱中しなければそれで良いのである。企業の目的が顧客とのコミュニケーション形成であり、利益が制約条件にすぎないことを思い出して欲しい。社会が活発であるかどうかを、経済活動の水準だけで見るのは愚かである。社会にとってコミュニケーションの活性がすべてであり、経済はその制約要因にすぎない。その制約条件はすでに十分緩んでいる。非経済的誘引によるコミュニケーション活性の向上を図る努力を惜しんではならない。経済の基準をできるだけ早くマーケット化し、バザール化させる必要がある。経済的交換を社会的交換と密接に編み上げていかねばならない。それこそが世界経済で競争的地位を維持する最善の方法でさえある。同時にそのような努力は社会をより高潔なものとし、国際社会における高い道義的地位をわれわれに与えてくれる。
市場/共同体のような幻想の対立枠組みに依拠して思考してはならない。近代的個人主義が村落共同体を破壊したのではない。ユーラシア大陸を広く眺めるなら、近代以前から村落共同体など存在しない社会の方が普通である。家族が崩壊したのも近代的個人主義のせいではない。生産活動が職場に移行し、家庭が消費の場に限定されてしまえば、家族は当然崩壊する。家族の崩壊は産業革命とともに始まったのであり、第二次世界大戦後に始まったのではない。中国のような市場性の高い社会では、家族こそが最も頼りになる関係であり、そのつながりは強固である。市場だけが人間を阻害するのではない。共同体も家族も人間を阻害する。問題は「紐帯」があるかないかではない。人々が相互に学習過程を開いた形でコミュニケーションを形成できるかどうかである。高度経済成長期に人々が村を抜け出して年に集まったのは、共同体や家族の「紐帯」が引き起こす深刻な人間疎外に耐えられなかったからである。人間を苦しめ、社会を崩壊させるのは、学習過程の停止である。自分の感覚を裏切り、他社の心の動きに対する感覚を失った人間は、他社を支配しようとしてハラスメントを行う。われわれが立ち向かわなければならない敵は、市場でも個人主義でもなく、このハラスメントの悪魔である。社会を守るために、われわれはこの悪魔を理解し、その増殖を抑え込む方法を開発し、実践していかねばならない。やわらかな制御の思想は、そのための基礎となる。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.209)

僕はあなたに語りかけていない。あなたが閉じ込めて、心の隅っこで小さくなって泣いているあなた自身に語っている。

非平衡統計学
非線形科学
同期
決定論的カオス

孔子が生きたのが、中華世界史上初の大規模組織が生まれ、官僚組織の運営というまったく新しい問題に直面した時代だということは前にも触れた。この難題に対して、孔子が出した答えこそが「仁」、つまり、学習回路を開くことができる者たちによる統率である。つまり、『論語』とは学習に基づいた社会秩序」を唱えた世界で最初の思想書なのだ。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.43)

チューリング
ベルーソフ
ベイトソン 精神の生態学 steps to the ecology of mind

「命」のために「お金」を使う「心」

自立のための「無所有」という戦略

朱さんは林業研究所の退職した職員でしたから、小さな家とわずかな年金とを得ており、飢えて死ぬということはありませんが、極めて貧乏でした。にもかかわらず、何も受け取ろうとはしないのです。なぜそうするのか私には当初、よくわかりませんでした。しかし、何年か朱さんと付き合うことで、それが彼にとって非常に重要な戦略であることに気付いたのです。
「金を受け取らずに植林に没頭する」という彼の生き方のゆえに、多くの人が朱さんを深く尊敬していたのです。そうした人々は、それぞれの地位や力に応じて、彼らをなんらかの形で助けようとします。そのような援助を、彼は喜んで受け取ります。もちろんそれは、植林のためですが、しかしたとえば朱さんが病気をしたりすると、これは一大事とばかりにみんな大慌てでやってきて、治療のために手助けをします。こういう援助を彼は断ったりはしません。つまり、お金を受け取らないことによって、彼は無償の援助を多くの人から受け取ることができるようになっていったのです。それゆえ彼は、「何か困ったら、誰かが助けてくれる」と確信しており、何も恐れてはいません。今も、安心して緑化活動に没頭しています。
朱さんの生き方は「無所有」という戦略に従っている、と私は考えました。所有しないことによって多くの人に依存することができる、と言う関係を構築したのです。朱さんは無所有という戦略によって、多くの人に依存して自立していたのです。このような生き方をしている人は、日本にもいると思いますが、目の当たりにしたのは、朱さんが初めてでした。この経験によって私は、ガンディーの伝記などに書かれているような、無所有によって世界を家として安心して生きる、という生き方が、実際に可能であることを知ったのです。
このことは私にとって大変な衝撃でした。そこでガンディーをはじめとして、無所有という戦略を活用した人々のことを調べてみたのです。そしてそれが、簡単ではないにしても、明らかに実効性のある戦略であることを確認しました。そしてまた、この「依存を通じて自立する」とうあり方が、貨幣を用いたとしても可能であることを知ったのです。つまり、自分が依存できる相手を創り出すために貨幣を使う、という方法もまた、無所有と同じように有効だったのです。自立した人というのは、自分でなんでもする人ではなく、自分が困ったらいつでも誰かに助け手もらえる人であり、そうした関係性のマネジメントに長けている人のことだ、ということに気づきました。そういった関係性の構築は、貨幣を用いても、用いなくても可能です。(『生きる技法』安冨歩 p.31)

問:人に尊敬される生き方を戦略的に行うための「学び」を実行する?

金持ちよりも、有徳人になれ。

このような場では、貨幣を多く適切に用いることができると、他者に依存することが容易になる。貨幣を支払うことで、他者の所有する財を得たり、その労働をサービスとして利用したりすることは、他者に適切に依存しやすくなることを意味するからである。より厳密にいうなら、簡単に魔法を使って礼にかなった形で、他者から財やサービスの提供を受けることができる。これが貨幣のもたらす自由の根源である。(略)貨幣とは、この魔法を簡単に実現する装置である。この貨幣の魔法を正しく用いることができるなら、人は思うままに縁を結び、縁を切ることができる。これは人を自由にする。この意味での自由な魂を持つ人は「有徳人(うとくにん)」と呼ばれるにふさわしい。櫻井英治は16世紀中庸の近江国堅田の真宗寺院本福寺の住持明誓の『本福寺跡書』を引いて〈富者は一般に貧者に比して高い徳をそなえていることが多い〉という当時の社会通念の存在を示している。「分限ナラバ強イ」という明誓の新年は貨幣の持つこの側面を表している。分限の与えてくれる「余裕」があればこそ、人は正直になることも、温和であることもできる。
とはいえ魔法の祭器をもっていることそのものが、魔法の作用を保証するわけではないことを忘れてはならない。貨幣によって完全な自由を手に入れることができるわけではない。貨幣の所有を自由の達成と同一視したとき、貨幣の持つ別の呪縛にかかることになる。この呪縛にかかると、銭の亡者となってしまう。同じく櫻井の引用する『新猿楽記』の次の言葉はそのような呪縛にかかった人の様子を表している。

利を重んじて妻子を知らず、身を念いて他人を顧みず、一を以て万と成し、あざむ他心を証き、譲を以て人目を抜く一物也
こうなってはいくらお金をもっていても、魂の自由はまったく得られない。いくらお金を使っても魔法はうまくかからず、人から憎まれ、蔑まれるばかりである。(略)

貨幣そのものが紐帯の代用品であるかのように思い込んでしまったとき、貨幣による呪縛が生じる。そのとき社会は、多くの縁が呪縛に転じた場合と同じく、息苦しく、不安に満ちたものになる。(『経済学の船出』安冨歩 p.70)

 

「貨幣」の呪縛から「命」を解放する「心」

このような事態は、本来、人々の縁結びを可能にするメディアとして生成した社会的装置が、今ではそれを手段として他人にハラスメントを仕掛けて呪縛にかけるものとして、強力に作動していたことを示す。こういったものは、強力になればなるほど人々を強く呪縛にかけるが、同時に、そうであればあるほど、そこから逃れたいという縁切りの衝動を強化する。そうして、縁切り衝動を実現する無縁の原理の明示化を促進し、それが中世のアジール空間を創出させたのであろう。(『経済学の船出』安冨歩 p.75)

創発的価値と貨幣的価値

ある年には儲かっても、翌年には儲からないことや、ある時代には儲かっても、別の時代には儲からないこともある。意味のある活動をしても儲からないし、意味のないことをしても儲かることがある。詐欺などは後者の典型例である。しかし、誰も彼もが意味のないことをしていて、社会は存続できるだろうか。当然ながらそれは無理な相談という者である。生き延びる上で意味のある仕事、つまり創発的価値の産出が、社会の存続の条件である。これが私のいう「価値の源泉」の意味である。(略)現代の先進国のような恐るべき水準の生産性を誇る社会では、多くの人々が揃いも揃って意味のないことをしても、そう簡単には飢え死にしない。実際、現代の先進国社会の労働のなかには、どういう意味があるのか、さっぱりわからない仕事が多い。もう一度確認しておこう。必要なものが必要な場所に適切に届けられ、人間の生きる力が発揮されることが、価値の源泉である。これを創発的価値と呼ぶ。しかしこの価値はいわゆる貨幣的価値と、常に厳密に一致しているわけではない。それどころか両者は容易に乖離する。
例えば飢えている人に食べ物を届けるなら、その人は生き延びることができる。これは、生きる力の発揮を阻害していた栄養の不足を解除したので、創発的価値が生じたことを意味する。しかしそれが直ちに貨幣的価値となるわけでhない。とはいえ、社会全体としてみたときに、創発的価値の生成が、貨幣的価値のそれと完全に乖離しているなら、その経済は再生産ん不可能であろう。このような観点から「有効性」を考えるなら、次のように言って構わないと私は考える。
ある仕事が創発的価値を生成するなら、その仕事は有効である。
このように見るなら、企業活動の本質は、創発的価値の生成を貨幣的価値の実現に結びつけることにある、ということになる。(略)これまで実現されていなかった創発的価値を、貨幣的価値に接続しえたとき、それを「イノベーション」という。新しい製品の開発も、既存の製品の新しい使い方の工夫も、新しいビジネスモデルの開発も、この意味では同じ働きをするので、いずれもがイノベーションである。
問題は、貨幣的価値と創発的価値とがどれほど乖離しているかである。現代社会においては、その乖離がかなり大きいようにも見える。特に現代日本社会では、異常な貯蓄過剰を背景として財政が膨張し、創発的価値とは全く無関係な貨幣の流れが作り出されて、両者の乖離を極めて大きいものにしている。私は、人々が、貨幣的価値を追い求めれば追い求めるほど乖離が大きくなり、創発的価値を追求すればするほど乖離が小さくなるように感じる。なぜそのように感じるのか、私にもまだ解明できてはいないのだが、これが拝金主義の持つ危険性の本質ではないかと思う。(『経済学の船出』安冨歩 p.103)

お金を使うなら、それは、人との結びつきを強めるために使うべきなのです。(『生きる技術』安冨歩 p.83)

貨幣は、信頼関係なしの交換を可能にする。(『生きる技術』安冨歩 p.88)
貨幣は他人とのしがらみを断ち切るために使える(『生きる技術』安冨歩 p.83)

「命」の創発を支え合う社会をつくる「心」

価格とは

私は、すでに述べたように、サーリンズの「平和条約としての価格」理論に従って、物品の交換比率は、それに関わる人々が、なるべく納得するように決まる、としか言えないように思っている。取引所などの価格決定機構は、なるべく多くの人が納得するようにうまく工夫された立派な制度であるが、それ以上でもなければそれ以下でもない。とすれば、価格は人々の気分で決まるものであるから、気分が変われば価格も変わる。そして気分は変わりやすいものである。それ以上のことを考えるのは、無駄というものであろう。(『経済学の船出』安冨歩 p.94)

利益とは

利益(profit)と利益性(profitability)は、確かに、決定的に重要である。社会にとってもそうであり、ここの企業にとってはなおさらである。とはいえ、利益性は事業組織や事業活動や事業決定にとって、目的ではなく制約要因である。利益は事業活動や事業決定の理由や原因や本義たりえない。利益はその正しさの試金石である。
この引用文が明確に指摘するように、企業の目的は利益ではない。利益は企業が存続するための条件にすぎない。利益が出ないような事業は確かに継続できない。しかし利益は何をすべきかを教えてくれない。何をするかを決めたときにはじめて、その事業が利益を生むかどうかが問題となりうる。何をするかを決めない限り、利益の有無を等ことすらできない。この何をするか、ということを正しく見抜くことで有効性が実現される。そのあとで、利益が出るように事業を推進するために、効率性を考えねばならない。(『経済学の船出』安冨歩 p.90)

君子と君主と政

「君子」という概念を見て欲しい。君子は君主ではない。『論語』は、君主のあり方をといた帝王学ではないのである。君子には誰でもなれる。君子になろうと本当に思うかどうかがすべてである。君子は「政」を行う。しかしその政は、国家の政治のことではない。自分自身の身の回りのコミュニケーションの統御のことである。それが「政」である。(略)彼の考えでは、自分自身の周囲のコミュニケーションをマネジメントすることが「政治」であり、自分がたまたま宮廷にいるなら、宮廷の自分の周りのコミュニケーションのマネジメントをするし、そうでなければ、普通の世間で自分の周りのコミュニケーションのマネジメントをするだけのことである。それが彼の言う「政」である。
孔子が主張したことは、社会の様々の場所に君子が出現し、自分の身の回りに秩序を形成することが、社会を秩序化する唯一の道だ、ということである。これはつまり、個々の主体が、社会に参画するなかで、秩序化された社会のサービスを受け取るばかりではなく、自分自身が社会を秩序化するサービスの提供者たるべきだ、という主張である。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.227)

学習の回路をひらかせる

ドラッカーは学習回路の閉じた受け手に対して、ショックを与え、学習回路を作動させ、制約を取り払うケースについて興味深い議論を展開している。
人の心おは、印象や刺激を、予期の枠組みに合致させようとする。それは「心を変えさせ」ようとする、つまり、受け取りを予期していないものを受け取らせ、予期しているものを受け取らせないよゆな、いかなる試みに対しても、頑強に抵抗する。もちろん、受け取ったものが予期に反しているという事実に気づかせることは可能である。しかしそれには、何が受け取られると予想されているか、を事前に知る必要がある。そしてさらに、「これは違う」という明確なシグナル、つまり連続性を打破するショックが必要である。
ドラッカーはこのショックについて、「聖書の伝えるところでは、神でさえ、サウルに衝撃を与えて盲目の状態にしてはじめて、パウロとして自らを立ち上がらせることができたのである」と指摘している。(『経済学の船出』安冨歩 p.122)

「学」と「習」

ここでいう「習」とは、「復習」ではなく、後天的に自分のものとしてしっかり身につけた者、と見るべきである。(略)人間は好奇心の塊であり、知識欲というものがあるので、まなびたいという思いが常にある。ただ、外から知識を得ただけでは、なかなか自分のものにはできない。むしろ、自分を見失って「学び」に振り回されてしまう。(略)「学び」だけでは、取り込んだ情報に振り回されるだけだ。その情報がいつしかしっかりと身について生きた知識となるなら、これが「習う」だ。「学び」を完全に自分の一部にする。「復習をする喜び」などよりはるかに人間にとって普遍的な喜びではないだろうか。かつて取り入れた古い「万安打コオ」が鍛錬の末、新しい自分を育む。それを、親しい友人が遠くから思いがけなくたずねてくれる喜びにたとえられているのではないか。(略)ただ、世の中には当然このような「学び」と「習い」に喜びを見出さない人もいる。頭に情報を詰め込んで、手に利権を掴んでいる人々は、そういった変化を極度に恐るようになる。それを「わかっていない連中だ」と切り捨ててしまっては、永遠にそのような人たちとともに、学習の喜びを分かち合うことはできない。逆にそのような人たちを見ても心穏やかに接することができる人は、彼らの心の蓋を打ち破って、心を開きあうことができる。それこそが「君子」である、と孔子は言っている。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.40)

人と人が読み合うテキスト=コンテクスト

世界で最も信頼される経営学者であったピーター・ドラッカーは企業の目的が利益であることをはっきりと否定した。利益は企業活動の目的ではなく条件にすぎない。利益が出ない活動は継続し得ないという制約を与えるだけであり、企業の目的を規定するものではない。企業の目的のて井荻はひとつしかない。それは、顧客を創造することである。顧客の創造に必要なことはマーケティングとイノベーションである。マーケティングとは、天候でも調べるかのようにマーケットの「需要」を調べることではない。どこでどんな人が自分の会社の商品を購入しているのか調べ、どういう風にすればさらにそういう人々の心をつかむことができるかを工夫することである。顧客を創造するためには、顧客の欲求を知らねばならない。そのような知識を自動的に得る方法はない。さまざまの方法で顧客とコミュニケートするしかない。(略)イノベーションはより低い価格に結果するかもしれないが、より新しくより良い商品、新しい利便性、新しい欲求の定義かもしれない。古い商品の新しい使い方の提案、たとえばものが凍らないようにする装置として「エスキモー」に冷蔵庫を売るセールスマンはイノベーターである。マーケティングとイノベーションにより顧客とのコンテキスト形成に成功すれば結果として利益が出る。利益が出なければそのコンテクストは消えてしまうし、利益が多く出るところには人が集まってくる。この意味で企業活動にとって利益は重要である。しかし、それは阪神タイガースにとって勝利が重要であるのと同じことである。買ったところでファンを失えば意味がない。利益が出たところで、顧客を失えばおしまいである。(略)このような立場から彼らもまた企業の目的を利益の追求とする見方を棄却し、「企業活動の本質はコンテキスト作りだ」という主張を展開する。「そしてこれからの経済の中心になる活動は、相談に乗る、手筈を整える、面倒を見る。励ます、世話をする、立ち上げる、育成する」ことであると指摘する。市場はこうしたコンテクストの作り出すネットワークの働きにより、動的な調整の過程として成立する。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.204)

創発を促す商品・創発を阻害する商品(創発価値説)

そもそも商品・サービスの意義は、利用者の創発を手助けすることにあり、価値は利用者の双発から生じる。これが私の「創発価値説」である。利用者の創発が阻害される要因はいろいろある。たとえば、食料が不足していて死にそうになっている、と言うような場合、生きる力の創発は栄養の不足によって文字通り阻害されている。そこでこの人に食料を供給すれば、自ずから生きる力が発揮されることになる。これは創発が起きた、ということである。つまり、
飢餓→食料の供給→創発(=生きる力の発揮)→生存
ということになっている。
あるいは、創発を発揮するために必要な道具がない、ということも考えられる。たとえばここに面白い小説のアイデアを持っている人がいて、それを小説の形にする能力をもっているが、鉛筆がなくてかけない、と言う場合を考えてみよう。どんなに創発の準備が整っていても、鉛筆がなければ書くことができない。そのときに鉛筆を誰かが供給すれば、阻害要因が見事解除され、自ずから創発が生じる。つまり、
道具の不足→道具の供給→創発(=創作活動)→作品
というわけである。あるいはまた、創発性を発揮するために必要な情報がない、ということも考えられる。たとえば小説を描きたいのだが、鉛筆も髪もあるけれど、舞台となる時代背景についての知識が乏しく、うまく書くことができないとする。そのときに時代背景についての情報を供給すれば、自ずから創発が生じる。つまり、
情報の不足→情報の供給→創発(=創作活動の円滑化)→作品
というわけである。
以上の簡単な考察から、モノや情報の供給によって価値が生み出されるためには、利用者の側に何かしらの創発への構えがあり、それを何かが阻害していなければならないことがわかる。社会全体で商品が不足している場合、とりあえず何かを供給すればいずれかの消費者がそれを利用して創発することができる。このとき、紛れもなく富は商品の集積のごとくみえる。商品さえあれば、いつでも双発が起きて価値が生み出されるのであるから。
ところがもし、飢餓もなく、道具もいつでも安く手に入り、情報も氾濫しているとしたらどうであろうか。当然のことであるがこの場合には、商品をいくら供給しても創発は起きない。商品の消費が価値を産まなくなっているのである。欠乏しているのは、商品ではない。商品も情報も過剰な時代に不足しているのは、人々の創発への構えの方なのである。それを開くことが、価値を生み出すために不可欠である。
ではどうしたらよいのであろうか。問題は創発の構えがなぜ不足するのか、である。商品お不足は創発を発揮する条件を失わせるが、創発の構えそのものは、ハラスメントによって失われる。人々が自分の感覚を受け止め、その意味を理解するという暗黙の次元の作動は、ハラスメントによって阻害される。それどころか、ドラッカーが指摘したように、情報が溢れかえる時代には、すべての情報発信がプロパガンダと化すことで、虚無主義を蔓延させてしまう。この虚無主義が創発を阻害し、社会を停滞させる。つまり、商品や情報の氾濫そのものが、創発の構えを失わせる効果を持つ。
自らの感覚から乖離させられた人間は無力感に浸ることになり、商品の利用者ではなくなり、単なる消費者となる。単なる消費者とは、自らの苦しみの原因から目を背け、そこから生じる痛みをごまかすための刺激を求めて、必要もないのに商品やサービスを蕩尽(とうじん)する者である。その消費活動は、創発を伴わず、価値を生み出さないので、ただただ資源を浪費する。このような状況に陥った消費者ばかりが存在する市場では、何を供給しても価値は生み出されない。それゆえ、創発の構えを回復し、消費者を利用者へと転換することが、経済活動の大前提となるが、それには、消費者の感覚を呼び覚まし、生きる力の発揮を可能にすることが不可欠である。(『経済学の船出』安冨歩 p.165)

破壊的組織・創造的組織

さきほどのコーチングの例になぞらえて言えば、教える側と教えられる側に切り分けて、前者が後者になんらかのメソッドを強要するなら、後者の動きはぎこちなくなってしまうだけである。そうではなく、教える側と教えられる側がすでに持っているものをつなぎ合わせ、そこにひとつのコミュニケーションの運動を作り出し、そこから新しい動きを生み出していくのである。すでにある現実の積極的に捉え、そこにかかわるさまざまな要素を相互に接続することでなんらかの価値の創出をめざす上で重要性を帯びるのは、参加する人々の相互関係の構築である。(略)ここでたとえばなんらかの社会変革の活動の実現を考えたとしよう。そのとき、活動に参加する主体が、このような接続関係をあらかじめ設計することは不可能である。そうした関係は、その活動の中で「理念」を共有し、共に行動する主体を確保しつつ、常に運動の進展とともに回帰的に模索しながら構築せねばならない。活動をすすめていくには、主体的参加者を確保していき、ここの人がそれぞれの接続可能な場所で独自の立場から貢献していかねばならない。その上で参加者は共通の理念を持ち、その理念に基づいて個別に判断を下す。直接の目標となるのは、このような家庭の持続的再生産とその拡大であり、具体的な行動の方向や短期的目標は常に流動化させる必要がある。
さらに活動の参加者をひとつの組織として明確化することも、できるかぎり避ける必要がある。阻止気を固定してしまうと、その固定化された組織そのものの維持が目的溶かす恐れがあるからである。そうすることでコミュニケーションの活性は往々にして落ちる。渦の運動がその中心の移動を欲するなら、運動を提起した人物がその中心を離れる必要も生じうる。渦が起きやすいところから、渦を起こし、あちこちで生じた渦を相互に接続し、大きな渦を作り出すことを目指すのが、「共生的価値創出」の重要な点である。
また、外部から投入する資源を広く人々に散布したり、あるいは活動状況を広く世間に訴えかけたり、というような方向も意図的に避けるべきである。(略)同じことはコミュニケーションの側面でも言える。限られた人的資源を多くの人々と接触することに投入しても、長期的効果は期待できない。逆に、理念を共有する限られた人物とそのネットワークに集中的に接続し、資源を投入することで、コアとなるコミュニケーションの形態を創り出すことが第一段階の目標となる。ここに人的信頼関係を創り出し、理念を共有し、またそれを発展させ、実践する人々のネットワークを構築せねばならない。ここには社会における固有名あるいは人格をいかにとらえるかという問題が深くかかわっている。あえていうなら、活動の目標のひとつは「特定の人格のエンパワーメント」でなければならない。(『複雑さを生きる』安冨歩 p.129)

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